第36話 青い光と愛彼女弁当の魔法 ~詩織視点~
窓から差し込む朝の柔らかな光が、陽斗さんのマンションのリビングを白く染め上げている。
(ふふ、我ながら完璧な出来栄えかも!)
私は台所に立ち、鼻歌を口ずさみながら最後の一品である出汁巻き卵を重箱の隅に滑り込ませた。今日の目的地は、彼が誘ってくれた須磨の水族園。多忙な彼から誘ってくれたのだ。
三段に重なった重箱の中には、鶏の唐揚げにアスパラの肉巻き、彩りを添えるミニトマト。それから、陽斗さんの好きな甘さを抑えた煮物をぎっしりと詰め込んでいる。美術教師としての性分か、盛り付けの配色や詰め方のバランスにも一切の妥協はしていない。
「……おはよう。朝から随分と賑やかだな」
背後から、少し寝ぼけたような、それでいて心地よい低音の響きが聞こえてきた。振り返ると、寝癖を少しだけ跳ねさせた陽斗さんが、目を擦りながらキッチンを覗き込んでいる。普段、会社で『精密機械』なんて呼ばれている姿からは想像もつかない、この無防備な瞬間を独り占めできるのが、私にとっては何よりの贅沢だった。
「おはよう、陽斗さん! 見て、頑張って作っちゃいました」
私が誇らしげに重箱を指差すと、彼は少しだけ目を見開いて歩み寄ってきた。
「何時から作ってたんだ? これだけの量、相当な手間だっただろう。……重箱まで持ち出すとは、気合が入っているな」
「うーん、秘密。でも、陽斗さんの美味しいっていう顔が見たくて、つい頑張っちゃいました。楽しみですね、須磨」
彼は少しだけ呆れたように笑いながら、でもその瞳には隠しきれない愛おしさが滲んでいる。大きな手が私の頭を軽く撫で、その温もりが心にじんわりと広がっていく。
「準備ができたら行こうか。車を出してくる」
そう言って彼は駐車場へ向かったのだが、数分後、少し困ったような顔をして戻ってきた。
「悪い、詩織。アイツ、機嫌を損ねたみたいだ」
彼の愛車である中古のセダンは、お世辞にも綺麗とは言えない代物だ。陽斗さんのような優秀なエンジニアならもっといい車に乗れるはずなのに、彼は「直せば動くし、愛着があるから」と、その古びた車を大切に乗り続けている。だが、今日はその偏屈な相棒がそっぽを向いたらしい。
「エンジン、かかりませんか?」
「ああ。セルは回るんだが、火が入らない。昨日チェックした時は問題なかったんだがな……。すまない、電車で行くことになるが、構わないか?」
「もちろん! 電車なら、二人でゆっくり景色も見られますし、お散歩気分で楽しいですよ」
私は重たいお弁当の包みを持ち上げようとしたが、それより早く彼の長い指が持ち手を奪い去った。
「重い。これは俺が持つ。駅まで距離もあるし、男に持たせておけ」
有無を言わせない口調。でも、その声はどこまでも優しかった。
最寄り駅からJRに乗り、私たちは須磨海浜公園駅を目指す。車内は休日を楽しむ家族連れやカップルで賑わっていたが、陽斗さんはさりげなく私をドア脇のスペースへ促し、自分の体で人波から守るように立ってくれた。
駅を降りて水族園までの道のり。潮の香りが潮風に乗って運ばれてくる。彼は右手にずっしりと重いお弁当を持ち、空いた左手で私の右手を迷いなく包み込んだ。指と指を深く絡める、恋人繋ぎ。
(あ……。陽斗さんの手、すごく大きくて安心する。指先まで力強くて……)
人前でこんなに堂々と手を繋ぐのは、少しだけ恥ずかしい。でも、一分一秒でも離れたくない。私は彼の腕に少しだけ甘えるように寄り添い、歩調を合わせた。人混みの中で、彼が私を逸らさないようにと片時も離さず寄り添ってくれるのが、たまらなく嬉しかった。
水族園の中に入ると、そこは青い魔法にかかったような世界だった。巨大な水槽の中を、無数の魚たちが光を反射させながら泳いでいる。
「綺麗……」
思わず呟き、水槽に見入ってしまう。深い青の光が館内に満ち、水面の揺らぎが壁や床に複雑な文様を描き出していた。私はその光景を脳裏に焼き付けようと目を凝らす。
「詩織」
不意に名前を呼ばれて振り向くと、すぐそばで陽斗さんが私を見つめていた。その表情は、泳いでいる魚たちよりも、隣にいる私の変化を見逃さないと言わんばかりに真剣で、それでいて熱を帯びていた。
「なあに?」
「いや……。大きな水槽の青い光に照らされてるお前が、あまりに綺麗だったから。……魚を見るのを忘れるところだった」
真顔でそんなことを言われて、顔が熱くなる。
「……もう、陽斗さん。お魚さんを見てくださいってば」
照れ隠しに彼の肩にコテンと頭を乗せると、彼はそれを当然のように受け入れ、さらに強く手を握りしめてくれた。
一通り館内を巡った後、私たちは食事スペースへと向かった。お昼時のフードコートは、うどんやカレーを頬張る家族連れでごった返し、活気に満ちている。周囲の喧騒をよそに、私たちは空いた席を見つけ、お弁当を広げた。
(……あれ?)
