閑話 夕暮れのアトリエ ~生徒視点~
放課後の美術部。西日に焼かれた油絵具の匂いが、部室の隅々にまで濃く沈殿する時間帯。
描きかけのキャンバスに向かっているふりをして、私、部長の由紀は、背後で起きている”尋問”に全神経を集中させていた。隣のイーゼルでは、一年の舞衣が筆を止めたまま、隠そうともせずに聞き耳を立てている。
あの日、校門の前で起きた『伝説の告白』から数ケ月。そして、あの恐ろしい襲撃事件から数日。
私たちの、しおちゃん先生を包む空気は、明らかに劇的に変化していた。
「ねぇー、先生! もういい加減、白状してくださいよ!」
副部長の香奈が、パレットナイフを剣先のように突きつけて、教壇でスケッチブックを整理していた先生に詰め寄った。その背後には、獲物を見つけた猛獣のような目をした部員たちがずらりと並んでいる。
「先生、最近北野のマンションにいないって噂、校内のネットワークではもう確定事項なんです。あの蔦の絡まったお洒落なアトリエ、引き払っちゃったって本当ですか!? 引っ越し業者を見たって目撃証言まであるんですよ!」
しおちゃん先生は、ビクッと肩を震わせた。手に持っていた色鉛筆を数本、床に落としてしまい、それをおぼつかない手つきで拾い上げながら、視線をあちこちに泳がせている。
「……どこで、そんな探偵みたいな真似を。えぇ、そうね。少し……急だったけれど、引っ越したのは本当よ。今は……」
先生はそこで一度、言葉を喉の奥で転がした。耳たぶから首筋までが、夕焼けよりも濃い赤に染まっていく。組んだ指先が落ち着かなげに絡み合い、伏せられた睫毛が、小刻みに震えた。
「……彼の住んでいるポートアイランドの方に移ったのよ」
【彼】。
その決定的な二文字が美術部に投じられた瞬間、古い木造の床が抜けるかと思うほどの絶叫が沸き起こった。
「ぎゃーーー! 言った! 先生が今、はっきり『彼』って言った!」
「陽斗さんじゃなくて『彼』! なにその距離ゼロ感! 最高にエモいんですけど!」
……陽斗さん。あの日、校門の前で何時間もボロボロになって待っていた彼を見つけた時、先生がなりふり構わずその名前を呼んで駆け寄った瞬間を、私たちは忘れていない。
あの出来事は瞬く間に校内中に広まって、今でも全校生徒の間で持ちきりの話なんだから。
あの、『陽斗さん』という響きが、今、先生の口から『彼』に書き換えられた。それは、あの日のドラマが、私たちの知らない『生活』になった証拠だった……。
「ちょっと待って、それって実質、同棲ってことですよね!? あの超絶イケメンと一つ屋根の下ってことですよね!!?」
部員たちのボルテージは一気に最高潮に達し、質問の雨あられが先生に降り注ぐ。
「先生、まずは前の校門前ですよ! 泥だらけの靴で何時間も先生を待ってた陽斗さん。あの後、二人きりで何話したんですか!? 抱きしめられたりしなかったんですか!?」
「それに、数日前のあの事件! あの浩美って人が『陽斗は私のものよ!』って絶叫してたの忘れるわけないじゃないですか! 陽斗さんはなんて言ってたんですか!? 絶対守ってくれましたよね!?」
「ていうか、ポーアイってことは、やっぱりあそこですよね? 先生がさっき机に置いてたスマホの壁紙、あの雲の上みたいな絶景! あんな角度から海が見えるのって、あの頂上が青く光る超高級タワーマンションしかないじゃないですか!」
「待って、待って。タワマンって! 先生の彼氏ってさぁ、先生よりちょっと年上でしょ? そんな若くて、タワマンに住めちゃうの?」
「ってことは、車も超高級車だったりなんかして―」
先生は、爆発的な羞恥心に耐えかねたように、両手で真っ赤になった顔を覆い隠した。
「もう、みんな……! そんなことまで見てたの!? 勘弁してちょうだい……心臓が持たないわ……」
指の間から覗く瞳は潤み、完全に防戦一方だ。けれど、その困り果てた表情の隙間から、どうしても隠しきれない幸福の熱が、微熱のように部室中に伝わってくる。
