閑話 砂上の楼閣
神戸の港を一望できる、貝村興産の本社ビル。
往時の栄華を誇示したその最上階にある社長室には、今や墓場のような不吉な沈黙が立ち込めていた。
重厚なマホガニーのデスクに座る社長の貝村は、指先を血が滲むほどに食い込ませ、震える手で何度も電話を叩きつけていた。
「……信じられん。なぜだ、なぜどこもかしこも、こうも露骨に手の平を返すのだッ!」
貝村の目の前には、処理しきれない未決済の書類と、赤字で記された督促状の山が、まるで自らの過ちを嘲笑う巨大な墓標のように築かれている。
つい数時間前まで「前向きに検討する」と調子の良い言葉を並べていた銀行の担当者も、長年の付き合いがあったはずの取引先も、今は誰一人として彼の電話に応じようとはしない。
ようやく繋がった僅かな相手からも、返ってくるのは氷のように冷酷な絶縁の宣告ばかりであった。
「貴様ら、わかっているのか! 我が社が倒れれば、この地域の経済にどれほどの損失が出ると思っている! 路頭に迷う人間がどれだけ出るか想像もつかんのか!」
貝村が受話器に向かって獣のような怒号を浴びせる。しかし、返ってきたのは無機質で事務的な断絶の音だけだった。
絶望に打ちひしがれ、受話器を叩きつけるように置いたその時、控えめだが切迫したノックの音が室内に響き渡り、秘書が顔面を蒼白に染めて駆け込んできた。
「社長! 大変です、これをご覧になってください……!」
秘書が震える手で差し出したタブレット端末。そこには、SNSやネットニュースの速報が、逃げ場のない現実を突きつけるように次々と躍り出ていた。
――――
『【速報】神戸市内の学校前で女が刃物を持って暴れ、殺人未遂容疑で現行犯逮捕』
『標的は特定の女性か。警備員が制止し大惨事を免れる。現場は一時パニックに』
『容疑者は地元有力企業、貝村興産の社長令嬢・貝村浩美(27)と判明。警察が全容解明へ』
――――
ニュースの映像を再生すると、そこには騒動の様子を遠巻きに見ていた生徒が、恐怖に震えながらスマートフォンで撮影した、激しく手ブレする光景が映し出されていた。
襲撃そのものの瞬間や被害を受けた女性の姿は映っていないが、画面の端には、屈強な警官数名に強引に組み伏せられ、石畳に顔を押し付けられながら、狂ったように四肢をバタつかせる浩美の姿が鮮明に捉えられていた。
「離しなさいよ!」「あいつのせいよ!」「私は何も悪くない!」と、普段の取り繕った高貴さからは想像もつかない、泥にまみれた濁った絶叫が、スマートフォンの貧弱なマイクを通してもなお、聞くに堪えない呪詛として響き渡る。
その瞬間、貝村は全身の骨が抜き取られたかのような脱力感に襲われ、背後の革張りの椅子に深く沈み込んだ。
「あいつ、やりおったな……。あの、救いようのない馬鹿娘が……!」
貝村は顔を覆い、激しく喘いだ。
脳裏に去来するのは、あの傲慢さに満ちた放逐の日だ。
資産家の息子という強力な新たな手札を手に入れた貝村が、陽斗を不要な駒として切り捨てた際、彼に投げつけた非情な宣告。
「泥の中から拾い上げてやった恩も忘れ、分不相応な夢を見た報いだ」
絨毯の上にジェラルミンケースを叩きつけ、跪いて散らばった札束を拾い集める陽斗を蔑みながら、貝村社長自らが放った言葉だ。さらにあの時、形式上の自主退職願という名の事実上の社会的な死刑宣告をも突きつけた。
会社への多大なる貢献も、積み上げてきた比類なき実績もすべてを無に帰し、自らの意思で去ったことにさせるための逃げ場のない強制宣告。
あの時、自尊心を踏みにじって放り投げた一通の紙切れ。それが、まさか自分たちの首を絞め、一族の息の根を止めるための絞首刑の縄に変わるとは、露ほども思いもしなかった。
貝村が何より計算違いをしていたのは、陽斗が今籍を置く組織の本質だ。
その巨大な組織にとって、陽斗は単なる代わりの利く一社員などではなかったことだ。
彼は入社直後から、数々の伝説的な基幹システムを独力で組み上げ、業界の勢力図を根底から塗り替えるほどの至宝として認められていたのだ。技術の権化とも呼ばれるその組織の社長や役員たちにとって、陽斗を不当に侮辱されることは、彼らが生涯をかけて研鑽してきた技術そのものを否定され、家族同然の魂を汚されることに他ならなかった。
ゆえに、組織は総力を挙げて牙を剥いた。緻密な法的な包囲網、金融機関への無言の圧力、世論の操作。それらすべては、自社の誇りである彼を守り、不当に貶めた者たちを社会的に抹殺するための、一分の容赦もない技術屋の意地でもあったのだ。
デスクの上の内線が、再び容赦のない無機質な音を立てて鳴り響く。
