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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第三章 色彩の再構築

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閑話 空虚な偶像の墜落

 鉄格子の向こう側、コンクリートに囲まれた数畳の空間には、湿った沈黙だけが淀んでいた。

 

 十月になり、三宮の街に吹き抜ける風が夏の残り香を強引に剥ぎ取っていく。留置場の高い窓から入り込む空気も、鋭く氷のような感触を帯び始めていた。

 浩美は冷たい床に膝を突いたまま、掠れた声を漏らす。

 

 「……どうして」

 

 呟く言葉に、以前の尊大さは微塵も残っていない。

 校門の前で振り回したカッターナイフの感触。アスファルトに叩きつけられた時の硬い衝撃。自分を冷笑的に見つめていた野次馬たちのスマートフォンのレンズ。

 そのすべてが、彼女の脳内で狂ったようにリフレインしていた。

 

 逮捕から数週間が経過し、捜査は淡々と進んだ。

 ナイフ所持の現行犯であり、警備員への負傷も出ている。多数の目撃者と鮮明な防犯カメラの映像。証拠隠滅の恐れも口裏合わせの余地もなくなったと判断されたタイミングで、ようやく接見禁止が解除された。

 

 「面会だ。父親が来ている」

 

 看守の無機質な言葉に、浩美の瞳に僅かな光が宿った。

 

(……お父様だ。お父様が、ようやく助けに来てくれた。きっと最高の弁護士を揃えて、この悪夢を終わらせてくれるはずだわ。私はまだ、貝村興産の令嬢なんだから。あの『欠陥品』の浅井陽斗に、すべての責任を押し付ければいい。あいつが私を怒らせたから、こんなことになったのだと!)

 

 縋るような思いで向かった面会室。アクリル板の向こう側に座る男は、わずか数日で十数年も老け込んだかのように、その顔には深い絶望の溝が刻まれていた。

 豪華なオフィスで最高級の葉巻を燻らせ、世界を支配していると自惚れていた男の面影は、もはや欠片も残っていない。

 

 「お父様! 遅かったじゃない、早くここから出して! あんな学校の警備員や、陽斗を唆したあの女なんて、お金を積めば黙るでしょう? お父様の力なら、こんなこと揉み消せるはずよ!」

 

 必死にアクリル板を叩き、訴えかける娘に対し、父親が返したのは救済の手ではない。氷のように鋭い拒絶の一言だった。

 

 「……浩美、お前。なんてことをしてくれたんだ」

 

 「え……?」

 

 「お前のあの醜態がSNSで拡散されたせいで、メインバンクは融資の全額引き揚げを正式に決定した。関連会社も泥船からは逃げるように一斉に手を引いた。……貝村興産は、もう終わりだ。倒産の手続きに入っている」

 

 父親の声は幽霊のように震え、その瞳には娘を案じる色など微塵もなかった。そこにあるのは、算出した損失に対する生々しいまでの嫌悪だけだ。

 

 「何を言っているの? 会社なんて、また立て直せばいいじゃない。それより私の心配をしてよ! 私はお父様の、たった一人の娘なのよ!」

 

 「まだ理解できないのか! お前が刃物を振り回した相手は、今や業界の至宝となった男の最愛の女だ! この不祥事が決定打となり、市場は我々を完全に放逐した! 私は私財をすべて投げ打っても、債権者への負債を賄いきれん! お前を助ける金など、一円たりとも、……一円たりとも残っていないんだよ!」

 

 父親は吐き捨てるように叫び、アクリル板を拳で激しく叩いた。その目は血走っており、もはや浩美を人間としてすら見ていない。

 

 「私はもう、お前の父親ではない。貝村の看板を汚し、私を破滅させた疫病神だ。……刑事告訴の取り下げ交渉も、情状酌量の嘆願も一切行わん。弁護士も国選で勝手にしろ。それが、私に残された最後の誠意の示し方だ」

 

 浩美は、信じられないものを見る目で父親を凝視した。

 

 「縁を切る……? そんな、私は貝村の……お父様の娘なのに……!」

 

 「貝村に、もはや価値などない。お前が一番よく知っているはずだ。スペックのない人間に、生きる価値はないとな。……さらばだ、無価値な娘よ」

 

(……あぁ、そうか。私は、この人に愛されていたわけじゃなかった。私は、貝村興産の看板を飾るための、ただの”高価な装飾品”だったのね。そして機能しなくなった装飾品は、ただの粗大ゴミとして処分されるだけ)

 

 親子としての絆など、最初から存在しなかった。

 互いを『価値』でしか見ていなかった事実が、極限の状態になって初めて露呈したのだ。

 