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた席に座っている年配の女性が、こちらをちらちらと眺めているのに気づいた。
(やっぱり、陽斗さんが格好いいから見とれちゃってるのかな……。社内一の美男子ですもんね。ちょっと鼻が高いかも)
そんなことを考えて誇らしい気持ちになっていると、陽斗さんは周囲の視線など全く気にする様子もなく、私が広げた三段のお重を感嘆の瞳で見つめていた。
「さあ、召し上がれ」
彼が真っ先に箸を伸ばしたのは、出汁巻き卵だった。口に運び、ゆっくりと咀嚼する。その様子を、私は祈るような気持ちで見守った。
「……旨い。出汁がしっかり効いていて、本当に美味しい。一口食べるごとに、幸せな気分になるな」
その瞬間、彼が本当に幸せそうに、何度も頷いた。柔らかく、とろけるような笑顔。
「良かった……! 他にもたくさんありますから、食べてくださいね」
その時、先ほどの年配の女性が、お子さんの「ジュース欲しい」という声に引かれるようにして席を立ち、私たちの背後を通り過ぎた。その瞬間。
「……うわぁ、綺麗で美味しそう」
本当に小さな、独り言のような呟きが耳に届いた。視線の先は陽斗さんではなく、私が丹精込めて作ったお弁当。褒められたことが嬉しくて、私は思わず頬を緩ませた。
そんな私を見て、陽斗さんがふと動きを止めた。
「あ……詩織、口元に何かついてるぞ」
「えっ、どこ?」
慌てて指で探ろうとしたけれど、それより早く彼の手が伸びてきた。陽斗さんは自分のポケットからハンカチを取り出すと、私の口元をそっと、壊れ物を扱うような手つきで拭ってくれた。
至近距離で見つめ合う瞳。彼の大きな手が頬に触れ、そこから伝わる確かな体温に心臓が大きく跳ねる。
「……とれたか?」
「あ、はい……ありがとうございます。なんだか恥ずかしいですね」
私が顔を赤らめて俯くと、陽斗さんはそれを見て、心の底から溢れ出したような声を上げた。
「ははは! 何を今更。詩織は時々、本当に子供みたいに夢中になるからな。いや、そんなところも悪くないんだが」
陽斗さんが声を上げて、楽しそうに笑った。
普段、社内では口角が数ミリ上がるだけでニュースになると言われるほど、感情を表に出さない彼。その彼が、周囲の喧騒を消し去るほどに朗らかに、そして幸福そうに笑っている。
この笑顔を見ることができるのは、世界中で私だけ。
彼が自分の心の奥にある、一番柔らかくて温かい場所を、私だけに開放してくれているのだと感じて、胸がいっぱいになった。
「もう、笑いすぎですよ。……でも、陽斗さんのそんな顔、私、大好きです」
「そうか。……お前といると、どうも計算が狂うらしい。自分でも驚くくらいにな」
そう言って再び私の手をテーブルの下で握り直す彼。
青い海と、丹精込めて作ったお弁当。そして、私だけに見せてくれる、陽斗さんの最高の笑顔。
この日の思い出は、どんな名画よりも鮮やかに、そして深く、私の心に刻み込まれていった。
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