第25話 境界線の融解 ~詩織視点~
放課後の喧騒が遠ざかり、夕闇が校庭の隅々まで侵食し始めていた。
私は、重い鉛を飲み込んだような体を引きずり、ようやく校門の前まで辿り着いた。
美術室で流した涙の痕は、冷たい風に吹かれて肌に張り付き、心まで強張らせている。
(帰らなきゃ。帰って、またあの独りきりの夜をやり過ごさなきゃ……)
俯いたまま、鉄格子の門を抜けようとしたその時だった。
視界の端に、場にそぐわないほど端正で、でも、ボロボロに崩れた影が映り込んだ。
「……陽斗……さん?」
心臓が、喉の奥で跳ねた。
そこにいたのは、ポートアイランドの無機質な部屋にいるはずの彼だった。
高級なスーツは汗と埃にまみれ、整えられていたはずの髪は乱れ、常にピカピカに磨かれていた靴は泥だらけになっている。
いつも完璧に締め上げられていたはずのネクタイは、喉元を締め付けるものを無理やり引き剥がしたかのように大きく緩み、斜めに歪んでいた。その隙間から覗く首筋の荒い脈動が、彼の切迫した内面を何よりも雄弁に物語っている。
何より、門扉を握りしめる彼の指先が、見たこともないほど小刻みに震えていた。
「しお……り、さん……」
掠れた、今にも消え入りそうな声が私の名前を呼ぶ。
その瞬間、私の中にあった拒絶された痛みよりも先に、彼を包み込む寒さが伝わってきた。
先日の氷のように冷え切った眼差しはどこにもない。
今の彼は、迷子になった子供のように、ただ必死に私という光を繋ぎ止めようとしている。
「どうして……? お仕事は? それに……あんなに、もう会わないって……」
「……耐えられなかった。午後から、ずっとここにいたんだ。……君が出てくるのを、ずっと待っていた」
陽斗さんは、一歩、私の方へ踏み出した。
周囲には、下校を始めた多くの生徒たちの姿があった。彼らは突然現れた必死すぎるスーツの男と、立ち尽くす美術教師の異様な空気に足を止め、瞬く間に人垣が膨れ上がっていく。
「え、何……何が起きてるの?」
「不審者!? いや、あの人、昼休みくらいからずっと校門のとこにいなかった?」
「そうだよ! 五時間目の移動の時に見たもん。ずっとあの場所に、石みたいに固まって立ってた人だ」
「えっ、じゃあ数時間もずっと立ってたの? あの格好で?」
「ていうか、よく見たらめちゃくちゃ顔良くない? モデルか何か?」
「ヤバい、超イケメンなんだけど。整いすぎてて怖いレベル」
「スーツの着こなしとか絶対タダ者じゃないよね。あんな綺麗な顔の人が、ネクタイあんなに緩めて、ボロボロになって……」
「瀬戸先生、顔真っ赤じゃない……。えっ、もしかしてドラマみたいな展開?」
「あんなにカッコいい人が、仕事投げ出してまで先生に会いに来たってこと?」
好奇と当惑、そして隠しきれない興奮の入り混じった囁き声が、夕暮れの空気に波紋のように広がっていく。
その群衆の中に、先日、美術室で泣いていた私を心配して、ハンカチを差し出してくれた女子生徒たちの姿も見えた。彼女たちは目を見開き、心配と驚きが入り混じった表情で、私と陽斗さんを交互に見つめている。
「先生、大丈夫かな……。それに、あの人、昼からずっと、あんなにボロボロになってまで先生を待ってたの?」
「見てよあの靴、泥だらけだよ。三宮から走ってきて、それからずっと待ってたんだよ、絶対」
「先生を泣かせたのあの人かな。でも、あんな顔で縋られたら絶対許しちゃうよね。破壊力が凄すぎるもん」
「あんなに冷たそうな美形が、あんな必死な顔で立ってるなんて……執念っていうか、すごいね。愛されてるんじゃないの?」
「うわ、見て。先生を見る目がガチだよ。あんな風に見つめられたら死ぬ……」
「ネクタイ緩んでるの、なんか色っぽすぎてヤバい」
彼女たちの視線に気づきながらも、今の私には陽斗さんしか見えなかった。
目の前で、論理という鎧をすべて脱ぎ捨て、剥き出しの心で立っているこの人だけを、世界から切り取ったように見つめていた。
