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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第三章 色彩の再構築

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第39話 水平線の選択 ~陽斗視点~

 リビングに、紙が微かに震える乾いた音だけが響いていた。

 

 キッチンで淹れたアールグレイの香りがまだ漂う朝、詩織が俺の背後に立ったのは分かっていたが、その気配はいつになく重く、湿り気を帯びていた。

 振り返れば、詩織は一通の封書を、壊れ物を扱うような手つきで握りしめている。彼女はそれを、まるで自分自身の運命を裁く宣告書であるかのように、何度も何度も視線でなぞり直していた。

 やがて、詩織は震える指先でその封を切り、中にある白すぎる紙面を俺へと差し出した。

 

「陽斗さん……これ」


 受け取ったその瞬間、指先に伝わってきたのは、驚くほど冷たく、そして指を切るほどに硬質な紙の感触だった。

 エンジニアとして生きてきた俺にとって、そこに並ぶフランス語の装飾的な活字は、意味を持たない無機質な記号の羅列に過ぎない。俺にはそれを読むことも、発音することさえ叶わなかった。

 

 (……なんだ、これは。フランスからの手紙か?)

 

 俺の困惑を察したのか、詩織が消え入りそうな声で、その公文書の意味を口にした。フランスの美術学校から届いた、一年間に及ぶ研修留学の許可証。


「……留学? お前、こんなものを出していたのか」


 俺の問いに、詩織はただ小さく、折れそうなほど弱々しく頷いた。

 初耳だった。彼女が自分に黙って、これほど大きな決断を、海の向こうへ向けて投じていたなどとは。

 その事実を脳が理解した瞬間、公用印の重みが俺の掌を通じて全身へと伝播し、このリビングの穏やかな空気を一瞬で塗りつぶしていく。窓からの反射を受けて、紙面の白が俺の眼球を刺すように照り返した。俺はそれを、無言のままテーブルの上へと置いた。


 視線の先、テーブルに横たわる一通の書面。それは今や、俺たちの間に横たわる、剥き出しの刃物のような鋭利な存在感を放っている。

 彼女に舞い込んだ、世界へ羽ばたくための切符。それを喜ぶべきだと分かっていながら、俺の心は醜い独占欲に焼かれていた。


 思えば、このチケットは彼女が過去を振り切るために、自ら退路を断ち、必死に手を伸ばして掴み取ったという。

 五年という歳月を共にした男からの一方的な別れ。人生の設計図を無惨に引き裂かれ、信じていた未来を粉々に打ち砕かれたあの日。この国に留まることさえ、肺に焼けた鉄を吸い込むように息苦しくなった彼女が、再生を懸けて、半ば逃げるように、それとも半ば自分を証明するために出願した執念の戦果。

 一人の人間として、そして地獄の底から彼女を掬い上げた自負のある男として、この飛翔を祝福すべきなのは、脳髄の隅々にまで染み渡るほど痛切に理解している。


 彼女をこの街に留め置けば、彼女の才能を殺すことになる。

 しかし、手放せば、俺の心は再び光のない監獄に戻るだろう。

 神戸の港を見下ろしながら、俺は自己矛盾という名の泥沼に沈んでいた。


 行かせたくない。この砦に閉じ込め、俺の視界の中にだけ、永遠に繋ぎ止めてしまいたい。そんな、どろりと濁った渇望が、喉の奥までせり上がってくる。

 

 貝村興産の社長は俺を『優秀な道具』として扱い、浩美は俺を『自分の所有物』として並べ立てた。俺はそんな彼らを、心の底から軽蔑していたはずだ。人間を自分の都合に合わせるための交換可能なパーツ、あるいはコレクションの一部としか見なさない、あの醜悪な支配欲。

 では、今の俺は、それと何が違うというのか。俺は、自分が最も忌み嫌った支配者と同じ目をしながら、彼女を眺めているのではないか。愛という言葉で飾り立てただけの卑怯な搾取ではないのか。


 

 朝の空気を震わせる、わずかな緊張。

 許可証を差し出した後も、詩織はその場に立ち尽くしていた。夢を掴んだ喜びよりも、俺を置いていくことへの悲痛な迷いを、その瞳に宿して。

 彼女の指先が、まだ微かに震えている。その震えは、俺の沈黙が彼女にとってどれほど重たい鎖になっているかを物語っていた。その揺れる瞳を見た瞬間、俺の中に残っていた甘い感傷や、共に歩む未来という名のお花畑が、音を立てて崩れ落ちた。


