第29話 ストップ安 ~陽斗視点~
月曜日。三宮にある我が社のオフィスは、週末の喧騒を浄化するように静まり返り、空調の微かな稼働音だけが鼓膜を打つ。
デスクに鎮座する三枚の大型モニターには、貝村興産という、かつての悪夢が破滅へと向かって転がり落ちていく統計データと、それに対する我が社の鉄壁の防衛ロジックが、青い光を放ちながら並んでいる。
あの日、我が社の社長が貝村興産の会議室で放った契約白紙の宣言は、業界全体に凄まじい衝撃波となって広がった。
技術の権化である我が社から、『ハラスメントを行う不適切な企業』として公式に絶縁された貝村興産の社会的信用は、文字通り氷解したのだ。彼らが喉から手が出るほど欲しがっていた次世代基幹システムは、今や競合他社の手に渡り、貝村興産の市場シェアを日々無慈悲に削り取っている。
だが、追い詰められた鼠は、往々にして合理性では測れない暴挙に出るものだ。
(……俺を欠陥品と切り捨てた報いだ。今更何を喚こうと、崩壊したシステムは二度と元には戻らない)
俺の手元には、ここ数日間で貝村浩美と貝村社長から届いた、執拗なまでの接触の記録が積み上がっている。それはもはやビジネスの連絡ではなく、自尊心をズタズタに引き裂かれた者たちの醜悪な断末魔の叫びに近い。
『陽斗、お願い、一度だけでいいから会って。あの時のことは私が悪かったわ。お父様が言わせたのよ。私はあなたの才能を信じていたのに……。今ならわかる、あなたこそが私の運命だったって。あのマンションにいる女なんて、あなたの隣に立つ資格はないわ。私なら、あなたのキャリアをもっと輝かせられる。お願い、三宮のいつもの店で待っているから。来ないと死ぬから!』
浩美からのメールは、一通ごとに内容が支離滅裂になっていた。
ある時は泣きつき、金を使って調べたんだろう、詩織の事も書かれてあった。
『身の程知らずな絵描き女』や『絵具で汚れた、底辺な女』と中傷し、またある時は『あなたを捨てたことを後悔して死にそう』だと訴えかける。彼女にとっての”愛”とは、自分を美しく飾るためのアクセサリーに過ぎない。その所有権が他者に移ったことが、彼女の傲慢なプライドを狂わせているのだ。
そして、貝村社長からの連絡は、より実利的な、しかしそれ以上に卑屈なものだった。
『浅井君。先日の件、改めて詫びたい。浩美も深く反省している。実を言うと、御社との契約が流れたことで、主要取引先の銀行から融資の引き揚げを宣告された。このままでは今月末の決済が下りない。君の力で、なんとか社長を説得してはくれないか。一度だけでいい、業務提携の継続を……いや、形だけでもいいんだ。君を息子のように思っていた私の頼みだ。見捨てないでくれ』
『息子のように』という言葉を吐くその厚顔無恥さに、俺の胃の奥で不快な熱が渦巻く。
あの日、俺を、種としての価値がないと切り捨て、葉巻の煙と共に笑い飛ばした男が、今度はその同じ口で家族の情を説いている。彼らにとって、他人は利用価値があるか否かの二元論でしか存在しない。
「……浅井君、少し良いかね。どうやら手が止まっているようだったが」
背後から響いたのは、我が社の社長その人の声だった。
俺は椅子を引き、即座に立ち上がって背筋を伸ばし、一礼した。
「社長、お疲れ様です。先日の件、未だに貝村興産側から不適切な接触が続いており、業務に支障をきたしております。申し訳ございません」
「気にするな。君をあのような場に立ち会わせたのは私だ。……しかし、これほどまでとはな。見苦しいにも程がある」
社長は鋭い眼光を画面に向け、俺が整理していた膨大なログに目を通した。
分単位で送られてくるメール、深夜の着信履歴、そして会社の受付付近で彼らが徘徊していたという警備記録。さらには、浩美がSNSで俺や詩織さんを婉曲的に攻撃している魚拓まで。
「これはひどいな。特にこの娘の言動は、もはや犯罪の域だ。浅井君、これは君個人の問題ではない。我が社の貴重なエンジニアに対する明白な侵害行為である。我々が、君という至宝を汚されるのを黙って見ていると思うかね」
社長は俺の肩に手を置き、父親のような慈しみを持って告げた。
「これは私からの指示だ。我が社が顧問契約を結んでいる弁護士法人に、本件の全権を委ねることにした。君が個人的に戦う必要は一切ない。法務部と顧問弁護士が連携し、彼らに対し徹底的な法的措置を講じる。まずは即刻、民事での接近禁止命令の申し立てを行い、名誉毀損と業務妨害で徹底的に追い詰める。必要であれば、警察への刑事告訴も辞さない構えだ」
「社長……。ありがとうございます」
「それだけではないぞ。貝村興産のメインバンクは、私の古い知人が頭取を務めていてね。今回のハラスメントによる契約破棄の事実は、業界の健全化を願う者として、既に正確な情報を共有してある。彼らが今、融資を止められて青ざめているのは、自業自得というものだ。君は、自らの手で彼らの泥を触る必要はない。君の時間は、もっと価値のある美しいものを生み出すために使いたまえ」
「社長のご厚意、心より感謝いたします。私に関するすべての処理を委任させていただきます」
社長の言葉は、氷のように冷えていた俺の心に、確かな誇りと安堵をもたらした。
会社を挙げて俺を守ってくれる。それは、俺が使い捨ての部品ではなく、一人の人間として認められた何よりの証拠だった。
俺は顧問弁護士への共有ファイルを作成し、浩美からの最新のメール『私を無視したらどうなるか分かってるの? 一生後悔させてやるわ』という稚拙な脅迫文を、淡々と証拠としてアップロードした。
これから先、彼らの醜い叫びを受け止めるのは、私ではなく法のプロフェッショナルだ。
(……奴らの処理は、専門化へ完全に委譲された。これで、俺は解放される)
ふと、モニターの端に表示された業界ニュースに、貝村興産の株価がストップ安を記録したという速報が流れた。
放逐されたのは俺ではない。時代に取り残され、自らの傲慢さで自壊していくのは、彼らの方だったのだ。
デスクの隅で、スマートフォンの画面が明るくなった。
詩織さんからのメッセージ。
『陽斗さん、今日のお夕飯は、三宮で立派な穴子を見つけたので、天ぷらにしようと思います。春の野菜も一緒に揚げますね。気をつけて帰ってきてください。待っています』
その短い一文が、今の俺にとっての絶対的な真実だ。
(……この静寂と温かな食卓だけは、何ものにも変えられない)
貝村興産が今後どうなろうと、俺には関係のないことだ。俺はただ、俺の価値を認めてくれる場所で、俺の愛する人を守り抜く。
そのための力を、俺はすでに、この両手の中に掴んでいるのだから。
俺は社長に見守られながら、最後のエンターキーを叩き込み、弁護士への正式な委任を完了した。
「……送りました。これより、貝村興産からのすべての通信は遮断されると思います。もう雑事に煩わされることはありません」
「よし。それでいい、浅井君。さあ、仕事に戻ろう。君の素晴らしいコードを楽しみにしているよ」
俺は深く一礼し、社長を見送った。 窓の外、神戸の海はどこまでも青く凪いでいる。
俺は確かな足取りで、家路へ急ぐ。
そこには、俺という一人の男を、ただそのままに受け入れてくれる、最高に美しい色が待っているのだから。
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