閑話 職員室という名の観客席 ~教師視点~
北野の急峻な坂道に建つ校舎。その職員室は、水曜日の朝という週の折り返し地点にあるはずの静寂をかなぐり捨て、異様な熱気と喧騒の渦中にあった。
窓の外、北野坂を吹き抜ける風は瑞々しい初夏の香りを運んでいたが、室内を支配しているのは、それよりも遥かに濃厚な、昨日という日の”残り香”だ。
「……で、結局どうなったのよ。あの後の展開、もっと詳しく聞きなさいよ! あなた同期なんでしょ!」
学年主任が、まるで特ダネを追う記者のようにデスクを乗り出し、一人の若手教諭に詰め寄る。その勢いに押され、松本は困ったように肩をすくめる。
松本は、瀬戸詩織と同じ年にこの学校へ赴任してきた。性格こそ正反対だが、それゆえに詩織が唯一、本音を漏らすことのできる数少ない理解者だ。
「無理ですよ! あんな『劇的な幕切れ』を見せつけられて、誰が割って入れるっていうんですか。同期の私だって、昨日は声をかけるのを諦めたんですから。あの場にいた全員が、完全に背景のモブキャラに成り下がってましたよ。カメラが回ってたら、間違いなくピントすら合ってない位置です。主役の二人が凄すぎて、私たちなんてエキストラA、B、Cですよ」
教師たちがデスクを囲み、昨日の余韻を反芻している。その輪の外側では、年配の男性教諭たちが新聞を読むふりをして聞き耳を立てている。その視線は活字を追っておらず、明らかに隣の会話の続きを切望しているようだ。
「それにしても、瀬戸先生も隅に置けないわねぇ。いつもはおっとりして、絵のこと以外はどこか頼りない雰囲気だったのに」
「あんな……なんていうか、深く暗い情念を抱えていそうな美形を捕まえていたなんて。昨日の彼の姿、ちょっとした映画のワンシーンみたいだったわよ」
「松本先生、今まで何も聞いてなかったの? ほら、親友なんでしょう?」
学年主任の執拗な追及に、松本は少し視線を彷徨わせてから、小さく首を振った。
「いえ……彼の名前も、あんな人がいることも、昨日初めて知りました。隠し事してたっていうより、彼女自身も予期していなかったんじゃないでしょうか。あの時、彼女はまるで奇跡でも目撃したような顔をしてましたから」
「あら、意外ね。じゃあ、全くの初耳?」
「そういうわけじゃないと思いますけど。ただ……」
松本は、少し言い淀んでから言葉を継いだ。
「少し前に『失恋した』っていう話だけは、聞いていたんです」
「えっ、失恋? あの彼に振られたの?」
「いえ、相手は別の人です。詳しくは言いたくなさそうでしたけど、もっとこう、打算的というか……彼女の才能だけを利用しようとするような、ろくでもない男だったみたいで。だから、彼女はもう当分、誰とも向き合えないんじゃないかって、勝手に心配してたんですけど」
松本は窓の外、詩織が籠もる美術室の方角を、少しだけ誇らしげに見やった。
「でも、昨日のあの人の瞳を見て、合点がいきました。瀬戸先生が必死に隠していたのは、過去の傷じゃなくて、あの人への……あんな風にしか届かない、重すぎる想いの方だったのかもしれないって。捕まえていたっていうより、あれは完全に『狩られて』ましたよ」
職員室に、しんとした沈黙が流れる。誰もが、あの熱に浮かされたような放課後の光景を脳裏に描いていた。その沈黙を破るように、腕組みをしていた中堅の男性教諭が、深く吐き出すような溜息をついた。
「……確かに、ありゃあ凄かったな。あの男、校門の前で待っている間、ずっと何かに祈るような……あるいは処刑を待つような、悲壮な顔をしていたぞ。スーツは皺だらけ、靴は泥を被ってな。だが、そのなりふり構わぬ姿が、かえって奴の中に眠る熱の激しさを際立たせているというか……正直、同性から見ても息が詰まるような、危うい色気があったよ」
周囲の盛り上がりに、松本は静かに首を振って口を開いた。
「そんな、綺麗な言葉で片付けられるようなもんじゃないですよ」
「どういうこと?」
学年主任が身を乗り出す。松本は、昨日の陽斗の姿を思い出すように目を細めた。
「あれはきっと、呪いに近い。……さもなくば、救済かな」
「呪い……救済……?」