それは、生命線を握るメインバンクからの最終通達であった。
「融資の……全額引き揚げだと……?」
受話器から漏れる担当者の声には、もはや一欠片の情も残っていない。
あちらのメインバンクも、当初は債権回収の懸念から引き揚げを躊躇していたようだが、浩美が白昼堂々、神聖なる教育の場で刃傷沙汰を引き起こしたという最悪の報せが、すべてを決定づけた。
反社会的な騒動を引き起こした一族に、もはや支援を続ける大義名分など、この世のどこにも存在しない。
銀行にとって、彼らは最優先で守るべき優良顧客から、一刻も早く切り捨てるべき”毒薬”へと成り下がったのだ。
「待ってくれ! あれは娘の個人的な不祥事だ、会社は一切関係ない! 立て直す時間はまだあるはずだ、再考してくれ!」
貝村の必死な、そして見苦しい叫びも、冷たく遮断された。
受話器を握る貝村の手が、絶望に震える。
「……おのれ浩美! どこまで親の足を引っ張れば気が済むのだ! 自分の欲望を制御できず、あろうことか警察沙汰などと……! 貴様のくだらぬプライドと、見境のない執着が、わが社を、わが一族を破滅に導いたのだぞ!!」
もはや娘への愛情など微塵も残っていない。貝村の口から漏れるのは、自身の地位と財産を脅かした元凶に対する、剥き出しの憎悪と呪詛の言葉だけであった。
その時、社長室の重厚な扉がノックもなしに乱暴に開かれた。
入ってきたのは、制服と私服を織り交ぜた数人の男たち。その胸元に輝く警察の身分証が、貝村の瞳を射抜く。
「貝村社長ですね。兵庫県警です。お嬢さんの件で、お父上である貴方に事情聴取への協力をお願いしたい。それと、お嬢さんが凶器を隠し持っていたとされる貴方の自宅、およびこの社長室についても、関連性がないか詳しくお話を伺わせてもらいます」
『協力』という言葉とは裏腹に、彼らの瞳には一切の妥協を許さない意志が宿っている。
貝村の脳内に、共犯、幇助、管理責任といった不吉な言葉が渦巻く。娘の狂行は、もはや家庭内の問題という枠をとうに超え、国家権力という巨大な歯車を回し始めていた。
男たちに促され、力なく立ち上がった貝村の耳に、社長室の外から不穏なざわめきが伝わってきた。
扉の向こう、広大なオフィスフロアでは、社員たちが一斉に自身の端末やスマートフォンを凝視し、戦慄に震えていた。
「おい、これ……社長の娘さんじゃないか!? 殺人未遂って、正気かよ……」
「刃物を持って学校に乗り込んだってよ。もう終わりだ、この会社……」
「待て、銀行が取引停止を検討中って記事が出てるぞ! 嘘だろ、俺たちの給料はどうなるんだ!」
一人が声を上げれば、不安は瞬く間に伝染し、巨大な動揺の波となって職場を飲み込んでいった。
電話の呼び出し音が鳴り止まない中、誰もが目の前の仕事など手に付かず、沈みゆく泥舟から逃げ出す算段を立て始めている。
以前より社長親子が振るってきた理不尽な横暴に耐えてきた若手社員たちは、絶望の混じった嘲笑を浮かべ、荷物をまとめ始めていた。
一階の受付から内線が入り、秘書の悲鳴のような絶叫が受話器越しに叩きつけられた。
『社長! 大変です! 債務者の方々が……どこから聞きつけたのか、血相を変えた取引先や個人投資家たちがロビーに押し寄せています! 「金を出せ」「責任を取れ」と、警備員だけでは抑えきれません!』
モニターに映し出されたエントランスの光景は、地獄絵図そのものであった。
崩壊の噂を聞きつけたハイエナたちが、少しでも残された資産を食い扶持にしようと、殺気立って怒号を上げている。
さらに、その混乱を掻き分けるようにして、黒いスーツに身を包んだ集団が整然と足を進めていた。
それは陽斗を擁する組織が差し向けた、精鋭の弁護士団だ。彼らは淡々と、しかし確実に、貝村興産を法的に解体するための手続きを開始しようとしていた。
終わったのだ。
自分たちが築き上げてきた富も、虚飾の名声も、独善的な地位も。
技術という至宝を軽んじ、他者の尊厳を泥靴で踏みにじり続けた報いは、あまりに無慈悲な結末として彼らを飲み込んでいく。
一人娘である浩美を、ただの見栄や道具として扱い、傲慢なままに育ててしまった。
あるいは、浅井陽斗を家柄というフィルターを外し、一人の得難い才能として扱ってさえいれば。
後悔の念が次々と押し寄せるが、時計の針は二度と戻らない。
窓の外には、変わらず美しい神戸の街が広がっている。
しかし、そこにはもう、彼らの居場所などどこにもなかった。
砂の上に築かれた楼閣は、一陣の風に煽られただけで、無惨にも音を立てて崩れ去ったのだから。
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