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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第三章 色彩の再構築

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第34話 秋色の食卓 ~詩織視点~

 十月が神戸の街に降りてきた。

 吹き抜ける風は昨日までの刺すような鋭さを潜め、どこか清涼な透明感を帯び始めている。ポートアイランドに建つ陽斗さんのマンション。その高層階にあるリビングの窓からは、淡い秋の陽光に照らされた神戸港の全景が一望できた。

 海面は細かな銀の鱗を一面に散らしたように輝き、遠く波止場を行き交う巨大なコンテナ船の汽笛が、防音性の高いガラス越しに低く重厚な反響を室内に残していく。その規則的な音の波は、激動の嵐が過ぎ去った後に訪れた、静かな凪の証左のように思えた。

 

 キッチンに漂う厚切りのパンがこんがりと焼ける香ばしい匂い。そして、丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒーが放つ鼻腔をくすぐる深い苦みの香りが、昨日のあの恐ろしい出来事を遠い異世界の幻覚であったかのように錯覚させ、私の凍りついた心をゆっくりと解きほぐしていく。

 私はいつも通りに、いいえ、昨日までとは決定的に違う()()を込めて、陽斗さんのための朝食を並べていった。


  

 あの日、校門の前で起きた光景。

 それは今思い返しても、震えてしまうほどの、あまりに理不尽な暴力だった。

 カッターナイフの鋭利な刃が、秋の柔らかな陽光を無慈悲に反射して、不吉な銀色の蛇のように身をくねらせていた。

 狂乱し、プロの手に委ねられ手入れの行き届いていたはずの髪を振り乱して私を呪った、貝村浩美さんの姿。彼女が警察の方々に力ずくで組み伏せられ、冷たいアスファルトの上へ押し倒されるその瞬間まで、彼女の瞳に宿っていたのは、愛などではなく、自分という特権階級を否定されたことへの肥大化した憎悪と、他者を人間とも思わない独占欲だった。

 

 「私のものよ、陽斗は私のものなのよ! あんたみたいな端役が、主役の私から彼を奪うなんて許されないのよ!」

 

 その耳をつんざくような絶叫。それは今も静かなリビングの隅にこびりついて離れない気がして、私は思わず自分の肩を抱いてしまった。

 彼女が警察車両に押し込められ、街の喧騒の中へと連れ去られた後の深い静寂。


 

 陽斗さんのマンションは、私が住んでいた北野の古いマンションとは違い、洗練された都会的な静寂に満ちている。

 彼の部屋は、整理整頓はされているものの、どこか血の通わない、温度のない静かさ。そこに私が入り込み、こうして朝の支度をし、色とりどりの野菜を添えたオムレツを並べることで、この部屋が本当の意味での”家”へと変わっていく。

 無機質な空間に、生活の色彩が混じり合っていくその過程を、私は勝手ながら誇らしく感じていた。


 私は、食卓の隅に置かれた朝刊へと、そっと指を伸ばした。

 経済面の片隅、あるいは社会面の不祥事案として、神戸の経済を牽引し、政財界にも隠然たる影響力を持つと言われた貝村興産が、事実上の経営破綻に追い込まれたという記事が、無機質な活字で淡々と載っている。

 メインバンクからの融資打ち切りという死刑宣告、そして令嬢の逮捕という神聖な教育機関を舞台にした前代未聞の凶行。陽斗さんを『代えの利く部品』や『次世代の種としての資質』という、血の通わない言葉で切り捨て、あの日もまた刃物を手に私を傷つけようとした人たちが、必死に守り、しがみついていた砂の城は、驚くほどあっけなく、無慈悲に崩れ去った。

 

 自業自得という言葉すら、彼らがこれまで多くの人々や、何より陽斗さんに撒き散らしてきた毒に比べれば、あまりに生温く、甘い響きにすら聞こえる。

 彼らが失ったのは、富や地位、名声といった、剥がれ落ちれば何も残らない虚飾だけではない。人を人として尊重し、その魂の輝きを尊び、共に歩むという、人間として何よりも大切な心を、彼らは自らの傲慢さゆえに捨て去っていた。その決定的な欠如こそが、彼らを破滅という名の奈落へ突き落とした真の正体なのだと、私は確信している。


「ふわぁ~。……おはよう、詩織。……そんなに真剣な顔をして、どうした? せっかくのコーヒーが冷めてしまうよ」


 寝室から現れた陽斗さんは、少しだけ目の下に隈が残っているようだった。

 それでも、その瞳はかつてないほど澄み渡り、憑き物が落ちたような清々しさを湛えている。私は慌てて新聞を伏せた。

 

