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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第三章 色彩の再構築

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第28話 拒絶の理由 ~詩織視点~

 三宮の喧騒から少し離れた、古い雑居ビルの二階。使い込まれた真鍮の取っ手を回し、重厚な木製の扉を開けると、そこには淀んだ時間が溜まっていた。鼻を突くのは、深く焙煎されすぎた珈琲豆の焦げた匂いと、何十年も人の吐息を吸い込んできたベルベットの椅子が放つ、特有の埃っぽい匂いだ。


 恋人同士の時、和真と何度も訪れたこの店は、私にとって甘い隠れ家などではなかった。それは、彼の言葉という名の絵具で、私の自由を塗り潰されるための処刑場のような空間だった。薄暗い琥珀色の照明、時代遅れのベルベットの椅子、そして神経を逆撫でするようなバロック音楽の旋律。そのすべてが、私の四肢を搦め取り、過去の檻に引き戻そうとしているかのように感じられた。


 指定された一番奥のボックス席に座る和真と視線がぶつかった瞬間、私は自分の心臓が、まるで他人のことのように静かに、一定のリズムを刻んでいることに気づいた。


 和真は、私が現れた瞬間に、これ見よがしに悲痛な表情を顔に張り付けた。眉間に深い皺を寄せ、視線を伏せ、まるで世界中の不幸を一身に背負った悲劇の主人公のような空気を纏っている。かつての私なら、その痛々しい演技にさえ心を乱され、『私が彼をここまで追い詰めてしまった』と、実体のない罪悪感の泥沼に自ら沈んでいただろう。


「……詩織。本当に、本当に来てくれたんだね。信じていたよ。君なら、僕の言葉を分かってくれるって。さあ、まずは座って。君がいつも頼んでいたミルクティーをもう注文しておいたから」


 彼が口を開いた瞬間、私の耳に届いたのは、陽斗さんが言っていた通りの意味を持たない音の羅列だった。

 和真の言葉は、まるで溝の潰れたレコードから流れる古びた旋律のように、今の私の心には、何も響かない。それどころか、あまりに身勝手で色彩を欠いたその台詞に、薄ら寒い滑稽ささえ感じていた。


「やり直そう、詩織。あのアトリエに戻るんだ。あそこには君の描きかけの絵も、僕たちが積み上げてきた時間もそのまま残っている。あの男……あんな感情のない、論理だの効率だのと抜かす機械みたいな奴と一緒にいても、君の感性は死ぬだけだ。君という繊細な芸術を本当に理解できるのは、世界で僕しかいない。君の描く絵にどんな色を置くべきか、その筆をどこへ進めるべきか、それを導けるのは僕だけなんだよ」


 和真は身を乗り出し、縋り付くような手つきで私の手を握ろうと指を伸ばした。

 私は反射的に、その手を避けた。テーブルの上に置かれた私の指先は、自分でも驚くほどに震えていなかった。


「……やり直す? 一体、何をやり直すと言ってるの?」


 私の声は、私自身の耳にも冷たく、そして澄んで聞こえた。


「やり直したいだなんて、よくそんな空虚な言葉が吐けるわね。和真さん、あなたが求めているのは『私』という人間じゃない。自分の言う通りに筆を動かし、あなたのプライドを全肯定してくれる、都合の良い人形が欲しいだけでしょ。私の描く色を、形を、あなたは一度だって尊重したことがあった?」


「何を言ってるんだ! 僕は君の才能を誰よりも愛しているんだ! 僕は、君のためを思ってアドバイスを……!」


 彼はなおも食い下がり、言葉の刃を振り回す。執拗に、かつての支配権を取り戻そうと躍起になっているその姿は、あまりに見苦しく、そして醜かった。

 私はバッグの中から、一束の分厚い紙を取り出した。それは、陽斗さんが昨夜、深夜までかかって整理してくれた資料のコピーだ。


「これを見て。これが、あなたの言った『君のため』の正体よ」


 私はそれを、琥珀色の光が落ちるテーブルの上に静かに広げた。

 そこには、和真から送られてきた数百件に及ぶメッセージのログ、異常な頻度の通話記録、そしてアトリエ付近で彼が徘徊していた際の不審な目撃情報の記録が、時系列に沿って克明に整理されていた。


