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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第三章 色彩の再構築

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第33話 断末魔 ~陽斗視点~

 その日の午後、静まり返ったフロアに俺を呼び出す内線が鳴り響いた。

 受話器から聞こえてきたのは、社長秘書の落ち着いた、それでいてどこか緊迫感を含んだ声だ。

 

 社長室へと続く廊下を歩く俺の足音は、どこか空虚に響いている。

 呼び出しの理由は、聞かずとも想像がついた。

 

 ここ数日、我が社の顧問弁護士や法務部が、会社組織として進めていた、貝村興産に対する法的措置。その最終的な包囲網が完成し、彼らを決定的に追い詰める何かが動いたのだ。

 俺は重厚なマホガニーの扉の前で立ち止まり、一つ深い呼吸を置いてから、ゆっくりとその扉を押し開けた。


 室内には、外の喧騒を完全に遮断した、張り詰めた沈黙が満ちている。

 正面に座るのは、この会社の絶対的な舵取り役である社長と、実務の全権を握る重鎮の専務。

 以前は堅実な中堅開発会社として知られていた我が社も、俺が入社してからというもの、手掛けた次世代基幹システムの数々が驚異的な成功を収めた。その結果、ここ最近で文字通りグングンと急成長を遂げ、今やシステム開発業界でその名を知らぬ者はいない、揺るぎない大手企業の一角へと変貌を遂げている。

 二人の視線が俺に注がれた瞬間、背筋に鋭い緊張が走る。


 俺は促されるまま、ソファの端に深く腰を下ろした。膝の上に置いた拳を、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。

 視線の先に座る社長が、ふっと目を細めた。その眼差しを見た瞬間、脳裏には数日前の、あの切実な交渉の記憶が鮮烈に蘇ってくる。



――――

 数日前。

 会社側が”業務妨害”への対抗策として顧問弁護士を動かし始めた直後、俺は同じこの場所で、己のプライドを捨てて二人に頭を下げていた。


 俺はまず、今まで秘めていた一人の女性の存在を明かした。瀬戸詩織。彼女は、俺が絶望の底から救われ、今、心から愛している女性。彼女が北野の坂の上にある学校で美術教師をしていること。そして、俺を追い詰めるためなら手段を選ばない貝村浩美の魔の手が、既に彼女のすぐそばまで迫っている可能性を包み隠さず話した。


「社長、専務。……一社員の我が儘であることは百も承知です」


 俺は震える声で切り出した。


「ですが、今動いてくださっている顧問弁護士の先生方を、個人的な依頼として紹介していただけないでしょうか。彼女を……、詩織を護りたいんです」


 会社を通した公的な守りではなく、俺が個人として費用を払い、詩織専属の盾として動いてもらうためのパイプが欲しかった。

 会社が組織として俺を護ってくれるのは、あくまでエンジニアとしての資産価値を守るためだ。しかし、俺が本当に守りたいのは、自分自身ではない。


 俺の必死な懇願を最後まで静かに聞いていた社長は、表情を和らげ、力強く俺の肩を叩いた。


「浅井君。紹介などと言わずともいい。君が個人で費用を負担する必要もない」


「え……ですが」


「君が明日を夢見られるのは、その瀬戸さんという存在があるからだろう?」


 社長は穏やかながら、確信に満ちた声で続けた。


「ならば、その光を護ることは、我が社にとっても当然の投資であり、責務だ」


 社長の言葉に続き、それまで黙って書類に目を落としていた専務が、眼鏡の奥の鋭い瞳を俺に向けた。


「浅井君、我々は情だけで動いているわけではない。近年の急成長により、我が社が業界大手としてこれほどの地位を築けたのは、君の数々の実績あってこそだ」


 専務は淡々と、それでいて重みのある口調で現実を突きつける。


「万が一、彼女が傷つくようなことがあり、そのショックで君が心を病んで退職してしまうようなことになれば、それこそ我が社にとって最大の痛手だよ」


「専務……」


「優秀なエンジニアの心を守るためなら、弁護士の一人や二人、いくらでも使いなさい。それが結果的に、我が社の利益を最大化することに繋がるのだから」


 その英断が、すべての歯車を加速させた。

 紹介どころか、会社は全面的なバックアップを約束してくれたのだ。顧問弁護士は即座に詩織の守護にも動いた。彼女の学校周辺への警備員の配置、学校側との極秘裏の連携。あの一族が入り込む隙間を物理的にも法的にも完全に塞ぐための、鉄壁の布陣が敷かれたのは、あの日の直後のことだった。