「えぇ。昨日、彼が校門に立っていたのは五時間目どころじゃない。昼休み前にはもう、あそこにいたそうですから」
松本はペンを置き、組んだ指に力を込めた。
「あんな風に、切実な目をした男なんて……。あの瞳を見てしまったら、もう放っておけないでしょう」
松本は溜息混じりに、言葉を絞り出すように言った。
「彼女以外に、誰があんな男を支えられるというんですか。……あの二人には、他人が立ち入る隙間なんて、最初からないんですよ」
そこへ、教室内を確認してきた別の教諭が、肩を落として戻ってきた。
「……瀬戸先生、もう行っちゃいましたよ。出勤するなり、こちらの視線を避けるようにして……挨拶もそこそこに、逃げるように美術室へ籠もっちゃいました。あんなに慌てた彼女、初めて見ましたよ」
「質問責めにされるのを察知したんでしょうね。でも、しぶとい生徒たちがなんとか名前だけは聞き出したみたいですよ。陽光の陽に、北斗七星の斗で『陽斗)』さんですって。なんだか、彼女の描く絵みたいな名前じゃないですか。光と影が混ざり合ったような」
その会話を黙って聞いていた体育教師が、隣で茶を啜る教頭に視線を送った。
「しかし、不思議なものですね。教頭だって、昼休み前から窓から何度も確認してましたよね? なんで放置したんですか。あんな不審者、普通ならすぐに通報か追い出しでしょう」
教頭は、ふう、と短く息を吐いて湯呑みを置いた。
「……声を、かけられるような雰囲気ではありませんでしたよ」
「教頭でもですか?」
「ええ。あれは、祈りのような静寂を纏っていました。不用意に触れれば、こちらまでその業に引きずり込まれるような気配です。警備員も『あんなに必死な顔で立たれたら、仕事でも追い出せない』と溢していましたしね。まるで、大切なものを失った遭難者が、最後の希望に縋り付いているようだったと」
教頭は席を立ち、分厚い書類を小脇に抱えて、鋭い光を眼鏡の奥で走らせた。
「今朝、警備員から提出された報告書です。名目は『校門前における異常事態の発生』。この分厚い書類の束、すべてがあの数時間の記録ですよ。外部の男性が公衆の面前で情熱的な場面を繰り広げ、下校中の生徒数十人を扇動して拍手喝采を浴びたと。報告書にはそう記されています」
教師たちの視線が、その不自然なほどに重たい書類に集まる。
昨日、あの場所に漂っていた熱量と、それを見届けた生徒たちの興奮が、官公庁のような味気ない文体に無理やり押し込められている。
「これ以上、生徒たちに余計な期待を持たせるわけにもいきません。学校は学びの場であって、恋愛映画のロケ地ではない。瀬戸先生には、少し釘を刺しておく必要がありますね。あの男性をまた校門に数時間立たせるような真似は、近隣の迷惑になりますからな。早めに解決しなさい、と。……まあ、彼自身の健康状態も心配ですしね」
教頭は眼鏡の位置を直し、職員室の出口へと歩き出す。扉に手をかけたところで、彼はふと思い出したように足を止めた。
「……余談ですが、私の妻もあの日、偶然買い物帰りに近くに居合わせていたそうでしてね。『もしあの二人を引き裂くような真似をしたら、あなたを一生恨む。あなたは血も涙もない男なのか』と、朝から厳しく念を押されてしまったのですよ。全く、家庭の平和まで脅かされるとは、やれやれです」
教頭は、背中越しに小さく笑みを滲ませた。
「早く幸せになって落ち着いてもらわんと、私の胃が持ちませんよ。……早く幸せになりなさい、と。そう伝えてくることにします」
教頭が廊下へ消えていく。その背中を見送りながら、教師たちは再びそれぞれの仕事へと戻っていく。
職員室の窓からは、神戸の街並みが一望できる。遠くポートアイランドのコンテナクレーンが、朝霧の中に巨大な影を落としている。あの人工的な島で、彼が何を捨て、何を守ろうとしたのか。それを知る由もない教師たちの足取りは、どこか昨日よりも軽やかだった。
チャイムの音が、職員室に響き渡る。
それは、昨日までの沈滞した空気を切り裂き、未来へと続く瑞々しいリズムを刻んでいるようだった。
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