 「……はは、あははははっ!」

 

 突然笑い出した娘に、父親が忌々しげに顔を歪める。

 浩美は、泥にまみれ、手入れもされず荒れ果てた自身の爪を見つめながら、虚ろな瞳で笑い続けた。

 

 「滑稽ね。本当の欠陥品は、私たちの方だったのよ。お父様も、私も。最初から中身なんて、何にもなかったんだわ。ただの張りぼて……」

 

 父親は一度も振り返ることなく面会室を去っていった。その背中を見送る浩美の心から、最後の支柱が音を立てて崩れ落ちた。

 


 

――――  

 それから数ヶ月後。

 神戸地方裁判所の法廷で、浩美は審判の時を迎えていた。

 

 自慢だった艶やかな巻き髪は生気を失い、高級ブランドで固めていた体には、サイズの合わない地味な服が掛けられている。傲慢な令嬢の面影はどこにもなく、そこにはただ、現実の重みに押し潰された女が一人、立っているだけだった。

 

 

 裁判長の声が、静まり返った法廷に冷たく響く。

 

「……被告人は、裁判所による接近禁止命令という法的措置を真っ向から無視した。その上、白昼の教育機関という、本来最も安全であるべき公共性の極めて高い場所において、鋭利な刃物を用いた犯行に及んだ。これは極めて計画的であり、かつ被害者の生命を直接的に脅かす、戦慄を覚えるほどに危険な行為である」

 

 浩美は俯いたまま、指先を震わせることしかできない。

 

「警備員に全治二週間の負傷を負わせた傷害の事実に加え、その動機は身勝手な独占欲と醜い執着に基づく私怨であり、酌量の余地は皆無である。被告人は法廷において反省の弁を述べてはいるが、その多くは自己の境遇に対する悲嘆と責任転嫁に終始しており、真に被害者へ向けられたものとは到底認め難い」


  

 判決の主文が、容赦なく宣告される。

 

「被告人を、懲役一年六ヶ月に処する。執行猶予の余地はない。実刑とする」

 

 執行猶予なし。

 その言葉が、彼女の残されたプライドの残骸を粉々に砕き、世界を完全に閉ざした。

 

 

 判決から数日後。女子刑務所へと移送される前の留置施設で、浩美は窓から差し込む僅かな冬の光を見つめていた。

 

 自分が「ゴミ」と呼び、使い捨ての道具のように足蹴にしていた浅井陽斗。彼が最後に自分に向けた、あの諦めに満ちた憐れみの視線が、今になって焼火箸のように胸を突き刺していた。

 

(……私は、何をしていたのかしら)

 

 誰かを支配し、踏みにじることでしか自分の高さを確認できなかった、あまりにも幼く、歪んだ万能感。

 家柄という外部骨格を剥ぎ取られ、誰にも見向きもされなくなった今、彼女の手に残ったのは、一人の犯罪者という無機質な、そして動かしようのない事実だけだ。

 

 法廷で読み上げられた被害に遭った警備員の恐怖。その家族の嘆き。

 自分が刃を向けた詩織という女性が、あの日どれほど震え、それでも陽斗との未来を守るために毅然と立っていたか。

 それを知るたびに、浩美の中に『恥』という感情が、粘りつく泥のように重く沈んでいく。

 

 「……ごめんなさい。ごめんなさい……っ」

 

 誰に届くこともない謝罪が、震える唇から零れ落ち、床を濡らした。

 それは生まれて初めて、他者の存在を認め、その痛みを自分の罪として感じた瞬間だった。

 

 陽斗が自らの力で手に入れた温かな日常を、自分はただの”所有権”というエゴのために壊そうとした。

 彼がどれほど苦しみ、その苦しみの果てに今の幸福を築いたのか、自分は一度も想像しようとしなかった。

 

 その罪の重さを、これからの一年六ヶ月という果てしない時間の中で、彼女は一秒ずつ、噛みしめるように数えていくことになる。

 

 外界では、彼女が『種としての価値がない』と切り捨てた男が、最愛の女性と共に輝かしい未来へと歩みを進めていることだろう。

 その一方で、彼女は冷たい塀の中で、自らが作り上げた空虚な檻と向き合い続けなければならない。

 

 自分が誰であるかも分からぬまま、ただ番号で呼ばれる日々が始まる。

 絶望の底でようやく、彼女は『貝村興産の令嬢』という名前の付いた偶像ではない、醜く、愚かな、生身の自分自身の過ちを見つめ始めていた。

 

 それが、選民思想という名の幻想に飲み込まれ、己を壊した女に与えられた、唯一の過酷な更生への道だった。

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