閑話 精密機械の隣 ~高橋視点~
月初め、朝の陽光が差し込む大会議室。
システム開発部の定例会議が始まる直前、室内には冷え切った緊張感が満ちていた。
まだ部長すら姿を見せていないというのに、部員たちがまるでお通夜のような顔で固まっているのは、一人の男の存在ゆえだ。
浅井陽斗。
一分の隙もない姿勢で、事前に提出された報告資料に目を走らせるその姿は、まさに研ぎ澄まされた刃。彼は会議の開始を待つわずかな時間さえ、無駄にすることはない。
「……三島」
静かな、だが逃げ場のない声が響いた。名前を呼ばれた中堅社員が、びくりと肩を揺らす。
「は、はい……!」
「この報告書の五八行目、句読点の付け方がおかしい。それと、一二八行目の言葉遣い。『だいたい』と書かれているが、具体性欠如で誤解を招く表現だ。具体的な数値や事実を示し、責任ある表現に修正して明日までに再提出を」
「はい、申し訳ありません!」
浅井は決して声を荒らげることはない。だが、寸分の狂いもない理路整然とした論理で、淡々と間違いだけを摘出していく。叱責よりも重い事実の宣告に、三島は青ざめた顔で頷くことしかできなかった。
そんな凍りついた空間の扉が、不意に勢いよく開いた。
「皆、済まない。待たせたな。今日から我が部署に配属された高橋君だ。高橋君、自己紹介を」
ようやく現れた部長の背後から、ひょっこりと顔を出したのは、場にそぐわないほど明るい笑みを湛えた青年だった。
「どうも〜。本日付けで配属になりました、高橋一成です! 皆さん、以後お見知りおきを!」
高橋はフロアに響き渡る声で挨拶をすると、驚くべき行動に出た。部長の紹介が終わるのも待たず、迷いのない足取りで浅井の真横まで歩み寄ったのだ。
「浅井さん、お久しぶりです! また隣、失礼しますね。あっ、ここ僕の特等席ってことでいいですよね?」
高橋は入社初日とは思えない図々しさで、陽斗のすぐ隣に椅子を引いた。
会議室に、文字通りの戦慄が走った。
(こ、この新人……あの浅井さんの隣に自分から!?)
(今すぐ、あの淡々とした『理の刃』でバラバラにされるぞ……!)
周囲が嵐の予感に身を縮める中、浅井はゆっくりと顔を上げた。
「はぁ~。……高橋。挨拶は丁寧にしろと言ったはずだ。それに、その椅子を引く音がうるさい。少しは緊張感というものを持て」
「えー、厳しいなあ。浅井さん、相変わらずそのネクタイ、ミリ単位で真っ直ぐですね。もしかして毎朝、定規でも当てて測ってるんですか? 職人芸すぎて、ちょっと引きますよ」
室内が、今度こそ完全に静まり返った。
絶対的な論理の権身に対し、そこまで踏み込んだ冗談を叩きつける勇者は、後にも先にもこの男一人だろう。
だが、陽斗の口から漏れたのは、鋭い指摘ではなく、呆れたような溜息だった。
「……お前と一緒にされると、私まで品性を疑われる。ふざけていないで資料を読め」
「げっ、いきなり手厳しいっすね! でも浅井さん、そんな怖い顔してたら、新しい職場のみんながビビっちゃいますよ。もっとこう、仏のような微笑みをですね……」
「……ふん。相変わらずだな」
浅井の声は相変わらず低かったが、そこには明らかに他者へ向けるものとは違う柔らかさが混じっていた。
会議が終わり、開発フロアへ戻った後も、その異景は続いた。
その光景を、誰もが『公開処刑の序章』だと思ったに違いない。
三宮の洗練されたオフィス。その中心で『精密機械』と畏怖される男のデスクに、高橋はあろうことか鼻歌交じりに近づいていったのだ。
高橋は、つい数日前までの、あの澱んだ貝村興産の空気を思い出していた。
(いやぁ、それにしても……。一次も二次も最終面接までも、面接官が「浅井の推薦なら」ってサクサク通してくれるから、逆に怖かったっすよ、浅井さん)
そんな内心を微塵も見せず、高橋はデスクの主に向かって、極めて図々しく声をかけた。
「失礼しまーす! あっ、いたいた。浅井さーん、さっきの仕様書の件なんですけど……ちょっとここ、細かすぎて僕の頭だと知恵熱出そうなんですけど! もう少し、人間味のある書き方に翻訳してもらえません?」
フロアの空気が、一瞬で凍りついた。
同僚たちはキーボードを打つ手を止め、絶望的な面持ちで高橋の背中を見つめている。
「……高橋。お前、入社初日からその態度はどうなんだ。ここは貝村興産じゃない。少しは緊張感というものを持て」
「またそんな顔してー。浅井さん、眉間にシワ寄りすぎて、そこからビーム出そうですよ? ビーって。せっかくのイケメンが台無しですって。ほら、深呼吸、深呼吸!」
「……ふん。相変わらずだな。仕様書のどこが理解できない。貸してみろ」
陽斗は呆れたように短く息を吐き、隣に椅子を引き寄せた。
その動作一つをとっても、以前のような他者を拒絶する壁はどこにもない。
「えー、ここですよ。この制御フロー。浅井さんが書くと美しすぎて、僕みたいな凡人には芸術鑑賞になっちゃうんですよ」
「お前の能天気な脳細胞でも理解できるように、注釈を入れてやる。今日中に仕上げろ。終わらなければ、歓迎会の酒が不味くなるぞ」
「わっ! それパワハラっすか? あっ、でも浅井さんの奢りなら喜んで残業しちゃいますけど!」
高橋の軽口に対し、陽斗は「……馬鹿を言うな」と口端をわずかに緩めた。
その瞬間、遠巻きに見ていた同僚たちの間で、見えない衝撃波が走った。
(……笑った? あの『精密機械』が、あんなに柔らかい声で……?)