「君がいない生活が、これほどまでに……機能しないとは思わなかった。最適化されたはずの部屋が、ただの墓場にしか思えないんだ」
彼は震える手で、私の頬に触れようとして、寸前で止めた。
多くの生徒たちに見守られていることへの理性が働いたのか、あるいは私を傷つけた自覚が彼の動きを縛っているのか。
その躊躇いが、私をさらに泣かせた。
「陽斗さん、私……。貴方の毒になりたくなかった。でも、貴方がいない世界は、私にとっても灰色でしかなかったの」
私たちは、夕暮れの校門という、あまりにも無防備な場所で、互いの存在を確かめ合うように見つめ合った。
これまで、私たちは友達という便利な言葉に逃げてきた。
お互いの孤独を埋めるための都合の良い境界線。
一線を越えなければ、傷つくこともない。
そう信じて、この脆い関係を守ってきたはずだった。
言ってみれば、『恋愛禁止同盟』のようなものだ。
それが今、目の前で崩れ落ちそうな、泣きそうな顔の彼を見て、私は悟ってしまった。
(もう、友達なんて言葉じゃ、この感情を説明できない)
それは、相手を思いやるだけの綺麗なものじゃない。
相手がいなければ、自分という存在が成立しなくなる。
そんな、恐ろしくて、切実で、傲慢なまでの渇望。
「詩織さん。俺は、欠陥品だ。君に縋らなければ、正気すら保てない、最低の男だ。……それでも、隣にいてほしい。友達でいいなんて、もう嘘はつけない」
陽斗さんの言葉が、夕闇に溶けていく。
その切実な吐露に、ざわついていた生徒たちの空気がふっと変わった。
静寂を破ったのは、私を励ましてくれた女子生徒の突き抜けるような叫びだった。
「しおちゃん先生、ガンバ――!」
その声を皮切りに、ダムが決壊したようにあちこちから声が飛ぶ。
「先生、行っちゃえ!」
「その人、絶対離しちゃダメだよ!」
「お兄さん、先生を泣かせたら承知しないからね!」
「何時間も待ってたんだよ、許してあげて!」
「応援してるよー!」
「しおちゃん先生、幸せになって!」
「お兄さん、イケメンすぎるから信じるよ!」
「先生、その人カッコいいよ! 捕まえちゃえ!」
境界線は、もうどこにもなかった。
私たちは、互いの欠落を埋めるために、相手という不可欠なピースを求めて、深い場所へと足を踏み入れようとしていた。
「……いいですよ。毒でも、何でもいい」
私は、彼の震える手を、自分の両手で包み込んだ。
その瞬間だった。
ワァァァァ、という地響きのような歓声とともに、校門を取り囲んでいた何十人もの生徒たちから、一斉に拍手が沸き起こった。
パチパチと重なり合う音の粒が、夕暮れの北野の街に響き渡る。
衆人環視の校門前だということも、教師としての立場も、すべてが祝福の渦と熱の中に消えていく。
彼の熱が、私の肌を通して心臓へと流れ込んでくる。
「貴方が欠陥品なら、私も同じ。……二人で、壊れていきましょう」
誰かがスマホを構え、誰かが口笛を鳴らし、多くの生徒たちが笑顔で私たちを囃し立てている。
陽斗さんはもう周囲の視線から逃げようとしなかった。
歪んだネクタイも、乱れた髪も、剥き出しの醜態も、今の彼にとっては私というたった一人の理解者の前では無価値なものになっていた。
ただ、私の手を握り返す力だけが、痛いくらいに強くなっていく。その強さが、彼が決して私を離さないという誓いのように感じられた。
背後で、校舎の時計が閉門を告げる音を鳴らした。
でも、私たちは動けなかった。動かなかった。
夕暮れから夜へと変わる、その曖昧な境界の中で。
私たちはただ、新しく名付けようのない関係の始まりを、静かに受け入れていた。
(さよなら、友達。……こんにちは、私の、いいえ、私達のかけがえのない愛)
繋いだ手から伝わる鼓動は、驚くほど速く、そして力強かった。
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