第27話 断絶の火蓋 ~陽斗視点~
三宮の喧騒を背後に、ポートライナーは静かに滑り出した。
車両はビル群を抜け、神戸港を跨ぐ赤い大橋へと差し掛かる。窓の外には、一千万ドルの夜景と称される光の海が広がっていた。だが、隣に座る詩織さんの表情は、その光を一切受け付けないほどに暗く、硬く、凍りついている。
その原因は、彼女の膝の上で、まるで脈打つ心臓のように執拗に震え続けている一台のスマートフォンだった。液晶画面が明滅するたびに、そこには一人の男の名前が浮かび上がる。
――和真――
その二文字が表示されるたび、詩織さんの白い指先が、目に見えて微かに、けれど激しく震えた。彼女の呼吸は浅く、今にもその場にうずくまってしまいそうなほど危うい。
(……救いようのない執着だな)
俺は、彼女の反応を静かに観察していた。そもそも、彼女が北野の古いアトリエを離れ、俺の住むポートアイランドのマンションに身を寄せるようになったのは、ほんの数週間前のことだ。
あの日、和真の執着は一線を越えた。アトリエの扉を叩き続け、詩織の存在を否定し、支配しようとする汚泥のような言葉の暴力。精神的に追い詰められ、筆を折る寸前だった彼女を、俺は半分強引に連れ出した。
「ここでの生活は、君の精神的な体力を無駄に削っている。もっと自分を守れる場所へ移動すべきだ」
そう告げて、俺は彼女の最低限の荷物と、描きかけのキャンバスを無理やり車に積み込んだ。海上都市であるポートアイランドは、陸続きの北野に比べて物理的にも精神的にも外界と切り離されている。安全が確保され、静かな生活が担保される場所。俺の管理下にあるこのマンションこそが、今の彼女にとって最も安心できる避難所だと判断したからだ。
「詩織さん」
極力、感情の起伏を排した声で呼びかける。彼女はびくりと肩を跳ねさせ、怯えた仔鹿のような視線を俺に向けた。俺は視線を逸らさず、仕事で不具合を指摘する際と同じ、極めて平坦なトーンで切り出した。
「その端末、貸してくれないか」
彼女は一瞬、戸惑ったように瞳を揺らした。だが、俺の瞳に拒絶の色がないことを悟ったのか、震える手でスマホを差し出してきた。受け取った瞬間、再び激しい振動が手のひらに伝わる。着信が途切れたかと思えば、数秒の空白も置かずにまた次の着信が始まる。一度拒絶されれば、その倍の熱量で相手を支配しようとする。これは愛情などではない。相手の領域を一切無視した、ただの独占欲の暴走だ。
俺はロックを解除するように促し、メッセージの履歴を遡った。昨日から今日にかけて、通話履歴は数十件を超え、画面には呪詛に近い言葉が数百件単位で積み上がっている。
『詩織、君には僕が必要なんだ』
『あんな冷たい男と一緒にいても、君の感性は死ぬだけだよ』
『僕だけが、君の本当の美しさを表現できる。戻っておいで』
反吐が出る。これはコミュニケーションではない。相手の思考をパンクさせ、正常な判断力を奪うことが目的の幼稚で暴力的な情報の洪水だ。
「詩織さん、いいか、落ち着いて聞いてくれ。君が今感じている恐怖は、君自身の弱さから来るものじゃない。外部から不当に送りつけられた過剰な言葉に、君の心が悲鳴を上げているだけだ」
俺は画面を彼女に見せ、言葉を選んで指摘していく。
「見てみろよ。一時間おきに送られてくるこの言葉。君を肯定しているようでいて、その実は、君の選択肢を奪うような表現が巧妙に配置されている。これは対話じゃない。ただの他人を意のままに動かすための稚拙な台本だ。君がこれに心で答えようとするから、君自身が動けなくなってしまうんだよ」
彼女は、俺が指し示す画面を、まるで恐ろしい怪物でも見るかのような目で見つめた。俺が彼女に渡すべきなのは、同情でも慰めでもない。自分を守るための武器だ。
