第37話 泥亀の背を追う亡霊たち ~陽斗視点~
三宮のランドマークとして君臨する自社ビル。その最上階へと向かうエレベーターの速度は、俺の思考の加速に似ていた。
遮熱加工が施された複層ガラスの向こう側には、午後の柔らかな陽光を浴びて輝く神戸港のパノラマが、まるで世界を掌中に収めたかのように広がっている。
このオフィスは、以前の職場にあった不快な紫煙や、隠れて吐き捨てられる陰口の澱み、そして意味のない精神論の押し付けといった不純物が、高度な空調システムによって徹底的に排除されていた。完全禁煙が義務付けられた空間には、ただ精密に管理された空気と、真摯に仕事と向き合う者たちが放つ、静かな熱量だけが満ちている。
俺は今、重厚な社長室の扉の前に立っていた。以前の俺なら、一生をかけてもその内側に足を踏み入れることさえ叶わなかったであろう場所だ。
コンコン、と控えめにノックを刻む。
「失礼します。浅井です。お呼びとの事でしたが?」
扉を開けると、そこには我が社の社長のみならず、専務、常務、人事部長までもが重鎮のように顔を揃えていた。室内に漂うのは、最高級の茶葉の香りと、どこか楽しげな好奇心の混じった空気だった。
「あぁ、浅井君。急に呼び出して済まない。少しこちらへ来てくれないか」
社長に促され、俺は応接用テーブルの一角に腰を下ろした。目の前には、十数枚の履歴書が整然と、それでいてどこか無様な様子で並べられていた。
「さて、浅井君。これらは、君が以前勤めていた貝村興産のシステム情報部の面々だそうだ。我が社の求人枠に、一斉に履歴書が送られてきましてね。……見ての通り、なかなかの数だ」
人事部長が苦笑しながら、その束を俺の方へ滑らせた。
「君が我が社に来てからの活躍は、役員一同、言葉を失うほど高く評価している。そこでだ。君が以前いた場所で、君の目から見て『真面目』だと、あるいは『仕事ができる』と思われる人物がいれば、ぜひ教えて欲しい。君の推薦があれば、我々も前向きに検討しようと思ってね」
俺は無言で、その履歴書の山に手を伸ばした。
一番上にあったのは、つい先日、電話口で惨めに縋り付いてきたあの男、佐々木の顔写真だった。
皮肉なものだ、俺を『惨めな泥亀』と指差して笑っていた連中が、今や生き残るために、その『泥亀』が切り拓いた輝かしい航路に便乗しようと、必死に手を伸ばしている。
俺は一枚一枚、丁寧に目を通していく。
彼らがこの数年間、心血を注いできたのは、コンピュータのコードを磨くことでも、システムの効率化を追求することでもなかった。
いかにして権力者に気に入られるか。いかにして他人の成果を自分のものとして見せかけるか。そして、いかにして自分より下の人間を叩き潰して優越感に浸るか。
そんな、組織という閉鎖回路の中でしか通用しない、腐敗した遊戯に現を抜かしていただけなのだ。
(……救いようがないな。以前と何も変わっていない。いや、劣化していると言ってもいい)
その束の中ほどで、俺の手が止まった。
『高橋』。以前の俺の部下だ。
新人の頃から俺が目をかけ、実直な仕事ぶりを評価していた男。ひょうひょうとした性格で、周囲が俺を『冷たい合理主義者』と遠巻きにする中、唯一「浅井さん、また眉間に皺寄ってますよ。寿命縮みますよ?」などと軽口を叩いてきた男だ。
俺が貝村興産を追われるあの日。
周囲が嘲笑を浴びせる中、彼だけは最後まで俺のデスクの片付けを手伝おうとし、申し訳なさそうに、純粋な瞳で「……僕は、浅井さんを信じてますから」と小声で告げてくれた。
彼自身のスキルも、あの中では頭一つ抜けていた。俺が課した難解なデバッグ作業を、飄々と「いやー、これ嫌がらせっすか?」と笑いながら、期限通りに完璧に仕上げてきた実績がある。
「……浅井君? どうかな、目に留まる者はいたかね」
常務の問いかけに、俺は佐々木たちの履歴書を迷わず脇へ除け、一枚の紙だけを机の中央に残した。
