閑話 嵐のあとの美術室 ~生徒視点~
「……ねえ、昨日のアレ、絶対現実だよね? 夢じゃないよね?」
水曜日の朝。北野の坂道に建つ校舎は、授業開始前から異様な熱気に包まれていた。
登校してくる生徒たちの口から漏れるのは、週末の『神戸まつり』のことでも、部活の愚痴でもない。昨日の放課後、あの校門前で繰り広げられた、あまりに劇的で、あまりに美しすぎる事件の全貌だった。
「おはよー! ちょっと、見た!? 今朝のしおちゃん先生!」
「見た見た! なんかさ、肌のツヤが違うっていうか、雰囲気がふわっとしてるよね」
「やっぱり、あの超絶イケメンの人と何かあったんだよ……! 絶対、一緒にいたでしょ!」
教室のあちこちで、女子生徒たちが固まって声を潜め、隠しきれない興奮で瞳を輝かせている。
その中心にいたのは、あの日、美術室で泣いていた瀬戸先生にハンカチを貸した、自称『しおちゃん先生守り隊』の面々だ。
「いい? あの日、私たちが校門で目撃したのは、単なる恋愛ドラマじゃないからね。あれは、一人の騎士が、数時間の待機という苦行を経て、我らがしおちゃん先生を救い出した聖戦だったのよ!」
「アハハハ、大げさだってば。でも、確かにあの執念は凄かったよね……。五時間目の移動の時に見た時、門のところで彫刻みたいに固まって立ってたんだもん。あのスーツ姿、逆に色っぽくて死ぬかと思った。あんな綺麗な顔の人が、あんなボロ雑巾みたいになってまで待つとか、ありえなくない?」
生徒たちの噂は、尾ヒレがついて校内を駆け巡っている。
三宮から全速力で走ってきたらしい、とか。実は大企業の御曹司で、政略結婚を蹴って先生を迎えに来たらしい、とか。中には「先生を傷つける悪い奴を一人で撃退してきた返り血だった」なんていう、物騒な妄想まで飛び出す始末だ。
とにかく、あの日の『陽斗さん』のインパクトは、多感な女子高生たちの心に深く、鋭く刻まれてしまったらしい。
「ねえねえ、本人に聞いてみようよ!」
「えっ、いける? あっ、今日の美術って、一時間目じゃん。ガチで突撃しよ!」
予鈴が鳴ると同時に、生徒たちは獲物を狙うハンターのような目つきで美術室へと雪崩れ込んだ。
――――
美術室の扉がガラリと開くと、そこにはいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべた瀬戸先生が立っていた。
しかし、生徒たちの目は誤魔化せない。
エプロンの下から覗くブラウスの襟元、いつもより少しだけ明るい色のリップ。何より、その瞳の奥に宿る『誰かに守られている女性』特有の、柔らかくも力強い輝きを。
「……みなさん、おはようございます。今日は風景画の仕上げですね。準備を始めてください」
先生が教壇に立った瞬間、教室内から「待ってました」と言わんばかりの手が一斉に挙がった。
「はいはいはーい! 先生、質問です!」
「えっと、風景画の技法についてかしら? それとも遠近法の話?」
「違います! 校門前のあの人についてです!」
直球すぎる質問に、瀬戸先生の顔が一瞬で林檎のように真っ赤に染まった。
チョークを持つ指先が、わずかに泳ぐ。
「……あ、あの、あれは……その。えっと」
「先生、『毒でも何でもいい』って言いましたよね! 私たち、バッチリ聞いちゃいましたから! あれって、どういう意味なんですかー」
「拍手すごかったですよね! あんな風に愛されてるなんて、マジで羨ましすぎます!」
「あの後、どこ行ったんですか? やっぱりあのままお泊まりとか!?」
「あのイケメンさん、なんて名前なんですか? やっぱりモデルか何かやってる人?」
堰を切ったように浴びせられる質問の嵐。
先生は「あぅあぅ……」と小さな声を漏らし、出席簿で顔を半分隠してしまった。その仕草がまた初々しくて可愛らしくて、生徒たちのボルテージはさらに上がる。
「先生、ズルいですよー! あんなドラマみたいな展開、私たちに見せつけといて内緒なんて!」
「お兄さん、靴ドロドロだったけど、大丈夫でした? ちゃんと拭いてあげました?」
「ネクタイ、誰が直してあげたんですかー? 先生が結んであげたんですかー?」
ひときわ大きな冷やかしの声が上がった、その時だった。