――――

「……浅井君、聞いているかね」


 社長の重みのある声が、俺の意識を現在へと引き戻す。

 ちょうどその時、デスクの上に置かれた内線電話が、短く無機質な音を立てた。秘書との短いやり取りを終え、受話器を置いた社長は、鋭い視線を隣に座る専務へと向けた。


 対面に座り、タブレットの画面を注視していた専務が、重々しく頷く。


「浅井君、まずはこれを見なさい」


 専務の指先が、画面上の赤い通知をなぞる。


「先ほど、現地で警戒にあたっていた警備チームから緊急の連絡が入った。……君の元婚約者が、北野の学校前で刃物を振り回して暴れ、その場で現行犯逮捕されたそうだ」


「っ……!」


 心臓が、耳のすぐそばで激しく鼓動を打つ。

 

 逮捕……刃物……。

 

 脳裏を最悪の光景がよぎり、全身の血の気が一気に引いていく。視界がぐらりと歪んだその瞬間、対面にいたはずの専務が、驚くべき速さで俺の横へと移動してきた。


「しっかりしろ、浅井君!」


 崩れ落ちそうになった俺の肩を、専務の逞しい腕ががっしりと支える。専務は俺の体をソファに深く座り直させると、そのまま隣で俺の背を支え続けた。その確かな体温と力強さが、パニックに陥りかけた俺の意識を辛うじて繋ぎ止める。


「落ち着きなさい。君の危惧していた最悪のシナリオは、我々の備えによって最良の形で阻止されたぞ」


 専務のその一言に、社長が力強く言葉を継いだ。


「……浅井君、すべてが終わったのだ。たった今、貝村興産のメインバンクから最終的な通達があった」


 社長がゆっくりと立ち上がり、窓の外を見据える。


「融資の全額引き揚げが、正式に決定したそうだ」


「ついに、ですか……」


 俺を支える専務の手に、さらに力がこもる。


「あぁ、そうだ。あちらのメインバンクも、当初は債権回収の懸念から引き揚げを渋っていたようだがね」


 社長は振り返り、俺の目を見て続けた。


「だが、元婚約者が白昼堂々、教育の場で刃傷沙汰を起こして逮捕された。この事実が、彼らに引導を渡す決定打となったようだな」


 俺の横に寄り添ったまま、専務が重々しく口を開く。


「反社会的な騒動を引き起こした一族に、もはや支援を続ける大義名分などどこにもない。つまりは、……そういうことだよ」


「彼らが最後の望みをかけて泣きついた先々の取引先も、すべて我が社との信義を優先した」


 社長が再び窓の外を指差した。


「即座に、そして完全に手を引いたそうだ。もはや再起の道は閉ざされた」


 社長の声は、冷厳な事実を淡々と刻んでいく。


「砂上の楼閣が、ついに崩壊したんだ」


 背負っていた重圧が、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。しかし、俺が本当に知りたいのは、その先の報せだ。


