第38話 色彩の肖像 ~詩織視点~
ポートアイランドを吹き抜ける海風は、窓の僅かな隙間を縫って滑り込むたびに、冬の凍てついた記憶を微かに含んだ潮の香りを連れてくる。その冷気は、私の火照った頬をなで、心の奥底にある澱を静かに、逃れようのない確かさで震わせる。
使い込まれたイーゼルの前に腰を下ろし、指先の感覚の一部となったパレットナイフを、壊れ物を守るような、あるいは武器を握るような力強さでぎゅっと握り締める。
私の世界からすべての色彩が砂時計の砂のごとく音もなく消え去ってしまったあの日々。目の前のキャンバスがただの白磁のような、冷たく、そしてどこまでも高く越えられない絶壁に見えていたあの絶望。それらは今、遠い異国の地で、名前も知らない誰かによって綴られた悲劇のひと幕に思えてならなかった。
遮るもののない二十五階の窓からは、ポートタワーの赤色や、海を行き交う船の船腹を白銀に染め上げる、無慈悲なまでに明るい旭日が溢れ出している。その光に導かれるようにして、私のキャンバスには、失われていた命の拍動が、鮮烈な色彩となって戻ってきたのだ。
描き出したのは、ベランダの手すりに無造作に寄り添い、遠く水平線の向こう、まだ見ぬ明日を見つめて微かに目を細めた陽斗さんの肖像画。
(あぁ……ようやく、ようやくこの色に辿り着けた。暗い暗い迷宮の中を彷徨いながら、私はこれだけを探していたんだわ)
筆を滑らせ、重厚な油絵具を幾重にも乗せていくたびに、胸の奥が熱い蜜を流し込まれたように甘く、同時に、鋭利な刃で切り裂かれるような切なさに激しく締め付けられる。
貝村興産という名の、欲望だけで肥大化した巨大な怪物の胃袋の中で、その心ごと無残に擦り減らされ、信じていた上司や同僚たちに背中から刺されるような裏切りに遭い、最後には冷たい床に投げ捨てられたジェラルミンのケース。あの血の通わぬ手切れ金と共に、彼が命を削って積み上げてきた誇りまでをも、公衆の面前で無残に切り刻まれたあの日。
陽斗さんの唇から、絞り出されるようにこぼれ落ちた、あまりに凄惨で救いのない過去。彼がたった一人、誰にも見せずに抱え続けてきたその傷痕の深さが、重厚な油彩の層となり、今、私の手によってキャンバスの上に厚く、重く、地層のように重なっていく。
そこに置いたのは決して、彼を不要品と呼んで嘲笑った人たちが好むような濁った黒や、すべてを諦めて沈み込むような死の色ではない。
私が描き出したのは、彼自身さえもまだ気づいていない、深い慈しみと、誰にも踏み込ませなかった気高い孤独が、複雑なマーブル模様のように溶け合った、この宇宙にたった一つしかない色だった。
誰にも頼らず、誰の侵入も許さず、たった一人で高く険しく、あまりに寂しい無機質な”砦”を築き、その最上階で凍え震えていた剥き出しの魂。それが私という、何の関係もない存在を見つけ、あの日、北野の坂道で、そして校門の前で、プライドも何もかもをかなぐり捨て、なりふり構わず真っ直ぐに、震える手を伸ばしてくれた。
その瞬間に、彼の魂が放った微かな命の輝き。
キャンバスの中の陽斗さんは、驚くほど強靭な意志を宿し、それでいて、私の指が少し触れれば一瞬で崩れ去ってしまうほどに脆い。
エリートという名の自分を殺して纏い続けた空虚で重たい鎧を自ら脱ぎ捨て、泥にまみれ、膝を突きながら、ただ私の名前を呼んでくれたあの日の熱を帯びた眼差し。縋るような、すべてを投げ打つ覚悟を決めた、あまりに美しい男の横顔。
描き終えた瞬間、私はすとんと、現実の底が抜け落ちたような深い場所へ、音もなく落ちていく眩暈に似た感覚に襲われた。
(……あぁ、そっか。私は、気づいちゃった。認めちゃったんだわ。もう、逃げられないほどに)
筆を置き、まだ乾ききらずに朝の光を反射して、まるで生きているかのように艶めく画面を見つめる。
私は、この人の魂を、絵の中に永遠に閉じ込めてしまいたい。そう願ってしまうほどに、私はこの人を愛しているのだ。
誰も知らない彼の弱さも、私だけに見せてくれる安らかな吐息も、朝の光に透ける柔らかな髪のひと房さえも。そのすべてを私の筆で独占して、世界の誰の手にも、その指先すら触れさせたくない。この至高の色彩を、私だけの聖域の誰にも見つからない奥深くに隠しておきたい。
それは、表現者としての純粋な欲求を超えた、一人の女としての恐ろしいほどに独善的で、醜いまでの狂おしい執着だった。
不意に、背後でリビングの扉が、静かに開いた。
「詩織、まだ描いているのか? そろそろ、休んだらどうだ」
振り返れば、そこには肖像画の主が、少しだけ呆れたような、どこまでも深い慈愛を湛えた瞳で立っている。
その、実体としての温もりを持った姿を見ただけで、私の心の中に渦巻いていた、暗い泥のような絵具をぶちまけたような独占欲は、春の強烈な陽光を浴びた残雪のように、一瞬で温かな透明へと浄化され、消えていく。
「陽斗さん……見てください。今の私の中での最高の一枚です」
私は微笑み、絵具で汚れた指先を気にすることもなく、彼を手招きした。
彼が私の隣に歩み寄り、少しだけ照れくさそうに、私への絶対的な信頼を込めた真剣な眼差しで、キャンバスに描かれた自分の姿を見つめる。
その時、ふと彼の手が私の肩にそっと置かれた。大きくて、節くれだった、苦労を刻んできた男性の手。その確かな、脈打つ体温が、シャツの薄い布地を容易く透過して私の心臓を激しく打ち鳴らし、停滞していた私の世界に、鮮烈な”生”の実感を流し込んでくる。
彼が失ったものは、あまりに多すぎて、私のような人間には想像も及ばないのかもしれない。
貝村興産の社長や、浩美さんという人たちが、彼の価値を自分たちの利益のための記号や資産としてしか見なかったせいで、彼は自分の本当の色を、その魂の輝きを、ずっと見失わされていた。
利用され、踏みつけられ、価値がなくなれば掃き溜めへ。そんな残酷な世界で、彼はどれほどの孤独を耐えてきたのだろう。
これからの時間は、私が彼の世界を何度でも、何度でも、飽きることなく、見たこともないほど色鮮やかに塗り替えていく。
キャンバスという、枠に囚われた静止した世界に閉じ込める必要なんて、本当はどこにもないのだ。
目の前にいるこの人の生きている鼓動を、指先の温もりを、私は一生をかけて、その瞳に映る神戸の景色ごと、私の魂のすべてを注いで愛し抜く。
(浩美さん。貴女が見ていたのは、彼が纏っていた『条件』という名の、いつか剥がれ落ちるメッキでしかなかった。でも、私が見ているのは……彼が絶望の淵で刻んできた『痛み』と、その先でようやく、私を求めて息づき始めた『命』そのものなんです)
ポートアイランドの二十五階。高くそびえる砦の光に満ちたリビングで。
神戸の柔らかな光が、寄り添う二人の影を一続きの何ものにも侵されない美しい色彩へと、永遠に、そして深く溶け込ませていった。
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