第30話 穴子の天ぷら ~詩織視点~
ポートアイランドへと向かうポートライナーの窓に、夜の海と街の灯りが流れていく。
ガタン、ゴトンと規則正しく響く振動が、昂ぶった私の心拍をなだめるように刻まれていた。和真という名の亡霊を、過去の地層深くへと埋葬した後の私は、驚くほど足元が軽くなっていた。
喫茶店を出た後、私は高鳴る鼓動を鎮めるために、三宮の街をあてもなく歩いた。
ネオンの光が滲む雑踏の中、地下の食料品売り場へと足を踏み入れる。色鮮やかな食材が並ぶ光景を眺めていると、ようやく日常の感覚が指先から戻ってくるのを感じた。
ふと目に留まったのは、鮮魚コーナーの隅に並んだ、驚くほど身の厚い立派な穴子だった。
(……あ、これ、すごく美味しそう)
これまでの緊張が嘘のように、頭の中には陽斗さんの喜ぶ顔が浮かんでいた。
彼は、私が作る料理の中でも天ぷらには目がない。サクリとした衣に包まれた、淡白ながらも力強い魚の旨み。それに今の季節なら、春の息吹を感じさせる苦味の効いた山菜もよく合うだろう。
和真に突きつけた絶縁の言葉。あの陰惨な過去との決別。そのすべてを祝うための晩餐は、彼の大好きな献立にしよう。
「おじさん、これ頂戴」
「あいよっ! さばくかい? 天ぷら用か? 白焼き用か?」
「天ぷら用にして」
「天ぷら用だな。よしっ、ちょっと待っててくれな」
保冷剤を詰めてもらった紙袋の重みが、今の私には何よりも確かな幸福の重みとして感じられた。
冷たい夜気が頬を撫でるたび、先ほどまで繰り広げていたあの陰惨な対話が、遠い前世の記憶のように霧散していく。私の言葉に、和真は最後、どんな顔をしていただろうか。それを思い出す必要さえ、もう今の私にはない。
和真という共通の敵。それを排除し、法的にも、精神的にも完全に決別し終えた今、残ったのは『私たち』という剥き出しの真実だけだった。
これまでは『和真から逃げるため』や『お互いの欠陥を埋めるため』という大義名分があった。互いの孤独を癒やすという名目のもと、私たちは脆い防壁を築き、その内側で肩を寄せ合っていたに過ぎない。けれど、その盾を捨て去った今、私はただ一人の女として、目の前に立つ男と向き合わなければならない。それは、過去に支配されていた時よりも、ずっと勇気のいることだった。
心臓が、耳の奥で早鐘を打っている。ドクン、ドクンと暴れる鼓動は、恐怖ではなく、言いようのない昂ぶりを告げている。
ポートアイランドの近代的なマンションの前に着くと、エントランスの淡い灯りの中に、見覚えのある長身の影が立っていた。
月光を背に受け、その端正な輪郭が、切り絵のように夜の闇に浮き彫りになっている。その姿を見つけた瞬間、私の世界は再び鮮やかな色彩を取り戻した。
「……詩織さん」
陽斗さんの声が、低い旋律となって私の鼓膜を震わせた。
彼は私を待っていたのだ。
あの校門前でボロボロになりながら私を待っていたあの日と同じように。今の彼は、あの時のような崩れた様子はなく、静かな決意を瞳に宿してそこに立っているようだった。
「ただいま、陽斗さん。……すべて、終わらせてきました。もう、私の人生にあの人が入り込む隙間はありません。本当に、終わったんです。私の描くキャンバスから、あの人の色は完全に消えました」
私が告げると、陽斗さんはゆっくりと、私の吐息が届くほどの距離まで詰め寄った。
彼から漂う、微かなヘアーオイルの匂いと、冷たい夜の空気の混じり合った香り。それは今の私にとって、世界で最も信頼できる安らぎの芳香だった。この香りに包まれるだけで、私の心は凪の状態へと引き戻される。
以前の私たちは『孤独を埋めるための協力者』という、都合の良い名前の中に逃げ込んできた。一線を越えなければ、傷つくこともない。そう信じて、この脆い関係を守ってきたはずだった。けれど、そんな子供だましのような誤魔化しは、今この瞬間に、夜の風にさらわれて消えていく。
「あぁ、俺もさっき、会社で全部ケリをつけてきた」
陽斗さんの言葉は、いつも私の前で見せる、飾らない、少しぶっきらぼうなものに戻っていた。その声の響きに含まれた体温が、私の強張っていた心を一気に解かしていく。彼のその言葉に、私はどれほど救われただろう。
