閑話 守り抜いた愛の形 ~生徒視点~
校庭を真っ赤に染め上げる夕刻の光が、校舎の影を長く、不気味に引き延ばしていた。
放課後の静寂を切り裂いたあの喧騒が、警察の現場検証も終わって彼らが引き上げたことで、ようやく落ち着きを見せてからかなりの時間が経過している。
下校を促す放送が何度も校内に響き、他の生徒たちが足早に校門を去っていく。
そんな中、部長である私と親友の香奈、そして後輩たちは、どうしてもその場を動くことができなかった。
美術室の窓際に鈴なりになっていた部員たちの間には、未だに言葉にできない戦慄が澱のように溜まっている。
「……ねえ、すごかったね? しおちゃん先生」
私は掠れた声で隣の香奈に語りかけた。
隣では、一年の舞衣が筆を握りしめたまま、小刻みに震えている。
私たちの知っているしおちゃん先生は、いつも穏やかで、少しだけ浮世離れしたようなふわふわした雰囲気を持つ人だ。
おとなしくて、話し方もゆっくりで、絵筆を握るその指先は繊細そのもの。
日だまりの中でお茶を飲んでいる姿が一番似合うような、怒鳴り声なんてこの世の誰よりも縁遠い人だと思っていた。
授業中だって、生徒が騒がしくしても「静かにしてくださいね」と困ったように笑うだけの、どこか頼りなげな背中。
それが、私たちの知っている”瀬戸詩織”という女性のすべてだったはずだ。
(あんなに弱々しく見える先生が、あんな風に戦うなんて……)
さっき校門の前に立っていた先生は、私たちの知らない、凛烈な別の顔をしていた。
刃物を振り回す狂人を前にして、一歩も引かずに言葉を叩きつけていた、あの毅然とした姿。
警備員さんが血を流し、周囲が悲鳴を上げて逃げ惑う中で、先生だけが凛としていたのだ。
「やれるものなら、やってみなさい! 私が、彼を奪わせたりなんてしません!」
静まり返った校門に響き渡った、あの先生の叫びが耳の奥で何度も繰り返される。
震えなど微塵も感じさせない、驚くほどハッキリとした、強く太い声。
いつもは消え入りそうなほど細いその喉から、あんなにも激しい響きが放たれるなんて想像すらできなかった。
腹の底から絞り出されたその一喝は、場を支配していた狂気を一瞬で押し戻すほどの力強さに満ちていた。
その瞳に宿っていたのは、恐怖を完全に凌駕した、一点の曇りもない鋼の意志だ。
「……やってみなさい、か。あんな先生、初めて見た。まるで別人のようだったね」
私の言葉に応えるように、副部長の香奈が窓枠を握る手に力を込めた。
私と香奈は同じ二年生で、ずっと一緒にこの部活を支えてきた気心の知れた仲だ。
その香奈の横顔も、今は強張っている。
事件の直後、警察が到着してあの狂った女が連行されたとき、私たちは我慢できずに先生のもとへ駆け寄った。
いつも優しい先生が、あんな恐ろしい目に遭ったことがショックで、みんなで先生を取り囲んで泣きじゃくってしまったのだ。
「先生、怖かったよ……!」
「大丈夫ですか……っ、怪我はないですか!」
そう言って泣きつく私たちを、先生は自分が一番怖かったはずなのに、一人一人の肩を抱いてくれた。
あの凛とした叫びが嘘のように、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
それでも、その瞳の奥にはまだ消えない熱が残っていたように思う。
「大丈夫。もう大丈夫だからね。大丈夫、大丈夫」
いつものゆっくりとした話し方で宥めてくれた、その温もりが忘れられない。
先生が命がけで守った陽斗という人が誰なのか、私たちは知っている。
この校門の前で、ボロボロになりながら何時間も立ち尽くして先生を待っていた、あの人だ。
私たち美術部が全力で囃し立てて、ようやく結ばれた、あの二人の絆。
あんなに必死に求めていた陽斗さんのことを、あの女は『私の所有物』だなんて呼んだ。
それを聞いた時のしおちゃん先生の表情を思い出すと、今でも胸が締め付けられる。
およそ怒りとは無縁に思えた先生が、あの瞬間だけは、大切な宝物を穢されたかのような、激しい怒りが目に宿っていた。
先生は、自分のためではなく、彼のために、あんなにも毅然と、魂を削るような大声で叫んでいたのだ。
警察の聴取がようやく終わり、先生は今、職員室で帰る準備をしているはずだった。
窓から見える職員室の明かりの下、先生の影が小さく動くのが見える。
あんなに気高く戦い抜いた後の、ひどく脆い、小さな背中。
