第35話 砦の朝 ~陽斗視点~
ポートアイランドの北端に聳え立つタワーマンション。その二十五階、地上およそ八十メートルの天空に突き出したこの部屋は、遮るもののない容赦のない朝日がリビングの隅々にまで牙を剥くように差し込んできた。
今までの朝の光は単なる一日の始まりの合図に過ぎなかった。
遮光カーテンを鉄のカーテンのごとく固く閉め切り、他人の人生をデータという無機質な記号に置き換えて処理し、貝村興産という巨大な怪物に餌を与え続けていた血の通わぬ日々。孤独を金で買い、誰も立ち入ることのできない、世界から隔絶された聖域として手に入れたこの場所で、俺は独り、情報の海に溺れながら、自分という個体を摩耗させ、ただ消費されるだけの冷え切った歯車として生きていた。
(……でも、そんなクソみたいな毎日をぶち壊したのは、あの反吐が出るような裏切りだったわけだ。本当に皮肉なもんだな)
淹れたてのコーヒーの香りが鼻をくすぐる中、俺の思考は、今や遠い前世の出来事のように思える”あの日々”へと逆行していく。
貝村浩美との婚約。
それは愛なんて高尚なものじゃなく、もっと即物的で、ビジネスライクな契約だった。
後ろ盾もなく、ただ技術という武器一本で戦場に放り出された俺にとって、貝村興産という巨大な城はあまりに眩しかった。そこには俺が欲してやまなかった確固たる居場所と絶対的な力があった。
社長に目をかけられ、その娘である浩美との婚約を打診されたとき、俺はそれを成功への最速チケットだと判断した。野心と言えば聞こえはいいが、実際は泥の中から這い上がるために、毒入りの林檎を迷わず食らいついただけの話だ。
だが、その契約はあまりにも残酷な、そして屈辱的な形で破棄された。
社長がどこからか見つけてきた、もっと条件の良い資産家の息子。政略結婚のカードとして俺よりも遥かに高い価値を持つ男が現れた瞬間、俺という存在は一瞬で盤上から弾き飛ばされた。
「浅井くん、これは手切れ金だ。他所に余計なことを吹聴しないように。……分かっているね? 貧乏人の君には大金すぎるほどだ」
社長室の重厚なデスク越しに、社長はジェラルミンケースを放り投げた。
ドサッ、と。
俺の目の前、高級な絨毯の上に落ちたケースは、俺が組織に捧げてきた歳月と自尊心を嘲笑うかのような、生々しい現金の感覚があった。
「……拾いたまえ。君に相応しい場所にあるはずだ」
値踏みするような社長の冷えた声。俺は奥歯を噛み締め、屈辱に震える指先で、床に転がったそれを拾い上げるしかなかった。そのすぐ横、ソファーに深く腰掛けた浩美は、新しい婚約者の腕に身を委ねながら、ゴミでも見るような蔑みの色を浮かべた目で俺を眺めていた。あれほど俺に執着していたはずの彼女は、今や掌を返し、跪いて拾う俺の無様な姿を過去の不要品として嘲笑っていたんだ。
さらに社長は、一通の書類。形式上の自主退職願を突きつけてきた。事実上の不当な解雇通告だ。それも、手切れ金に含まれているんだろう。
会社を去る俺を突き落としたのは、かつての同僚たちの反応だった。俺が異例の速さで出世し、社長の娘を射止めることを、彼らは嫉み、呪っていた。
特に、同期の男、佐々木は、俺に聞こえるように執拗に嫌味を吐き続けた代表格だった。
「おいおい、惨めだよなぁ? 泥亀にはお似合いの光景だな」
「実力があるなんて勘違いしてたみたいだが、結局は使い捨てのコマだったな」
彼らが吐き出す暴言の数々。昨日まで愛想良く振る舞っていた連中が、誰も助けてはくれなかった。俺がデスクを片付ける背中に浴びせられたのは、純粋な嘲笑と呪いのような言葉の数々だった。
俺は、震える手で拾い上げたあの重いジェラルミンケースを、そのままこのタワーマンションへと叩きつけた。
屈辱の象徴だった手切れ金と言う名の口止め料。
必死に泥水を啜って積み上げてきたはずの退職金。
そして、本来ならあの大層な結婚式とその後の生活のために用意していた全財産。
俺は、貝村興産に関連するあらゆる記憶を塗り潰すように、そのすべてをこの”天空の砦”の購入資金として注ぎ込んだ。一円たりとも奴らの残滓を残したくなかった。