「――コホン」
美術室の開け放たれた扉の向こうから、低く、威厳(と少しの呆れ)を含んだ咳払いが響いた。
瞬間、教室の温度が数度下がった。
そこに立っていたのは、眼鏡の奥で鋭い光を放つ教頭先生だった。手には出席簿ではなく、何やら頭の痛そうな、分厚い書類を抱えている。
「……授業の準備は、まだ終わっていないようですね、皆さん、美術室は、恋バナをするための場所ではありませんよ」
生徒たちはクモの子を散らすように自分の席へと戻り、慌てて鉛筆やパレットを広げ始めた。
教頭先生はゆっくりとした足取りで教壇へ歩み寄り、顔を赤くしたまま立ち尽くす瀬戸先生の隣に立った。
「瀬戸先生」
「は、はい……! 教頭先生、申し訳ありません、今すぐ授業を始めます!」
「……いえ、授業の邪魔をするつもりはありません。ただ、少しだけよろしいですか。……昨日の『件』についてですが」
教頭先生は、眼鏡の位置を人差し指でクイッと直した。
「今朝から、私の耳には信じられないような報告がいくつも届いています。校門前で、外部の男性と……その、公衆の面前で過度に情熱的な場面を繰り広げ、下校中の生徒数十人を扇動して拍手喝采を浴びたと。……警備員からも、『異常事態が発生した』と報告が入ったのですよ。いま、まさに私が持っている書類。これ、すべてです」
「……すみません、本当に……」
瀬戸先生が消え入りそうな声で小さくなって謝る。
教頭先生は、深く、重い溜息を一つ吐き出した。それは厳格な説教というよりは、保護者が手に負えない子供を見るような、どこか苦笑いを含んだ響きに聞こえる。
「本校の教師として、品位を保つことは大切です。ましてや生徒たちの模範となるべき立場。……ですが、あの現場にいた他の先生方の報告によれば、その男性は昼過ぎから数時間も、石像のように微動だにせず貴方を待っていたそうですね。……まるで、命の恩人を待つ遭難者のようだったと。……あんな必死な男を追い返すのも、それはそれで教育上どうなのか、という意見もありましてね」
教室の隅で聞き耳を立てていた生徒たちが、ヒソヒソと「遭難者だって、ウケるー」「でも実際そんな感じだったよね」「執念の塊だったもん」と囁き合う。
「一応、形として注意はしておきます。……校内の秩序を乱さないこと。騒ぎを大きくしすぎないように。それから、あの男性をまた校門に数時間立たせるような真似は、近隣の迷惑にもなりますし、何より、その、……彼自身の健康状態も心配ですからね。早めに解決しなさい。いいですね?」
それは、教頭先生なりの最大限の譲歩であり、最大限の祝福でもあった。
瀬戸先生は目を見開き、それから深く深く頭を下げた。
「はい。……以後、気をつけます。本当に申し訳ありませんでした」
教頭先生が去り際、わざとらしく小声で付け加えた。
「……ちなみに、私の妻も偶然、買い物帰りにその場に居合わせていたらしく、『あれを許さないなら、あなたは血も涙もない人よ』と朝から釘を刺されましてね。全く、やれやれです。……早く幸せになりなさい」
教頭先生が廊下へ消えた瞬間、美術室には再び、爆発するような笑い声と歓声が沸き起こった。
「先生! 教頭先生も公認じゃん! 奥さんナイス!」
「『遭難者』のお兄さん、次に来る時はちゃんとネクタイ締めてきてねって伝えて! でも、あのだらしない感じも最高だったけど!」
「もー、先生幸せそうなんだから! 見てよ、あの空の絵。今までで一番綺麗だよ!」
窓から差し込む朝の光が、キャンバスを白く照らしている。
先生は、恥ずかしそうに、けれど本当に愛おしそうに、自分の指先をそっと見つめた。
そこには、昨夜あの人が力強く、壊れ物を扱うように繊細に握りしめてくれた熱が、まだはっきりと残っているかのように。
(……はい。二人で、ゆっくりいこうと思います。欠陥品同士、支え合って)
先生が教頭先生の背中に小さく呟いた言葉を、私たちは聞き逃さなかった。
風景画の授業。
今日、先生が手本で描いた空の色は、今まで見たどんな絵よりも、深く澄んだ希望の色をしていた。
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