「まず、この除けた者たちについてですが。彼らの経歴に記された成果の多くは虚飾であり、他者の功績を掠め取ったものに過ぎません。技術を『他者を見下すための武器』としか考えない彼らを招き入れることは、我が社の根幹を腐らせます。全員、不採用で構いません」
俺の宣告に、役員たちが満足そうに頷く。
「……ですが、この高橋という男だけは別です。彼は、あのような腐った環境にあっても、唯一、自身の技術と誠実さを失わなかった。私の無理な要求にも、愚痴をこぼしながらも完璧に応えてみせる実戦的なスキルを持っています。彼なら、我が社の厳しい基準にも即座に適応するでしょう。何より、私に遠慮なく意見を言える稀有な人材です」
「ほう、浅井君がそこまで買う男か。それに、君に意見を言える人物とはなぁ。それは興味深いな」
社長が楽しげに声を上げた。
「よし、決まりだ。他の者たちは不採用。この高橋君だけは、すぐにでも面接の場をセットしたまえ。浅井君、君が直々に試験官を務めても構わんよ」
「いえ、客観的な評価が必要ですので、私は最終確認だけで結構です」
人事部長が手際よく履歴書を整理し、佐々木たちの人生の証明書は、ただの不要な紙屑として、シュレッダーにかけられるだろう。
――――
社長室の一件から次の日。
手元のスマートフォンが震えた。見れば、メッセージの主は高橋だった。
『浅井さん! 驚きましたよ。さっき人事部から連絡があって、一次面接が決まりました! あんな超大手から声がかかるなんて、奇跡ですよ。もしかして、浅井さんが裏で糸を引いてくれました? だとしたら感謝感激雨あられですよ。いや、でもあの不採用祭りだった連中の阿鼻叫喚を聞く限り、浅井さんのフィルターを通ったのは俺だけっぽいですねwww』
通知画面に躍る文字からは、彼のひょうひょうとした顔が浮かんでくる。相変わらず図々しい奴だ。俺は小さく鼻で笑いながら、画面をスクロールした。
その直後に送られてきたメッセージには、彼らしい深い気遣いが滲んでいた。
『……でも、実は今まで連絡するのを少し躊躇ってました。貝村の連中から「浅井はボロボロになって野垂れ死んだ」なんて意地の悪い噂をずっと聞かされてたんで。本当は心配してたんです。以前、会社を追い出された時の浅井さんの顔、本当に幽霊みたいでしたから。また無茶して、自分を削って生きてるんじゃないかって。浅井さん、ちゃんと人間らしい生活できてますか? ちゃんと飯食って、寝てますか? もし今も冷え切った機械みたいに働いてるんなら、俺が入社できたあかつきには、無理矢理にでも飲み屋に引っ張っていきますからね。覚悟しといてくださいよ』
以前の俺なら、そんな言葉を「余計な世話だ」と一蹴していただろう。
だが、今の俺はもう、孤独の中で摩耗するだけの機械ではない。
俺は、キーボードを叩く指を止め、窓の外に広がる鮮やかな夕焼けを見つめた。
高橋。お前が心配していた”冷え切った俺”は、もうどこにもいない。
(……あぁ。お前がここに来たら、驚くかもしれないな。今の俺が、どんな顔で仕事をしているか)
俺は、高橋への返信を打ち始めた。
『心配無用だ。飯はしっかり食っているし、睡眠も十分だ。お前の言う『人間らしい生活』というのが何を指すかは知らんが、少なくとも以前よりは遥かにマシな環境にいる。面接、せいぜい気合を入れてこい。お前のスキルなら通って当然だが、慢心すれば落とされるぞ。それと、ここは全館禁煙だ。タバコは今のうちに捨てておけ。お前がもし合格したら、その時は、俺が少しは変わったことを証明してやるよ』
送信ボタンを押し、俺は愛する女性が待つあのタワーマンションへ、一刻も早く帰りたかった。
そこには、過去の亡霊たちには一生理解できない、本物の温かな時間が流れているのだから。
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