表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第三章 色彩の再構築

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/63

第32話 私が私であるための一歩 ~詩織視点~

 放課後の校舎に、長く伸びた影が落ちる。

 私は職員室の自席で、手元の資料を幾度目か判らぬほど読み返していた。

 そこにあるのは、貝村浩美という女性に関する詳細な経緯報告書。そして、現在彼女に対して裁判所から下されている接近禁止命令の写しだ。


(これで、できる限りの備えはした。でも……)


 胸の奥で、粘りつくような不安が渦巻いている。

 この資料を揃えてくれたのは、陽斗さんの会社の顧問弁護士の方々だった。陽斗さんの能力を高く買い、彼を息子のように可愛がってくださっている社長や重鎮の皆様が、「浅井君の守りたい女性も、我々が全力で支援する」と、無償で手を貸してくださったのだ。


 彼がどれほど周囲に信頼され、愛されているか。それを知るたび、私は温かな誇らしさを覚えると同時に、決意を新たにする。

 

 陽斗さんは私を気遣い、懸命に守ろうとしてくれている。しかし、私はただ守られるだけの存在でいたくはない。

 彼がどれほどの苦しみを背負ってあの日々を戦ってきたかを知っているからこそ、今度は私が、私たちの居場所を守るために動かなければならない。


 私は立ち上がり、校長と生活指導担当の教師、警備責任者のもとへと向かった。

 学校側の対応は、私の懸念を汲み取り、非常に迅速で真剣なものだった。


「瀬戸先生、よく話してくれました。生徒たちの安全に関わる以上、これはもう先生個人の問題ではありません。我々が組織として、全力で対応しましょう。今すぐにでも緊急会議を行います」


 その言葉に、強張っていた肩の力がわずかに抜ける。

 だが、その『時』は、私が想像していたよりもずっと早く、最悪の形で訪れた。



――――

 校門の付近が、耳を刺すような騒音に包まれたのは、それから間もなくのことだった。

 職員室の重い扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできた若い教諭が、顔を真っ青にして叫ぶ。


「門のところに、不審な女性が! 瀬戸先生を連れてこいと、手がつけられないほど暴れています! すでに警察へは通報済みですが、到着まで時間がかかりそうです!」


 私の心臓が、早鐘のように大きく跳ねる。

 指先が氷のように冷たくなり、足が震えるのを自覚する。私はそれを悟られぬよう強く拳を握り、あえて避けることなく、応援の教職員たちと共に校門へと向かった。


 校門の周辺は、異様な熱気に包まれていた。

 下校途中の生徒や、騒ぎを聞きつけた近隣の住民たちが、何事かと遠巻きにこちらを注視している。

 先生たちが「危ないから下がりなさい!」「中に入りなさいっ!」と必死に声を張り上げているが、人だかりは膨らむ一方だった。ふと校舎を見上げれば、窓という窓に鈴なりになった生徒たちが、息を呑んで階下を見下ろしている。


 その視線の先に立っていたのは、一見すれば高級なスーツに身を包んだ、洗練された女性。

 しかし、その表情は、見るに堪えない傲慢さと歪んだ憎悪で塗り固められていた。


「部外者は立ち入り禁止です。お引き取りください」


 警備員さんの懸命な制止を、浩美は鼻で笑って撥ね退けた。


「私は貝村興産の令嬢よ! 陽斗を……私の陽斗を、卑しい手で誑かしたあの女を出しなさい! 直接話をつければ、すべて済むことなのよ!」


 そのヒステリックな叫びが、平穏な学び舎の空気を無残に切り裂く。

 私は、自分を庇うように立ち塞がる教職員たちの背中を見つめ、深く息を吸った。


「瀬戸先生、後ろに下がっていなさい! ここは我々が!」


 同僚の先生が私を押し戻そうとするが、私はその制止を振り切り、一歩前へと踏み出した。


「いいえ……これは私が向き合わなければならないことです。私が、決着をつけます」


「しかし、相手は常軌を逸している! 危険だ! 早く下がりなさい!」


「大丈夫です。私には、守らなければならない人がいますから」


 私は教職員たちの制止を完全に退け、彼女の正面、手が届くような距離まで歩み出た。

 私の姿を認めた瞬間、浩美の顔が醜く歪んだ。


「やっと出てきたわね、この泥棒猫! よくも私の陽斗を……! お前のような身の程知らずな絵描き女が、彼に相応しいと思っているの?」


 罵声を浴びせながら詰め寄る彼女を、私は真っ直ぐに見据えた。


「貝村さん。あなたは陽斗さんを愛してなどいません。ただ、彼を利用したいだけでしょう?」


「……なんですって?」


「あなたは一方的に陽斗さんに婚約破棄を告げ、もっと条件のいい資産家の男性に乗り換えた。自分の傲慢さゆえに、陽斗さんを見限ったのはあなたの方ではありませんか。それに、あなたの不遜な振る舞いで陽斗さんの会社から契約を破棄された。だから慌てて彼を回収しようとしているだけ。そうでしょう?」