「彼女は……詩織は、無事なんですか! 怪我は、怪我はないんですか!」


 叫ぶような俺の問いに、専務が手元の画面をこちらへ向けた。そこには、混乱する現場の様子と、警備員からの詳細な動画が映し出されていた。


「落ち着きなさい。瀬戸さんは無事だ」


「本当……なんですか」


「学校が常駐させている警備員が咄嗟に身を挺して彼女を庇った。一名が腕を負傷したが、命に別状はない」


 専務が動画の一場面を一時停止させる。


「驚くべきは彼女だ。目の前に刃物を突きつけられながらも、彼女は最後まで逃げなかった」


「逃げなかった……?」


「毅然とした態度であの女と対峙したそうだ。大したものだ、君の選んだ女性は」


 専務は少しだけ口角を上げたように見えた。

 肺に溜まっていた空気が、一気に漏れ出した。

 無事だった。彼女は、俺の愛した人は、狂気の刃を前にしても、自分の意志で、その足で踏みとどまってくれたのだ。

 安堵と、彼女への誇らしさと、熱いものがこみ上げてくる。


「浅井君。今日はもう仕事にはならんだろう」


 社長が優しい声で俺を促した。


「社長命令だ、今すぐ早退して彼女のもとへ向かいなさい」


「いいんですか……」


「残された残党の処理や、法的な泥沼の詰めはすべて我々組織が引き受ける」


 社長は確かな足取りで俺に近づくと、改めて肩を叩いた。


「世論の操作といった汚れ仕事も、会社の責任で行う。心配はいらない」


「ありがとうございます……」


「君は今、彼女を心の底から抱きしめ、支えることに全力を注ぐんだ。それが今の君の一番の職務だよ」


 社長の力強い言葉に続き、ようやく俺の体から手を離した専務が、手帳から数枚の紙を切り離して俺に差し出した。


「電車なんて待っている時間はなかろう。これでタクシーを拾いなさい」


「これは……」


「ほら、予備も含めて二枚だ。帰りの足もこれで確保しなさい」


 専務は俺の手にチケットを握らせ、背中を押した。


「彼女を安全な場所まで送り届けるんだぞ。わかったか」


 差し出された会社専用のタクシーチケット。その確かな紙の重みに、俺は何度も、何度も深く頭を下げた。言葉にならない感謝を胸に、俺は弾かれたように社長室を飛び出した。


――――

 エレベーターが一階に到着するまでの数秒が、永遠のように長く感じられた。

 俺は震える指先で、祈るような思いでスマートフォンを操作し、詩織に電話をかけた。

 数回のコールの後、耳に届いたのは聞き慣れた、それでいて少しだけ掠れた、愛おしい声だった。


『……陽斗さん?』


「詩織! 無事か、怪我はないか!」


 周囲の目なんて、もうどうでもよかった。

 電話の向こうで、詩織が小さく息を呑む気配がした。


『……えっ。あっ、はい。大丈夫です。学校からも、念のために今日は早く帰るように言われて……今、職員室で帰り支度をしていたところなんです』


 詩織の声は少し震えていた。


『でも、本当に怪我はしていません。むしろ、生徒たちが自分のことのように心配して泣きついちゃって……。それを宥める方が、事件そのものより大変だったくらいですから』


 無理をして、明るく振る舞っているのがわかった。その健気さが、俺の胸を痛烈に締め付ける。


「今聞いたんだ。怖かっただろう……ごめん、俺のせいで、あんな……。詩織、本当に無事でよかった……本当に……」


 何度も何度も、彼女の名を呼び確認する


『私、決めたんです。守られるだけじゃなくて、一緒に戦うって。だから、逃げませんでした。……あの女の人、警察に連れて行かれましたよ』


 電話越しの彼女の声は、嵐が去った後の空のように、どこか透明感に満ちていた。

 恐怖に震えているはずなのに、俺を心配させまいと気丈に振る舞い、それでいて名前を呼ばれたことに心からの喜びを感じている。その純粋な愛情が、俺の乾いた心に、熱い何かを注ぎ込んでいく。


「今からタクシーでそっちに行く。正門の前まで迎えに行くから。いいか、絶対にそこを動かずに待っててくれ。詩織」


『はい。待っています。陽斗さんに会えるなら、どんなに長い時間だって待てます』


 一拍置いて、彼女が囁いた。


『……でも、なるべく早く来てくださいね? ほんの少しだけ……やっぱり、陽斗さんの顔が見たくなっちゃいましたから』


 最後の方は、消え入りそうなほど小さな、甘えるような声だった。

 その一言で、俺の理性は弾け飛んだ。一秒でも早く、彼女をこの腕の中に抱きしめたい。


「ああ、すぐに、今すぐに行く! 絶対にだ!」


 通話を終えた後も、俺の心臓は激しく鼓動を打っていた。

 手に持ったスマートフォンが、彼女の吐息の余韻を宿しているようにさえ感じる。

 俺はロビーを全力で駆け抜け、会社の前でタクシーを止めた。


「急いでください。お願いします!」


 運転手に告げた声が、自分でも驚くほど上擦っている。

 走り出したタクシーの車窓から、茜色に染まり始めた神戸の街並みを眺める。北野の坂へと向かう道すがら、海沿いの空は、残酷なまでに美しい色彩を帯びていた。


(待ってろ、詩織。今行く……もう誰も、君を傷つけさせない。俺たちの未来を、誰にも踏みにじらせはしない)


 貝村興産という砂上の楼閣は、今日この瞬間をもって完全に崩壊した。

 法を無視し、他者の尊厳を泥靴で踏みにじり続けてきた代償は、彼らにとってあまりに高く、職も名声も失う絶望的なものとなったはずだ。


 タクシーが坂を駆け上がるたびに、詩織との出会いからの記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 絶望の底で、死んだ魚のような目をしていた俺に、光を与えてくれたのは彼女だった。

 これからは、俺が彼女の光になる。

 世界で一番大切な、俺のすべてのもとへと、車は夕闇の中を突き進んでいった。

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