第31話 初期設定の書き換え ~陽斗視点~
ポートアイランド。海を隔てたこの人工の島に建つ自宅マンションは、これまで俺にとって、ただ効率的に肉体を休めるための機能的な場所に過ぎなかった。
無機質なタイル貼りの廊下。生活感を徹底的に排したモノトーンの家具。無音の空調。
今までの俺は、その徹底した虚無こそが、情報の激流に身を置く自分に相応しい聖域だと思い込んでいた。外界から遮断されたこの空間には、もはや俺を苛立たせるスマートフォンの通知音も、誰かの尊厳を削り取ることに快楽を覚えていた連中の罵声も存在しない。
貝村興産の崩壊は、もはや確定事項だ。
あの一族が築き上げた砂上の楼閣が、土台から腐り、社会的に再起不能の深淵へと引きずり出されたのは、あの親子の自業自得だ。
浩美や貝村社長が、今この瞬間、どれほど絶望し、泥水を啜りながら俺の名前を呪おうとも、俺の関心は一欠片たりとも彼らに向くことはない。
俺を不必要な存在と定義し、都合よくゴミ箱に放り込んだ連中が、自分たちの身勝手さと無能さゆえに奈落へ呑み込まれていく。その無様な断末魔をわざわざ確認することさえ、今の俺には時間の無駄でしかない。
今の俺が全神経を集中させているのは、キッチンで紅茶を淹れている詩織の微かな気配だ。
カチャリと陶器が触れ合う澄んだ音。
ポットの中で茶葉がゆっくりと躍り、柔らかな湯気が立ち上る。
そんな、世界中のどこにでもあるはずの当たり前の生活の断片。それが今の俺には、何億ものコードを書き換えるよりも困難で、奇跡に近い尊い事象のように思えてならない。
(……俺は、この人を守る。今度こそ、何があっても。それは、自分を守るために築いた協力者や友人という名の都合のいい防壁に逃げ込むことじゃない。俺自身の存在理由を、彼女が完全に塗り替えたんだ)
「陽斗さん、お待たせしました。少し、濃いめに淹れてみましたけど……。お口に合いますか?」
詩織がそっと差し出してきたカップを受け取る。その際、示し合わせたわけでもないのに、指先が触れ合った。
先ほど、マンションのエントランスで、夜風に吹かれながら抱きしめ合った時の余熱が、まだ指先に残っている。
いつもは氷のように冷たいと言われる俺の指先が、今は彼女の体温を求めて、じりじりと焦がれるような熱を帯びていくようだ。
これまで、誰かの体温をこれほどまでに愛おしいと思ったことなど、一度もなかった。人との接触は、俺にとって常に不快なノイズか、あるいは計算を狂わせる不確定要素でしかなかったからだ。
しかし、彼女の熱だけは、今の俺には救いだった。それは俺の凍てついた思考回路を優しく解かし、長らく止まっていた人間としての時間を動かすための唯一の動力源のように感じらる。
「……あぁ、丁度いいよ。ありがとう、詩織」
初めて、その名前を呼び捨てにした。
俺の唇からこぼれたその響きに、彼女が小さく肩を震わせる。それから、雪解けの季節を告げる花のように、ふわりと美しい微笑みを浮かべた。その笑顔一つで、俺がこれまで幾年もかけて積み上げてきた独りで生きるための堅固な理論が、音を立てて崩壊していく。
以前の俺は、他人に依存することを恥だと断じ、徹底的に排除してきた。誰とも繋がらず、ただ冷たい情報の羅列に埋没することこそが、欠陥品である俺に許された唯一の生存戦略だと思い込んでいたのだ。自分を機械の一部として扱い、感情という名の不純物を削ぎ落とすことで、ようやく俺は平穏を保っていた。
だが、それは平穏などではなく、ただの緩やかな精神の死だったのだと、今ならはっきりと理解できる。
(……だが、違ったんだ。この温もりを、この色彩を、俺は世界中の誰にも渡したくない。これを奪おうとする者が再び現れるなら、俺は俺の持つ力の全て、いや、魂の全てを代償にしてでも、徹底的に、塵も残さず排除してやる)
俺の胸の奥底には、今まで知る由もなかったどす黒いほどの独占欲と、それを包み込むような深い安らぎが、歪な形で同居していた。
貝村一族が、あるいはあの和真という名の亡霊が、今頃どこの地獄で喘いでいようと知ったことではない。奴らが失ったのは、富や地位といった、数字で測れるような安い価値じゃない。