 浩美の顔から、急速に血の気が引いていく。しかし、すぐに彼女は顔を真っ赤にして叫び返した。


「うるさい、うるさいうるさい! 私の勝手でしょ! あの男だって、うちの会社が傾き始めた途端、蜘蛛の子を散らすように逃げていったわ! 愛だのなんだの囁いておきながら、金がなくなればこれよ! どいつもこいつも、私を、貝村を馬鹿にして……!」


 彼女の叫びは、もはや自身の浅ましさを露呈させるだけの悲鳴だった。

 私はその醜態を見つめ、静かに、しかし断固とした口調で追撃した。


「そう、今ご自分でおっしゃいましたね。その資産家の男だって、会社が危なくなったら逃げていったと。……結局、あなたはそうやって損得でしか人を繋ぎ止められない。だから陽斗さんを、真心を持っていた唯一の人を、自分の手で捨てたことが許せないだけです。『あいつは私の所有物だ』なんて、そんな傲慢が通用する世界はどこにもありません」


 浩美は、幽霊でも見たかのように真っ白な顔で立ち尽くしていた。しかし、やがてその喉から、ひきつけを起こしたような笑い声が漏れた。


「……あは、あははは! 生意気よ……底辺の女の分際で、私の心の内を分かったような顔をして……!」


 彼女が震える手でバッグの中から取り出したものを見て、周囲から悲鳴が上がる。


 カチ、カチ、カチ、カチ……。


 剥き出しになった、大きなカッターナイフの鋭利な刃が、西日を浴びてぎらりと光った。

 その瞳は、もはや言葉の通じる人間のものではなかった。


「すべてお前のせいよ! お前さえ、お前さえいなければ、全部元通りになるのよ! 死ね、死んじゃえぇぇぇぇ!」


 彼女は凶刃を頭上に振り上げ、私を目掛けて突進してきた。

 遮ろうとした教師を突き飛ばし、狂った足取りで距離を詰めてくる。


「危ない! 瀬戸先生、下がって!」


 警備員さんが咄嗟に私を庇い、彼女の腕を掴もうとする。しかし、なりふり構わぬ彼女の力は異常だった。

 振り回された刃が警備員さんの腕を深く掠め、鮮血が舞う。


「あぁぁぁぁ! 邪魔をするなぁ!」


 返り血を浴びてもなお、彼女は止まらなかった。喉を掻き切るような絶叫を上げながら、再び私へと刃を突き出す。

 私の鼻先を、鋭い金属の切っ先が通り過ぎる。あと数センチ近ければ、私の顔は引き裂かれていただろう。

 私は恐怖で足が竦みそうになるのを必死に叱咤し、一歩も引かずに彼女を見据えて大きな声を出した。


「やれるものなら、やってみなさい! 私が、彼を奪わせたりなんてしません!』

 

(私は、逃げない。ここで逃げたら、陽斗さんと積み上げてきた日々も、未来も、すべて失ってしまうから!)


 浩美が三度目の突進を見せ、刃を私の胸元へと振り下ろそうとした、その刹那。

 激しいサイレンの音が空気を震わせ、数台のパトカーが猛烈な勢いで校門前に滑り込んできた。


「刃物を捨てろ! 警察だ! 動くな!」


 車から飛び出した警察官たちが、一斉に彼女を取り囲む。

 それなのに、浩美は自分の犯した大罪も、もはや逃げ場がない状況も理解できていないようだった。

 血に濡れた刃物を警察官へと向け、うわごとのように繰り返す。


「邪魔をしないで! 私は貝村の……お父様、早くこの無礼な人たちをクビにして……陽斗、見てて、今あの女を片付けてあげるから……」


 その独り言が最後まで紡がれることはなかった。

 訓練された警察官たちの素早い連携によって、彼女の腕がひねり上げられ、その体は無慈悲に硬いアスファルトの上へと組み伏せられた。


「銃刀法違反、および傷害の疑いで現行犯逮捕する!」


 容赦のない宣告が、茜色に染まる校門前に響き渡る。

 地面に這いつくばり、泥と涙と崩れた化粧で無残な姿に成り果てた、かつての令嬢。

 周囲では、集まった野次馬たちがスマートフォンのカメラを向け、その没落の決定的な瞬間を執拗に記録していた。


 警察車両に押し込められ、絶望の叫びを上げながら連行されていく彼女の背中を見送りながら、私は深く深く息を吐いた。


(……終わったんだ。これで、本当に)


 感覚のなくなった自分の指先を、もう片方の手で強く握りしめる。

 空はいつの間にか、燃えるような夕焼けに染まっていた。

 その光は、私たちがこれから歩む困難な、そして確かな道のりを、強く照らしているように見えた。

ブックマーク、評価をお願い致します。

レビュー、感想等もお待ちしております。

誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