先生は、何度も深く深呼吸を繰り返し、少しだけ落ち着きを取り戻すと、今度は自分を奮い立たせるように、ほんの少しだけ胸を張った。そこには、最愛の男を誇りたいという、女としての純粋な自慢が滲んでいた。
「……彼はね、以前……あの貝村興産の『情報部』というところで、エンジニアをしていたの。でも、自分の生き方を変えるために、そこを辞める決断をしたの。その時に、それまで蓄えてきた貯金と、会社を辞めた際に支払われた退職金のすべてを使って……、退職してから、あの場所を一括で手に入れたのよ。誰にも、何ものにも邪魔されない、自分だけの絶対的な”砦”としてね」
「ええっ、じゃあ貝村興産の超エリートを捨てて、先生を選んだってことですか!?」
香奈が興奮気味に声を上げると、先生はあわてて首を振った。
「あ……、それは違うのよ。彼がその会社を辞めたのは、ずっと前のこと。あの日……校門に来てくれた時は、もう別の会社でしっかり働いていたわ。貝村興産を辞めた後、自分の力で、ちゃんと……」
先生はそこでまた言葉を切り、はにかむように微笑んだ。
「だから、エリートを捨てて私を選んだわけじゃないの。彼は、もうずっと前に自由になっていて……その上で、あの日、私のところに来てくれたの。あっ、ちなみに車は、中古車よ」
貝村興産を辞めた後に、自分の力でタワマン一括購入……。どんだけ有能なのよ、陽斗さん。そんな人が、地位も看板も関係ない場所で、それでも先生がいなきゃダメだって泥だらけの姿で現れた。……それって、勝ち組なんて言葉じゃ足りない。純愛すぎるでしょうが。
「……ねぇ、先生」
私は、少しだけ声を落として、核心に触れる質問を投げかけた。
「あの浩美っていう人……あんなに陽斗さんの名前を叫んで執着してたけど、もう、大丈夫なんですよね? ニュースでも、あの会社はもうボロボロだし……」
先生は、窓の外を慈しむように見つめた。
「ええ。もう大丈夫よ。あの方は……、ご自身の作り上げた歪んだ鏡の中で、自分を見つめ直しているはずだから」
先生の声には、冷酷さは微塵も感じられなかった。ただ一人の人間として、その不幸な結末を静かに悼むような、祈りに似た響きがあった。
あの女性が狂おしいほど執着し、歪んだ愛の檻に閉じ込めようとした『彼』という存在。でも、彼女が手にしたのは冷たいカッターナイフの刃だけであり、彼が自らの意志で、その震える指を絡ませたのは、今こうして私たちの前で、少しだけ誇らしげに微笑んでいる、しおちゃん先生なんだから。
「彼は、あのマンションを、自分が自分であるための孤独な砦にしていたんだと思う。でも、今はね……」
先生は、はにかむように、けれど最上級の自慢を込めるように私たちに囁いた。
「今は、二人で明日を描くための世界で一番幸せなアトリエになっているの」
その時の先生の表情は、私が今まで描いてきたどんな名画よりも鮮烈で、幸福という名の色に満ち溢れていた。
一瞬の静寂の後、美術部員たちの間から、からかいではない、心からの温かい溜息が漏れた。
「先生……、最高にカッコいいです。それ」
香奈が、いつになく真剣な、それでいて年相応の無邪気な笑顔で言った。
「色々大変だったみたいですけど、その砦をアトリエに変えちゃったのは、先生の魔法ですね。陽斗さんのこと、絶対、絶対幸せにしてあげてください。……あっと、もう幸せか!」
その言葉に、他の部員たちも一斉に頷き、祝福の拍手を贈る。
「先生、おめでとうございます!」
「末永く、爆発しちゃってください!」
「でも、いいなぁ~。私も、陽斗さんみたいな素敵な人が現れないかなぁ~」
私たちは、再び筆を動かし始めた。
先生が移り住んだ、あの海を見下ろす高い場所。
そこではきっと、穏やかな会話と、温かい紅茶の香りが、二人の時間を優しく包んでいるのだろうな。
私たちが今、キャンバスに置く色。
それは、先生と彼が新しく描き始めた、希望という名の色彩に、少しでも近づけているだろうか?
夕暮れの美術部。
パレットの上で混じり合う絵具の音だけが、新しい季節の始まりを刻んでいた。
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