この何ものにも代えがたい『隣に誰かがいる』という幸福を、奴らは自らの傲慢さでドブに捨てたのだ。その損失の巨大さに、絶望の中で死ぬまで気づかずにいればいい。それこそが、俺が奴らに与える、最大にして最悪の審判なのだから。俺の手を汚すまでもなく、奴らは自らが築き上げた虚栄の重みで、勝手に潰れていけばいい。
「陽斗さん……? そんなに怖い顔をして、どうしたんですか?」
詩織が不安そうに、大きな瞳で俺の顔を覗き込んできた。
俺は慌てて思考の刃を鞘に収め、強張った表情を緩める。カップをテーブルに置き、彼女の細い肩をそっと引き寄せた。
詩織の身体は驚くほど華奢で、腕の中で少し力を入れただけで折れてしまいそうに頼りない。
だが、その奥には、和真という亡霊を自らの意志で断ち切った、確かな芯の強さが宿っている。そのギャップが、俺の胸を締め付ける。守らなければならないという強烈な使命感と、彼女という人間に縋りたいという情けない欲求が、複雑に絡み合っていた。
「……いや。何でもない。ただ、もう二度と詩織を離さないって、改めて自分に誓っていただけだ。自分勝手かもしれないが、もう詩織を協力者や友人なんて便利な言葉で呼ぶつもりはない。そんな枠には収まりきらない感情が、俺の中で溢れてるんだ。今まで言葉にできなかった、正体のわからない何かが、今ははっきりとしてる」
「私は、どこにも行きませんよ。私は、陽斗さんの隣が、世界で一番落ち着くんですから。私の描く世界には、もうあなたという色が必要不可欠なんです。あなたがいない景色なんて、もう想像もしたくない」
彼女が俺の胸に額を預ける。
その柔らかな髪から漂う微かな香りに、俺の脳内を占拠していた刺々しい考えが、溶けるように消えていった。彼女の規則正しい呼吸が、俺の心臓の鼓動と同期していく。これまで、自分の心臓がこれほどまでに力強く、かつ静かに打つのを感じたことがあっただろうか。
部屋の片隅に置かれた、詩織が持ち込んだ描きかけのキャンバスに視線をやる。
そこにはまだ、名前のない色が幾重にも重なり合っている。
以前の俺なら、その不透明な曖昧さを未完成の不備として切り捨てていただろう。
だが、今は違う。これから俺たちが、二人で少しずつ新しい色を足し、時間をかけて完成させていくための無限の希望を孕んだ余白に見えた。
俺は、彼女という唯一無二の存在を、俺の人生の最も深い場所に受け入れた。
このポートアイランドのマンションは、今までただの機能的な寝床でしかなかった。
しかし、詩織がいる今、ここは初めて『家』としての意味を持ち始めている。
(これからの俺の時間は、彼女を愛し、守り、慈しむためだけに存在する。それを阻むものは、俺がすべて、奈落の果てに葬り去る。誰の干渉も許さない。俺と彼女だけの”砦”を作るんだ)
窓の外、海からの吹き抜ける風が、ポートアイランドのビル群を激しく駆け抜けていく。
外気の冷たさに反して、この部屋の温度は一向に下がる気配を見せない。
俺たちは、ようやく本当の意味での始まりを迎え、二人だけの後戻りできない、そして誰にも侵されない新しい物語を紡ぎ始めたのだ。
俺は、彼女の小さな手を、誰よりも力強く握りしめた。
この手に伝わる熱だけは、たとえ何があっても、永遠に冷まさせはしない。
それが、新しく書き換えられた、俺という人間の唯一絶対の誓いだ。
(あぁ。ようやく、俺の心臓が、人間として正しく鼓動を刻み始めた気がする。単なる生存のためのポンプではなく、誰かを想うために脈打つ、意志を持った臓器として)
深く息を吐き出し、俺は彼女の存在を、その重みを、この胸の中に深く刻みつけた。
この静寂を、この幸福を、俺は死ぬまで手放さない。
それだけの理由が、今の俺にはあるのだから。以前の俺が蔑んだ感情という名の不確定要素が、今は俺の全存在を支える最も強固な基盤となっている。皮肉なものだが、悪くない気分だ。
俺は詩織の額に、静かに唇を寄せた。夜が明けるまで、いや、永遠に。この温もりを手放すつもりは微塵もなかった。
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