第26話 生田の風に吹かれて ~詩織視点~
五月の神戸は、街全体が暴力的なまでの熱狂に浮かされていた。
一年で最もこの街が色彩を帯び、喧騒に包まれる『神戸まつり』。三宮のフラワーロードを埋め尽くすパレードの地響きのようなリズム、サンバの打楽器が刻む性急な鼓動が、ここ生田神社の境内にまで、地を這う重低音となって届いている。
朱塗りの一の鳥居を潜れば、そこは街中の狂乱が嘘のような、けれど確かに祭りの熱を帯びた異空間だった。
参道の両脇には、色とりどりの提灯がどこまでも連なり、夕闇に溶け込み始めた境内の景色を濃密な橙色に染め上げている。屋台から漂うソースの焦げた匂い、ベビーカステラの甘い香り、そして行き交う人々の熱気。
これまでの私なら、この圧倒的な”生”のエネルギーに当てられて、自分の輪郭が溶けてしまうような恐怖を感じていただろう。人混みに紛れ、誰にも見つからないように、透明な存在として息を潜めて歩く。それが、私の日常であり、唯一の防衛本能だったから。
だけど今は、隣を歩く陽斗さんの存在が、私をこの現実の世界に繋ぎ止めてくれている。
彼は人混みの中でも、眉一つ動かさない。スーツを脱ぎ、ラフなシャツを着ていても、彼が放つ静かで厳格な空気の膜は変わらない。私の歩幅が乱れないよう、さりげなく周囲の波をその広い肩で受け止めてくれている。彼が作るその安全圏の中にいるだけで、私は独りではないのだと確信できた。
本殿の前を通り過ぎ、少しだけ喧騒が遠のく池のほとりに差し掛かった時、陽斗さんが不意に足を止めた。
水面には、周囲を囲む提灯の明かりが、まるで無数の宝石を撒いたように揺れている。
彼が振り返り、その漆黒の瞳で私を真っ直ぐに捉えた。
「詩織さん。過去を捨てる準備は、できてるか?」
その声には、かつての彼が持っていた、他者を拒絶するような鋭い冷たさはない。
むしろ、私を不安定な地上に繋ぎ止めるための確かな質量を伴った重みがあった。
私は、彼の視線から逃げることなく、深く、深く頷いた。
「はい。もう、迷ってはいません」
私のバッグの中で、スマホが微かに震える。
見なくても分かる。いまだに和真から届く、執拗なメッセージの通知だ。
画面を点灯させれば、そこには吐き気を催すような既視感のある文字列が並んでいるはずだった。
『詩織、君には僕が必要なんだ。あんな冷たい男のところにいても、君の才能は枯れるだけだよ』
『僕だけが君の本当の価値を分かっている。戻っておいで。あの日のアトリエで、また二人で描こう』
かつてはその言葉の一つ一つが、私の首を絞める鎖のように感じられた。甘い蜜の中に毒が仕込まれていると知りながら、その蜜を啜らなければ生きていけないと思い込んでいた。私の絵が評価されるのも、私が生きていていい理由も、すべて彼が与えてくれるものだと。彼という鏡を通さなければ、私は自分の姿を直視することさえできなかったのだ。
だけど今は、陽斗さんの隣でその言葉を反芻してみると、それはただの色のない落書きにしか思えない。
私の才能は、誰かに管理されるための部品ではない。私の人生は、誰かの所有物になるためでもない。
(和真との過去。それは、私のキャンバスを無慈避に塗り潰した、泥のような灰色の染みみたいなものだわ)
それを自らの手で拭い去る勇気を、私はこの無口で不器用な男性からもらったのだ。
陽斗さんは、私の指先が微かに震えているのを見逃さなかった。彼はわずかに視線を落とし、地響きのような低く、けれど確信に満ちた声で告げた。
「……あんなものは愛情じゃない。ただの呪いだ。君を縛り付けて、自分を保とうとしているだけの醜い執着だ」
突き放すような言い方だったけれど、その奥に潜む怒りは、私のためのものだとはっきりと分かった。
「君が背負う必要のない罪悪感を、あいつは利用している。……もういいだろう。あんな男に、これ以上一秒だって君の時間を渡す必要はない」
彼の言葉は、私の心に深く癒着していた過去の病巣を切り離していく。
私は、胸の奥に澱のように溜まっていた熱い塊を、ゆっくりと、すべて吐き出すように長い息を付いた。
「はい。……明日、彼と会ってきます。場所は、三宮の古い喫茶店です。陽斗さんに教わった通り、感情を排して、事務的に淡々と。私自身の手で、すべてを終わらせてきます」
「本当に俺が一緒に行かなくても大丈夫か?」
「大丈夫です」
一歩踏み出せば、和真はきっと惨めな顔をするだろう。あるいは激昂し、私を罵倒するかもしれない。けれど、そんなことはもうどうでもよかった。
今の私には、守りたい日常がある。陽斗さんと囲む食卓。画材の匂い。そして、少しずつ戻り始めた私だけの色。
かけがえのない何かを、この初夏の夜風の中で見つけた気がした。
私たちが同盟と呼んで大切に守ってきたあの境界線が、遠くから風に乗って届く神戸まつりの歓声とリズムに混じって、少しずつ、けれど確実な熱を孕んで融け始めていた。
(さよなら、昨日までの怯えるだけの私)
陽斗さんが、本当に一瞬だけ、安心したように目を細めた。
繋いだ手の代わりにするように、私は彼の歩幅に自分の足をしっかりと合わせ、再び力強く、石畳の一歩を踏み出した。
境内の外では、祭りの熱狂が最高潮に達しようとしていた。フラワーロードの喧騒は、もはや一つの生き物のように咆哮を上げている。だが、私たちの間には、ただ揺るぎない覚悟と、凪のような静寂だけが満ちていた。
ふと、横を歩く陽斗さんの横顔を盗み見る。
彼は祭りの提灯に照らされ、いつもより少しだけ柔らかな輪郭をしていた。
彼もまた、戦っている。自分を縛り付ける過去や、不当な評価、そして孤独と。
「陽斗さん」
「なんだ」
「……ありがとうございます。私を見つけてくれて」
「別に礼を言われるようなことはしていない。俺はただ、合理的な判断をしただけだ」
素っ気ない返事。けれど、その声の端に宿る微かな震えが、彼の本心を伝えていた。
「いいえ、合理的なだけじゃ、人は救われません。……少なくとも、私はそうでした」
私は、足元の影を見つめた。
街灯の明かりに伸びる、二つの影。
それが重なることはまだないけれど、同じ方向を向き、同じリズムで歩みを進めている。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
明日、三宮の喫茶店で和真と対峙する時、私はきっと、一度も目を逸らさずにいられるだろう。
彼がどれほど言葉の刃を向けてこようとも、私の心には、陽斗さんが築いてくれた強固な防壁がある。
(私はもう、あなたの色には染まらない。私の色は、私が決めるんだから)
空を見上げると、夜の闇の向こう側に、明日への希望が微かな星となって輝いていた。
生田の風は、湿り気を帯びながらも清々しく、私たちの頬を通り過ぎていく。
祭りの喧騒が遠のき、ポートライナーへと続く歩道に出た時、陽斗さんが短く言った。
「帰ろうか。明日のために、英気を養う必要がある」
「はい、帰りましょう」
そこには、私たちの居場所がある。
二度と、誰にも汚させない、静かな城が。
私は、陽斗さんの隣で、明日へと続く階段を力強く登り始めた。
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