「なぜ、今頃になって……」


 詩織が、絞り出すような声で呟いた。

 その言葉には、複雑な感情が入り混じっていた。

 以前、あの最悪の別れを突きつけられた直後、藁をも掴む思いで出願した時の絶望。その返答が、俺という新しい居場所を見つけた”今”届いたことへの皮肉。彼女の心は、以前自分が望んだ救いと、今ここにある幸せとの間で、無惨に引き裂かれている。


(あぁ、そうか。詩織は今、俺のためにその夢を捨てようかと考え始めてるのか)


 彼女の献身に甘えることは容易い。とは言え、それは愛ではない。共依存という名の緩やかな自殺だ。

 俺が彼女の足枷になり、彼女が俺の欠損を埋めるためだけの血の通った義足になる。そんな関係は、俺が死に物狂いで戦い、拒絶してきたあの醜悪な組織の構図そのものではないか。

 俺は、彼女を救ったはずのこの手で、彼女の未来という名の最も美しい蕾をねじ切ろうとしている自分自身に、猛烈な殺意を覚えた。


 泥から這い上がるために、俺は『俺』という存在さえも、無慈悲に切り離す。

 

 わざとらしく、鼻で笑ってみせた。

 視線を進行中のプロジェクトが映るモニターへと戻し、テーブルの許可証を冷淡に一瞥する。その瞳には、親愛も、慈しみも、あえて一切を乗せなかった。


「何を迷っているんだ、詩織。その程度のチャンスで迷うなら、プロとして失格だ」


 突き放すような俺の硬く乾いた声がリビングに響く。彼女がびくりと肩を揺らし、息を呑む音が聞こえた。

 俺は構わずに、さらに言葉を重ねる。自分自身の心臓を、鋭利なガラス片で丹念に削り取るような、言葉にできない激痛を押し殺して。


「詩織がフランスへ行こうが、どこへ行こうが自由だ。いいか、勘違いするな。詩織が去っても、俺の生活に支障はない。そもそも、一人いなくなったところで、俺の仕事が変わるわけでも、俺の価値が揺らぐわけでもないだろ?」


 それは、完璧な拒絶の形を模した、俺なりの唯一の愛だった。

 彼女が前の男に一方的に捨てられたことで負った、『自分は誰かの重荷にしかならない』という呪い。

 それを解くためには、俺は今、彼女を一人でも高く飛べる一個の強者として、冷たく突き放さなければならない。

 俺が彼女を必要としているのではない。彼女が、世界に必要とされているのだ。

 俺という足枷を外し、彼女が彼女自身の意志で、水平線の向こう側へと漕ぎ出すために。俺は、彼女の罪悪感という最後の手綱を、自らの手で断ち切った。


「陽斗……さん」


 彼女の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙が溢れ落ち、床に小さな染みを作る。

 その涙を指先で拭ってやりたい。『大丈夫だ』と、『本当は行かせたくない』と、子供のように縋り付いて泣き喚きたいという狂おしいほどの衝動が、全身の筋肉を岩のように硬直させる。

 それでも、俺は一切の妥協を見せず、鋼のように研ぎ澄まされた視線を維持し続けた。


「用が済んだなら、仕事の邪魔だ。さっさと準備を始めたらどうだ。これ以上、詩織の個人的な、感傷的な事情に付き合っている暇はない。俺には、俺の果たすべき仕事がある」


 俺は再び、窓の外の景色に視線を戻した。

 一年。三百六十五日。その気が遠くなるような時間を、俺はこの砦で、再び独りで戦い続けることになる。アールグレイの香りが消えた部屋で、彼女が描いたキャンバスの残滓だけを眺め、飢えた獣のように孤独を咀嚼する。

 

 だが、それでいい。

 彼女がパリの空の下で、俺という不純物を排した、彼女自身だけの色彩を見つけ出すことができるなら。以前俺を救ったあの光を、世界という巨大なキャンバスにぶちまけることができるなら。


(行け、詩織。君を捨てたあの男も、君を繋ぎ止めようとした俺という弱さも、すべてを過去という名の残骸に置き去りにして。君は、世界で一番自由な画家として、堂々とあの大地を踏みしめるんだ)


 窓の外、水平線から昇る太陽が、神戸の海を無慈悲なまでの白銀に染め上げていく。その輝きは、まるで二人を分かつ境界線のように、残酷に美しく光り輝いている。

 

 背後で、彼女が「大っ嫌い!」と、喉の奥で押し殺したような、震える声で呟いた。


 重い扉が閉まる乾いた音。

 その瞬間、俺の心は音もなく砕け散り、永遠に修復不可能な欠落へと沈んでいった。けれども、その漆黒の虚無は、かつてないほど強固な孤独の覚悟へと、ただ静かに、そして深く塗りつぶされていった。

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