高橋は、背後に突き刺さる驚愕の視線を背中で受け止めながら、密かに勝利の笑みを浮かべた。
あの日、幽霊のように青白い顔で去っていった背中。
今、目の前にいる浅井陽斗は、確かに地に足をつけ、血の通った人間としてここにいる。
「……浅井さん。やっぱり、こっちに来て正解でしたね。あと……ちょっとだけ、優しくなりました?」
浅井は一瞬だけ筆を止め、窓の外に広がる神戸の空を仰いだ。
「……お前の錯覚だ。早く席に戻れ。無駄口を叩く暇があるならコードを一行でも多く書け。高橋一成」
「へいへい、リーダー! 仰せのままに!」
――――
午後の休憩時間。自販機が並ぶ休憩スペースで、高橋はさっそく数人の女子社員に取り囲まれていた。
「ねぇ、高橋くん。あなた、浅井さんと知り合いなの?」
「びっくりしたわよ、あの浅井さんにビームだなんて。命がいくつあっても足りないわよ」
高橋は缶コーヒーを手に、へらっと笑った。
「ああ、前の職場で僕の上司だったんですよ。僕が新人だった頃からずっと仕込まれてたんで、扱いは心得てます」
「前から、あんなに厳しくて怖かったの?」
「厳しかったっすねえ。間違いは秒で詰めてくるし、妥協は一切なし。でも、今の方がずっと人間っぽくなってて驚きましたよ。以前はもっと、なんて言うか……感情を全部冷凍庫に叩き込んだみたいな感じでしたから」
「……それで、一番大事なこと聞いていい?」
女子社員の一人が、声を潜めて聞いた。
「浅井さんって、彼女いるの? 私たち、ずっと気になってたのよ」
「……はいぃ?」
高橋は、思わず吹き出しそうになったコーヒーを飲み込んだ。
「え、皆さん、浅井さん狙いなんですか? あの鉄面皮ですよ?」
「何言ってるのよ。浅井さん、このフロアどころか社内外でも絶大な人気なんだから」
「そうそう。そりゃあ、見た目がいいのは当然なんだけど……」
女子社員たちは、少し頬を染めて顔を見合わせた。
「あの突き放すような冷淡な顔で仕事してるのに、ふとした瞬間にね、すごく優しげな眼差しを見せることがあるのよ」
「窓の外を見てる時とか、誰かの質問に答える直前の一瞬とか。あのギャップがもう、たまらなくて……」
高橋は、呆れを通り越して驚愕に目を見開いた。
(あの浅井さんが? 優しげな眼差し? ギャップ……だと?)
前の職場では、浅井が振り返るだけで部下が石化し、彼が口を開けば周囲の気温が数度下がるとまで言われていたのだ。彼に向ける視線といえば、畏怖か、さもなくば疲弊しきった同情くらいのものだったはずだ。
「いや、マジっすか。あの人、前の職場じゃ『人の皮を被った精密機械』って呼ばれてたんですよ? 眼差し一つで人を動けなくさせるタイプだったのに」
「嘘、信じられない。今の浅井さん、すごく雰囲気あるわよ。……高橋くん、何か心当たりないの? 浅井さんをそんな風に変えた、素敵な女性の影とかさ」
高橋は、浅井が返信で見せていたあの少し穏やかな気配を思い出し、喉元まで出かかった「まさか」を飲み込んだ。
(確かに、今の浅井さんは地の底を這っていた頃とは違う。あの日、幽霊のように消えかけた彼を、ここまでの人間に引き戻した何かが……誰かがいるのか?)
「……どうでしょうね。でも、今の浅井さんを見てると、よっぽどいい出会いがあったんだろうなーとは思いますよ。僕の軽口を許してくれるくらいには、心が温まってますから。……あっ、でも皆さんは不用意に近づかない方がいいっすよ。あの人、仕事に関しては今でも一ミリも手を抜かない『精密機械』ですからね。ケガしちゃいますよ」
高橋が軽快な足取りで自席へと戻る。
かつての泥亀の背中を追っていた亡霊たちは、もうここにはいない。
あるのは、互いを認め合い、高め合うための清浄な戦場と、かつてより少しだけ饒舌になった、尊敬すべき上司の背中だけだ。
(さてと。浅井さんをここまで変えた『何か』……。いつか暴いてやるとしますかね)
高橋は、期待に胸を膨らませながら、新しい職場のキーボードを叩き始めた。
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