私は、もう一度先生の側に行って、落ち着くまで寄り添っていたかった。
ただ、学年主任の先生からは「あなたたちはもう帰りなさい」と厳しく促されていた。
せめて一言、帰り際に声をかけたい。
その一心で、私たちは帰る準備を整えながらも、廊下で足踏みをしていた。
「ちょっと、舞衣。……スマホ消しなよ。そんな風に先生を残しちゃダメ」
私は、さっきの事件の映像を無意識に何度も見返していた後輩を、強い口調で制止した。
舞衣はハッとしたように、震える指先で保存されていた動画を完全に消去する。
校門の外では、まだ野次馬たちがカメラを向けていた。
私たちは、不思議と気まずそうに視線を逸らした。
あんなに気高く戦った先生の姿を、あんな狂った女と同じ画面に閉じ込めておくのは、なんだかとても申し訳ないことのように思えたからだ。
私たちが祝福した二人の恋が、こんな形で汚されるなんて、絶対にあってはならない。
やがて、廊下からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきて、学年主任の先生が再び私たちの前に現れた。
「まだ残っていたのね! 全員、今すぐ荷物をまとめて下校しなさい。いいわね!」
私たちは促されるままに鞄を掴み、廊下へと出た。
階段を降り、重い空気の漂う昇降口を抜けて、ようやく校門へと辿り着いたその時だった。
急ブレーキの音を響かせて、一台のタクシーが、私たちのすぐ目の前、正門前に猛烈な勢いで横付けされた。
後部座席のドアが弾かれたように開き、中から一人の男性が飛び出してくる。
「……陽斗さんだ」
誰かが息を呑んだ。
そこにいたのは、整ったスーツ姿のまま、顔を恐ろしいほど強張らせた彼だった。
タクシーのドアが開けられるのも、もどかしそうに外へ出た彼は、幽霊のように真っ白な顔で、瀬戸先生の姿を求めて視線を激しく彷徨わせている。
その瞳には今にも理性が崩れ去りそうなほどの凄まじい動揺が張り付いているようだ。
普段の仕事ができそうな落ち着いた雰囲気は微塵もなく、ただ一人の女性の身を案じる男性だった。
警官たちが去って静まり返った校門の前で、彼は一点、校舎の方を凝視して立ち尽くしていた。
その時、昇降口から外へ出たばかりの先生が、校門の方に立ち尽くす彼の姿をみつけたようだ。
先生の瞳が大きく見開かれ、次の瞬間には、なりふり構わず駆け出していた。
校舎から正門へと続く一本道を、先生は猛然と、一心不乱にアスファルトを蹴って走る。
いつもはお淑やかに、ゆっくりとした足取りで歩く先生が、重い鞄を抱えたままなりふり構わず、前だけを見て走る。
その必死なダッシュは、いつものおとなしいイメージを完全に覆すものだった。
スカートの裾を翻し、息を切らし、ただ愛する人のもとへ一秒でも早く辿り着きたいと願う、一人の女性の姿がそこにはあった。
陽斗さんの視線が、こちらへ向かってくる先生の姿を捉えた。
無事な彼女の姿を瞳に映した瞬間、これまで彼を支えていた極限の緊張が、音を立てて崩壊していくのが分かった。
あまりの安堵に、それまでピンと張っていた彼の膝から力が抜け、彼はそのまま、腰が抜けたように力なくタクシーの車体にもたれかかった。
鉄の塊に重く体重を預け、震える手で車体を支えながら、彼は込み上げる感情を抑えるように荒い呼吸を繰り返している。
死ぬほどの恐怖を抱えてここへ駆けつけ、彼女の無事を確認した瞬間にすべてを出し尽くしたような、その姿。
それは、他人が踏み込んではいけない、二人だけの聖域に間違いない。
(あんなに想い合っている二人を引き裂こうとするなんて、やっぱりあの女は間違っている)
あんなに気高く戦い抜いた先生と、剥き出しの愛でそこへ駆けつけた彼。
校門の近くのアスファルトには、まだ生々しい争いの跡が残っている。
ただ、空を仰げば、燃えるような茜色がすべてを包み込むように広がっていた。
不吉な影を落としていた西日は、今ではどこか、二人を労うような、温かな輝きに見えた。
先生が守り抜いたこの場所が、少しでも早く、元の平穏を取り戻せるように。
夕闇が迫る家路を急ぎながら、私は何度も、あの夕焼けの中でようやく重なり合った二人の背中を思い出していた。
(明日、先生に会えたら、一番に挨拶しよう。何事もなかったみたいに、明るい声で)
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