「貝村の連中が何を喚こうが、もう俺たちの場所には届かない。弁護士にも全部丸投げにした。会社も俺を守るって言ってくれているんだ。これで、俺を縛るものは何一つなくなった」
陽斗さんの指先が、躊躇うように私の頬に触れた。
いつもは氷のように冷たく感じるその指先が、今夜は驚くほど熱を帯びている。その熱に誘われるように、私は自然と目を閉じる。
「詩織さん……。俺はさ、あんたがいないと、やっぱり駄目なんだ。今日、一人で画面に向かってた時、考えてたのは仕事のことじゃない。あんたと過ごす、この静かな時間をどうやって守り抜くか、それだけだった。……今まで『友達』だなんて便利な言葉で逃げてたけど、もう無理だ。そんな綺麗な枠に収まるような感情じゃない。もっとずっと、ドロドロしてて、重くて、自分でも持て余すような……そういうもんなんだ」
その言葉が、私の心臓を激しく揺さぶった。私の中にある感情もまた、とっくに境界線を踏み越え、行き場を失って溢れ出していた。
誰かの支配を受けるのではなく。誰かの期待に応えるためでもなく。
ただ、この人と共にいたい。この人の欠陥を私の色で埋め、私の空洞をこの人の静寂で満たしたい。それは依存でも、単なる同情でもない、魂の根源から湧き上がる衝動だった。
「陽斗さん……。私も、同じです。もう、引き返せないところまで来ちゃいました」
「……俺は、あんたが欲しい。あんたの隣で、俺という壊れたシステムを完成させたいんだ。あんた以外の誰かじゃ、意味がないんだよ。あんたが笑って、俺がそれを隣で見てる」
私は、自分から彼の胸へと飛び込んでいた。
上質なスーツ越しに伝わってくる彼の速い鼓動。それは、合理性や論理では説明できない、生身の『陽斗』という人間の切実な生命の証。
ぎゅっと、彼の背中に腕を回す。大きな身体が微かに震え、それから力強く、私の肋骨が軋むほどの強さで抱きしめ返された。
「いいですよ、壊れていても。不完全でも。私も同じです。誰にも理解されなくていい。私たちは、私たちだけの場所を、ここで一から作っていけばいいんですから。世界中の色が消えても、私は陽斗さんという色だけを見て生きていけます」
陽斗さんの腕が、私の背中に回された。痛いくらいに強く、それでも壊れ物を扱うように大切に。その抱擁には、二度と私を離さないという、静かな絶対的な誓いが込められていた。
「……部屋に行こう。今夜は、ずっと一緒にいてくれ。夜が明けるまで俺のそばから離れないでくれ。……いいだろ?」
その少しだけ縋るような響きを含んだ問いかけに、私はさらに強く彼を抱きしめた。
「はい。陽斗さん、今日のお夕飯は、三宮で立派な穴子を見つけたので、天ぷらにしようと思います。陽斗さんの大好物ですから、春の野菜も一緒にたくさん揚げますね。……ずっと、待っていたんですから」
私は彼を見つめ、微笑んだ。そこにはもう、震えるような不安など微塵もなかった。不完全な二人だからこそ、パズルのピースのように噛み合えるのだ。
(さよなら、これまでの私たち。さよなら、偽りの境界線。ここから先は、もう後戻りできない場所へ。二人で、深く深く落ちていくんだ。光さえ届かない場所だとしても、彼がいればそこは私の楽園になる)
私たちは、一歩、また一歩と、自分たちが選んだ未来へと足を踏み出す。
エレベーターの扉が閉まり、閉ざされた空間の中で、再びどちらからともなく手が重なる。指と指が絡まり、逃げ場のない熱が二人の間に満ちていく。
ここから先は、誰にも邪魔させない。私と彼、二人だけのキャンバスに、新しい色を置いていく時間が、今、静かに幕を開けようとしていた。
廊下を歩く二人の影は、重なり合い、一つになって、部屋の扉の向こうへと消えていくのだ。
今夜、ポートアイランドに吹く風はどこまでも穏やかで、ただ二人の始まりを祝福するように吹き抜けていくだろう。
ようやく、私の物語が、私の色で動き始めたのだ。
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