第22話 防衛本能の誤作動 ~陽斗視点~
生田の森で、詩織の温もりに包まれたあの夜。
すべてをさらけ出し、彼女の腕の中で泥のように眠りについたあの日から、俺の意識は常に一つの深刻な警報を、脳内の全領域で鳴らし続けていた。
数日後。俺はいつものように、北野にある彼女のアトリエを訪れていた。
本来なら、ここは俺にとって世界で最も安全な、唯一息ができる場所であるはずだった。だが、今の俺にはここが、一歩足を踏み入れれば二度と戻れない、甘く危険な底なし沼の入り口のように思えてならない。
使い込まれたイーゼルの匂い、油絵具の微かな香り、そして窓から差し込む柔らかな光。そのすべてが、今の俺には自分の皮膚を侵食してくる毒のように感じられた。
(……おかしい。何かが致命的に狂っている)
俺は椅子に深く腰掛けることすらできず、入り口の近くで立ち尽くしていた。
詩織は、俺のそんな異変に気づいているのかいないのか、いつものように柔らかな微笑みを浮かべて、キッチンの方へと足を向ける。
「陽斗さん、顔色が良くないですよ? まだあの雨で冷えたのが残ってるんじゃ……。温かいコーヒー、すぐ淹れますね。昨日、北野坂の近くで美味しそうな豆を見つけたんです。陽斗さんの口に合うといいんだけど」
詩織が心配そうに顔を覗き込んでくる。その瞳には、あの夜と同じ、濁りのない、まっすぐな慈しみが宿っていた。
触れたい。
その細い指先に触れて、昨夜の熱をもう一度確かめたい。
そんな強烈な、本能的な欲求が脳裏をかすめた瞬間、俺の背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。
(……危険だ。これ以上は、取り返しがつかなくなる)
彼女がキッチンの方へ向かおうとする背中を見つめながら、俺は反射的に、突き放すような言葉を投げつけた。
「……いや。コーヒーはいらない。すぐに出るから」
「え……? でも、せっかく来てくれたのに。まだ座ってもいないじゃないですか。何か急ぎの用事でも思い出しました?」
詩織が戸惑ったように足を止める。俺は彼女と目を合わせないように、わざと事務的な、冷淡な声を出した。自分でも驚くほど、声が刺々しく、他人のように響く。
「次の打ち合わせの資料をまとめなきゃいけないんだ。少し集中させてくれ。……いや、そもそも、こうして頻繁にここに通うこと自体、俺の生活リズムとして効率的じゃない。今後は控える」
「陽斗さん……? 急に、どうしたんですか? 私、何か気に障るようなこと、しちゃいましたか? もし、あの夜のことで私が何か変なことを……」
詩織は傷ついたように瞬きをしたが、それでも健気に歩み寄ろうとしてくる。
彼女が近寄るたびに、俺の中の「独り身」という防衛システムが、鼓膜を突き破らんばかりに警告を鳴らすのだ。
――これ以上、彼女を必要とするな――
――彼女がいなければ息もできないほど、深く依存してしまったらどうする?――
――もし、明日、彼女が心変わりをして俺を捨てたら?――
――もし、彼女が俺の欠陥に愛想を尽かして立ち去ったら?――
貝村親子との戦いには勝った。泥沼のような過去を引き摺り出し、あいつらを社会の表舞台から引きずり下ろしてやった。だが、その勝利さえも、今の俺には何の保証にもならない。
あの女に裏切られたあの時、俺の尊厳はズタズタになった。だが、それはまだ「怒り」という燃料で立ち上がれる程度の傷だったのだ。
もし今、この人に拒絶されたら。
それは尊厳どころか、俺という存在そのものの完全な消滅を意味する。俺を俺として繋ぎ止めている最後の糸が、彼女の手の中に握られているような気がして、たまらなく恐ろしい。
救われれば救われるほど、彼女の隣に居場所を見つけてしまうほどに、その後に待っているかもしれない”喪失”の影が、巨大な怪物のように膨れ上がっていく。
(……このままじゃ、俺が壊れる)
俺は、彼女を拒絶することで自分を守ろうとした。
論理的に、効率的に。かつて俺を救ってくれたはずのその思考回路が、今は彼女を、『排除すべきバグ』として認識している。
「詩織さん。……しばらく、ここに来るのは止めることにする。あんたも、当分の間、俺に連絡するのは控えてくれ」
俺は自分を、そして彼女を遠ざけるために、持てる限りの冷徹な言葉を選んだ。
「え……? どうして、急にそんな……。理由を教えてください。私、陽斗さんの力になりたいって、あの夜に言ったじゃないですか……!」
「理由なんてない! 強いて言えば、俺が俺でいられなくなるのが嫌なだけだ。あんたの隣にいると、俺はどんどん弱くなっていく。それが耐えられないんだ」
詩織が目を見開く。その瞳に溜まっていく涙を見ていると、胸が潰れそうになる。だが、その痛みこそが「依存の証拠」だと、俺の防衛本能がさらに激しく警報を鳴らす。
「今回の件で、自分の脆さがよく分かったんだ。仕事に支障が出るような感情の乱れは、俺の人生には必要ない。……あんたの優しさは、俺には過ぎたものだ。今の俺にとっては、前へ進む足を鈍らせる毒でしかないんだよ」
「陽斗さん、そんな悲しいこと言わないで! 毒だなんて……私はただ、貴方のそばにいたいだけなのに……!」
「もういい! これ以上、俺を壊さないでくれ……っ!」
叫ぶように遮ると、アトリエの中に重苦しい沈黙が落ちた。
詩織の瞳から、一筋の涙が零れ落ちるのが見えた。
それを指で拭ってやりたい衝動、そのまま彼女を抱き寄せて「嘘だ!」と言いたい本能を、俺は拳を白くなるまで強く握りしめて殺す。
(……触れるな。これ以上、絆を深めるな。独りに戻るんだ。それが唯一の安全策だ)
分かっている。これは最低な自衛手段だ。
傷つくのが怖いから、先に絆を自分から断ち切ろうとしているだけの惨めで臆病な逃避だ。
だが、今の俺にはこうして彼女を遠ざけることしか、自分というシステムの崩壊を防ぐ方法が分からなかった。
愛おしくて、大切すぎて、失うことが死ぬよりも恐ろしい。
なら、いっそ最初から何もなかったことにしたい。
救われたはずの心が、今度は、救ってくれた相手を、自分を脅かす最大の敵と見なして排除しようとしている。
そんな矛盾だらけのパニックに突き動かされながら、俺は逃げるようにアトリエの扉を開けた。
「陽斗さん! 待って、行かないで!」
背後で詩織が俺の名前を呼ぶ悲痛な声が聞こえた。だが、俺は振り返ることができなかった。
今、振り返って彼女の涙を見てしまえば、俺の築いた防壁は砂の城のように崩れ去ってしまう。
俺は階段を転がるように駆け下り、北野の坂道を、震える足取りでがむしゃらに下った。
ポートアイランドにある自分のマンションへと戻り、暗い部屋のソファに深く身を沈める。
窓の外、遠くにポートタワーの赤い光が海面に揺れているのが見えた。
自分の手で、自分を縛り上げる見えない鎖をさらにきつく締め直し、俺は静寂の中に沈んでいく。
彼女を拒絶することで守った”自分”が、こんなにも空っぽで、凍えるような場所だとは、気づかないふりをしたまま。
(これでいい。これで、誰も俺を傷つけられない……)
そう自分に言い聞かせるたびに、胸の奥で何かが死んでいくような、鈍い痛みが響いていた。
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