「これは、あなたが私に行ってきたことの事実。愛情という言葉でどれほど綺麗に塗り潰そうとしても、ここにある客観的な記録は嘘をつかないの。深夜の執拗な着信、人格を否定し、私を無能だと叩き込むメッセージ……これらはすべて、法的に『ハラスメント』および『ストーカー行為』として成立する立派な証拠になるわ。陽斗さんは、この記録を元に既に専門家とも連絡を取り合ってるわ」


 和真の顔から、塗り固められた悲劇の仮面が剥がれ落ちた。彼は狼狽し、広げられた紙束を、まるで自分の首を絞める蛇でも見るかのような目で見つめた。


「な、なんだこれは……。君は、僕たちの神聖な関係を、こんな、こんな冷たい数字や記録で測るつもりか……?」


「ええ、測るわよ。和真さん、これ以上しつこいようなら、私はこの資料を持って即座に警察へ行くわ。そして正式に『接近禁止命令』を出してもらいましょうか? そうなれば、あなたは二度と私に近づくことも、連絡することも許されないわ。もし破れば、それは犯罪よ!」


 その一言で、彼の動きが完全に凍りついた。

 陽斗さんのマンションで、彼と一緒に確認した法的な手続きと、突きつけられた逃れようのない事実。それが今の私の背中を鋼のように強く支えていた。和真の顔から余裕が消え、卑屈な焦りと隠しきれない矮小な恐怖が剥き出しになる。


「本気なのか……。詩織、僕を見捨てて、警察だなんて……そんなことが許されると思っているのか!」

 

「許されないのは、あなたの支配よ。和真さん、あなたの行為は、もう愛情ではなく、ただの暴力。これ以上私の前に現れるなら、私は躊躇なく、相応の手段を取るわ。それが、私からあなたへ贈る最後の言葉だと思って」


 和真の顔が、屈辱で赤黒く歪んでいく。喉を鳴らし、何かを言いかけようとしたようだが、机の上の資料という名の現実に圧倒されて言葉を失うその姿。

 以前は、この顔を見ることが何よりも怖かった。でも、今の私には、彼を憐れむ気持ちさえ一滴も残っていなかった。


「二度と私の前に現れないで。あなたの居場所は、もう私の人生のどこにも残ってないだから」


 私は椅子を静かに引き、立ち上がった。

 一度も、ただの一度も振り返ることなく、私はその重い扉を押し開けて外へ出た。


 店を出ると、五月の三宮の風が、火照った頬を心地よく撫でていった。

 街は『神戸まつり』の余韻を微かに残しながらも、日常の平穏を取り戻しつつある。フラワーロードの街路樹の緑が、目に染みるほど鮮やかだった。サンチカへと続く階段を下りながら、私は大きく、深く、肺の中の空気をすべて入れ替えるように呼吸をした。


(あぁ、終わったんだ……本当に。今、この瞬間に)


 あのアトリエで、私のキャンバスを灰色に塗り潰し、私の息を止めていた呪縛。

 それを今、私は他ならぬ私自身の意志と、陽斗さんが授けてくれた言葉という武器で断ち切った。

 和真という名の亡霊を、私はこの三宮の喧騒の奥深くに、永遠に埋葬したのだ。


 ポートライナーの駅へと向かう私の足取りは、羽が生えたように軽やかだった。

 三宮のホームに滑り込んできた車両に乗り込む。海上へと伸びる軌道の先、ポートアイランドで待っている、あの静かで、誰よりも私の本質を守ってくれる人のもとへ。


 私は今、本当の意味で、私自身の色を取り戻すためのスタートラインに立っていた。

 車窓から見える、ポートアイランドへと続く橋の向こうに広がる空は、どこまでも高く、どこまでも澄み渡っていた。

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