ここを、奴らの声が届かない、奴らの汚れが及ばない、俺だけの隔離された完璧な砦にするために。
そして、現在。
キッチンで鳴ったスマートフォンのバイブレーションが、俺の意識を現在へと引き戻す。
ディスプレイに表示されたのは、あの佐々木の名前だった。無視しても良かったが、その都合の良さを確認するために、俺は通話ボタンをスライドさせた。
『……浅井、聞こえるか? お願いだ、助けてくれ!』
耳に飛び込んできたのは、かつて俺を『泥亀』と呼んで嘲笑った傲慢さなど欠片もない、惨めに震える男の声だった。
貝村興産は今、内部告発と腐敗によって崩壊の瀬戸際にある。経営陣は責任を押し付け合い、佐々木のような中間層は真っ先に切り捨てられようとしているのだろう。
『お前、今度は最大手に潜り込んだらしいじゃないか。頼む、俺のこともお前の会社に引っ張ってくれないか? お前が推薦してくれれば、俺だって……今までのは全部冗談だったんだ、頼むよ!』
かつて俺の目の前で暴言を吐き、無様な姿をバカにした男が、今や生き残るためにその『泥亀』に縋り付き、コネを求めて懇願している。そのあまりに無節操で滑稽な掌返しに、乾いた笑いすら出てこない。
「……悪いが、お前のような人間を俺の新しい居場所に招き入れるつもりはない。お前が俺に何と言い、何をしたか、忘れたわけじゃないだろう?」
俺は淡々と告げ、すがりつくような叫びを遮るように通話を切った。彼らがどのような奈落へ堕ちようが、今の俺には、窓一枚隔てた向こう側で起きている無関係な騒音に過ぎない。
泥を噛むような思いで会社を追い出され、死んだように生きていた俺の前に、詩織が現れた。
彼女は、俺が貝村興産の肩書きを失った『ただの男』であることを知らないまま、俺の魂そのものを見て、微笑んでくれた。
あの日、北野の坂道で、そして校門の前で。ボロボロになった俺を、彼女は「陽斗さん!」と、切実な叫びとともに抱きしめてくれた。
貝村興産の令嬢が欲しがったパーツとしての陽斗ではなく、詩織という一人の女性が愛してくれたのは、何者でもない俺自身だった。
以前の俺が抱いていた野心なんて、彼女の微笑みの前では、砂漠の砂一粒ほどの価値も無かったんだ。
ふと、背後で微かな衣擦れの音がし、柔らかな、ためらうような足音が近づいてくる。
振り返れば、俺のオーバーサイズの白いシャツを羽織り、眠たげに目を細めた詩織が、逆光の中に立っていた。朝の光の洪水の中に佇む彼女は、まるでこの無機質な砦に迷い込んだ精霊のようで、その圧倒的な存在感に胸が熱くなる。
「……陽斗さん、おはよう。……何か、怖い顔してた?」
詩織が首をかしげながら、俺の傍らに寄り添う。彼女の指先が、俺のシャツの袖をそっと掴んだ。その小さな体温が、過去の冷たい記憶も、先ほどまでの不快なノイズも、瞬時に霧散させていく。
「いや、なんでもない。ただ、今の生活が、あまりに幸せすぎてな」
俺は彼女を無言で引き寄せ、その柔らかな髪に深く顔を埋めた。彼女の一定の体温、洗い立ての石鹸の清らかな残り香、腕の中で確かに生きて鼓動を刻む、その生命の重み。
社長の身勝手な裏切りも、同僚たちの醜い嘲笑も、すべてはこの瞬間に辿り着くための長すぎる前振りに過ぎなかったのかもしれない。
浩美という歪んだ鏡に映る自分ではなく、詩織という光に照らされる今の自分こそが、俺の本当の姿なんだ。
かつて孤独を飼い慣らし、絶望を咀嚼するための檻だったこの場所は、今、二人で明日を描き、生涯をかけて鮮やかな色を乗せていくための世界で一番大きく幸せなアトリエへと昇華したんだ。
(もう、あの絶望的な夜の冷たさへ戻ることは、万に一つもあり得ない。たとえ世界がどのような残酷な形に変容しようとも、俺は君の隣で、この安らぎに満ちた朝を死守し続けるよ。それが、俺の生きる意味なんだから)
沸き立った熱い紅茶の芳しく豊かな香りが、新しい一日の始まりを祝福するように、リビングの空気を優しく塗り替えていった。
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