「おはよう、陽斗さん。よく眠れました? いえ、少し昨日のことを思い出していただけです。でも、もう大丈夫。あなたの顔を見たら、胸の中にあった小さな不安も全部どこかへ吹き飛んでしまいました」

 

「あぁ、俺も久しぶりに……本当に数年ぶりに、何の夢も見ずに、深く安らかな眠りに落ちることができた気がするよ。……あぁ、いい香りだ。詩織の用意してくれる朝食を食べるたびに、俺は一人の人間としてここに存在しているんだという実感が湧いてくるんだ」


 あまりに真っ直ぐで、そして切実な彼の言葉。

 私はあえて悪戯っぽく微笑み、焼きたてのトーストを彼の皿に置いた。

 

「もう、陽斗さん。朝からそんな大げさですよ。ただの朝ごはんじゃないですか」

 

 私の言葉に、陽斗さんは一瞬きょとんとした顔をした後、自らの気負いに気づいたのか、ふっと肩の力を抜いた。

 

「そうだな、確かにな。少し気合が入りすぎていたかもしれない」

 

「ふふふ、そうですよ。まずはこのオムレツを食べてください。冷めないうちに」

 

 どちらからともなく、小さく笑い声が漏れた。

 朝日が差し込むダイニングに、柔らかな笑いの波が広がっていく。重苦しい言葉でさえ、こうして二人で笑い合えば、それは明日を生きるための軽やかな糧に変わっていく。

 

 椅子を引いて座る陽斗さんの、その一つ一つの所作を、私は瞬きすることさえ惜しむように、愛おしさを噛み締めて見守る。

 彼が美味しそうにフォークを動かし、一口、また一口と私の作った料理を口に運び、安堵したように長く息を吐く姿を見るだけで、私の胸の奥は、これまで私が描いてきたどんな絵具の色よりも鮮やかで、深い幸福の色に満たされていく。

 

 貝村社長や浩美さんが、どれほど歪んだ鏡で彼を映し出そうとも、どれほど卑劣な言葉で彼を貶めようとも、私にとっては、この朝日が差し込む食卓で、静かに、穏やかに微笑む彼こそが、世界の誰よりも価値のある、何にも代えがたい尊い一人の男なのだ。


 

 食事の途中、陽斗さんのスマートフォンが微かに震え、一通の通知が届いた。

 聞けば、顧問弁護士を通じて届けられた、拘置所に身を置く貝村浩美さんの代理人。いいえ、その背後にいる、未だに自らの罪を認めようとしない家族からの最後の手紙。

 

 和解を乞う内容ですらなく、ただひたすらに自らの正当性を主張し、陽斗さんの不実を責め、私への恨み言が呪詛のように書き連ねられたその醜悪な言葉の羅列を、陽斗さんは一瞬だけ、ゴミを見るような視線で一瞥し、そして迷うことなく画面を伏せた。

 

「もう、俺たちの人生に、彼らの言葉が響く余地はどこにもないよ。彼らは過去の亡霊として、自分たちが作り上げた地獄の中で、永遠にさまよえばいい。それよりも詩織、週末は須磨の水族園へ行かないか? 新しくなったあそこなら、広い海と空が繋がっている。どうだろ?」


 その言葉は、彼を縛り付けていた過去という名の重たい鎖を、完全に、そして永久に断ち切るための、彼なりの決別であり、私への最高の贈り物だった。

 私は、込み上げてくる熱いものを必死で堪えるようにして、何度も何度も、彼の瞳を見つめて頷いた。

 

「行くっ! 陽斗さんと一緒なら、今までで一番美しい、世界でたった一つの優しい色が描ける気がします。いえ、きっと描いてみせますから」


 

 窓の外、ポートアイランドの海はどこまでも凪いで、天上の青をそのまま映し取ったような、穏やかな輝きを湛えている。

 嵐は過ぎ去り、砂を噛むような屈辱を強いてきた者たちは、自らの罪と傲慢が作り出した深い奈落へと、自ら落ちていった。

 これから始まるのは、誰にも汚されることのない、誰の手にも触れさせない。私と陽斗さんだけの真っ白で、無限の広がりを持つ新しいキャンバス。

 そこに、私たちはどんな幸福の色彩を置いていくのだろうか。

 私たちは、テーブルの上で重なり合った手の、その確かな熱と力強さを確かめ合いながら、希望という名の光に満ちた新しい朝の一歩を、一歩ずつ、大切に踏み出していくのだった。

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