「明日の対面では、君は一切の感情を捨てていい。あいつが何を言おうと、それはただの意味を持たない雑音だと思え。必要なのは、こちらが決めた結論だけを、機械的に繰り返すこと。それだけでいい。感情に支配される必要はない。……あんな男に、これ以上、君の時間を奪わせるわけにはいかないんだ」
俺の言葉に、詩織さんは驚いたように顔を上げた。自分でも、少しばかり踏み込みすぎた自覚はある。合理的な判断を下すだけなら、これほどまでの苛立ちは必要ないはずだ。だが、アトリエで自分を否定し続けていた彼女の姿を思い出すたび、俺の胸の奥では制御し難いほどの不快な熱が膨れ上がる。
「……陽斗さん」
詩織が、小さく俺の名を呼んだ。彼女の手は、もうスマホを握りしめてはいない。膝の上に置かれたその手は、窓から差し込む街灯の明かりを受けて、白く、けれど確かに自律した意志を宿し始めているように見えた。
「はい。冷静に考えます。あの人の言葉を……ただの意味のない音だと思って聞き流すようにします。私は、私の道を選びます」
その答えを聞き、俺は再び夜の海へと視線を戻した。ポートライナーは駅に滑り込み、静かに扉を開く。冷たい海風に吹かれながらマンションへと歩く。詩織のアトリエがある北野とは対極にある、無機質で合理的な高層建築。
エレベーターが静かに上昇し、俺の部屋の扉を開ける。
これまでは、一人で過ごすためだけの場所だったこのリビングには、今、彼女の気配が色濃く混じっていた。
玄関の隅には、彼女が普段使いしている淡いベージュのパンプスが俺の革靴の隣に並び、無機質だった洗面台には、彼女のスキンケア用品や明るい色の歯ブラシが当然のような顔をして収まっている。
リビングの片隅に置かれたキャンバスや、使い込まれた画材の箱も、今ではこの部屋の風景の一部となっていた。最初は一時的な避難のつもりだったはずが、気づけば彼女の生活の断片が、俺の空間を侵食し、塗り替えている。
彼女はキッチンへ向かい、俺のために温かい飲み物を用意しようと動き始めた。慣れた手つきで棚からカップを取り出す背中を見つめながら、俺はソファに深く腰を下ろす。
「詩織さん。今夜も泊まっていくといい」
湯気を立てるキッチンで、彼女の動きが止まる。俺は努めて事務的な、決定事項を伝えるような口調を保った。
「北野のアトリエまで戻るのは、今の君にはあまりに負担が大きすぎる。それに、あそこにはまだ和真が待ち伏せている可能性も否定できない。何より、君に一人で夜を過ごさせるわけにはいかない。明日の決戦に向けて、俺の目が届く場所で、しっかり体を休めてほしいんだ。……いや、これは俺の個人的な願望でもあるな。君が一人でいると、気になって俺が眠れそうにないからな」
最後の言葉は、本音だった。合理性を隠れ蓑にしているが、そこには『彼女を一人にしたくない』という俺自身の強い想いが混じっている。彼女が危険に晒されるのを防ぎたいという建前と、ただ傍にいてほしいという私情。その境界線は、自分でも驚くほど曖昧になっていた。
彼女は驚いたように目を丸くし、それからふわりと、北野の霧を晴らすような微笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます、陽斗さん。そうですね、お言葉に甘えて……今夜は、泊まらせていただきます。陽斗さんの側にいると、不思議と、自分の心が凪のように整っていくのがわかるんです」
彼女が淹れてくれた紅茶の香りが、かつては死んでいた俺の部屋に、温かな生命の息吹を吹き込んでいく。それは、俺が今まで”効率”という言葉で排除してきた、けれど決して手放したくない種類の変化だった。
明日は、三宮の喧騒の中で、一つの間違いを完全に消去する日になる。
詩織さんの未来を、和真という男の勝手な上書きから守り抜く。
二度と、あいつに彼女の色を汚させはしない。
俺は心の中でそう誓い、静かに、そして力強く拳を握りしめた。
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