第23話 灰色のアトリエ ~詩織視点~
あの日、陽斗さんがアトリエの扉を閉めて出て行ってから、私の世界の時間は止まったままだった。
バタンッというあの乾いた音。私の心に直接杭を打ち込むような、冷たくて残酷な音が、今も耳の奥で何度もリフレインしている。
一晩中、冷え切ったアトリエの床で膝を抱えていたけれど、夜明けの光は無情にも差し込み、世界が動いていることを突きつけてくる。私は腫れ上がった目を冷やし、厚めの化粧で無理やり『瀬戸詩織』という仮面を整えて、重い足取りで学校へと向かった。
今日は火曜日。私の担当する美術の授業はない日。
いつもなら、空いた時間で教材の研究をしたり、生徒たちが描いている絵の進捗を確認したりと、忙しくも充実した時間を過ごせるはずなのに。今の私には、職員室の賑やかな会話すら、鼓膜を逆撫でするノイズでしかなかった。
放課後のチャイムが鳴り響くと同時、私は逃げるようにして美術室へ滑り込んだ。
まだ生徒たちが来る前の静まり返った教室内。油絵具のツンとした独特の匂いと、長年使い込まれた木製のイーゼルの乾いた香り。ここだけが、今の私にとって唯一、震える肩を休めて呼吸ができるシェルターだった。
窓から差し込む夕日は、驚くほど鮮やかで濃いオレンジ色をしていて、それがかえって私の心を虚しく、空っぽにさせた。
私は部屋の隅、誰にも見られない位置に置いたままの真っ白なキャンバスの前に座り込んだ。
いつもなら、この真っ新な四角い空間をどう彩ろうか、どんな光を落とそうかと胸が躍るはずだった。なのに今は、筆を持とうとしても指先に全く力が入らない。パレットの上に置かれた鮮やかなはずの絵具すら、熱を失った泥のような塊にしか見えなかった。
「陽斗さん……ひどいよ。あんな言い方って、ないじゃない」
誰もいないはずの室内で、私は堪えきれずに膝を抱えて、声を殺して泣いた。
あの氷のように冷え切った陽斗さんの眼差し。
私を突き放すための刃物のような冷たい言葉。
『毒になる』。
私が彼のために、少しでも力になりたいと注いできた想いは、彼にとっては自分を内側から壊す劇薬でしかなかったのだろうか。救われることが恐怖に変わってしまうなんて、そんな悲しいことがあっていいの?
涙がポタポタと、自分のスカートの上に濃い染みを作っていく。嗚咽が漏れないように口を覆っても、溢れる悲しみは指の間から零れ落ちていった。
(私、嫌われちゃったのかな。……ううん、そうじゃない。陽斗さんは、怖がっていたんだ)
泣きながらも、私の頭の片隅には、彼が去り際に浮かべたあの表情が焼き付いて離れない。
あれは、私を嫌悪している人の顔じゃなかった。
今にも崩れ落ちそうな自分を、必死に、ただ必死に守ろうとして、手当たり次第に周囲を攻撃して遠ざけてしまう。そんな、暗い闇の中で震えている子供のような、悲しい顔だった。
でも、私にはその闇に入っていくことが許されなかった。
「……あれ? しおちゃん先生? どうしたの?」
不意に背後から声をかけられ、私は肩を大きく跳ねさせた。
慌てて目元を拭い、振り返る。そこには、美術部の女子生徒たちが四人、放課後の活動のために集まってきたのか、入り口で足を止めてこちらを凝視していた。
「あっ……みんな。ごめんなさい、気づかなくて」
私は無理やり口角を引き上げ、努めて明るい、いつもの『しおちゃん先生』のトーンで声を出す。だが、生徒たちの視線は驚くほど鋭く、そしてどこまでも真っ直ぐで優しかった。
一番近くに寄ってきた子が、私の隠しきれなかった目元の赤さと、震える指先をじっと見つめて、心配そうに眉を寄せる。
「しおちゃん先生、顔色が真っ白だよ。……何かあった? 今日は授業もないのに、ずっとここにいたの? そんなに思い詰めた顔、初めて見た気がする」
「そうだよ。いつも元気なしおちゃん先生じゃないみたい。どこか具合でも悪いんじゃ……。顔、すごくしんどそう」
後方にいた生徒たちも、作業の手を止めて不安そうに顔を見合わせている。彼女たちの汚れのない、混じり気のない心配が、今の私のボロボロになった心には、痛いくらいに眩しく、そして鋭い針のように刺さった。
「なんでもないのよ。本当に、本当になんでもないから。心配させてごめんね」
必死に喉の奥を固めて、これ以上涙が出ないように、教師としての体裁を守ろうと取り繕った。けれどそのとき、部長の女の子が、そっと私の震える肩に手を置いた。
「しおちゃん先生。先生はいつも、私たちに教えてくれるよね。『苦しいときは言葉にしなくていい、その分を絵に描きなさい』って。……でも、今の先生は、絵も描けないくらい苦しいんでしょ?」
その、あまりにも優しすぎる理解が、張り詰めていた私の心の最後の糸を、ぷつりと切ってしまった。
「あっ……」
堪えようとしたのに、堰を切ったように大きな涙の粒が、視界を歪ませて床に落ちた。一度溢れ出した感情は、もう私の意志では制御できなかった。私は生徒たちの前だということも忘れて、顔を覆って泣き崩れてしまった。
「しおちゃん先生!? え、どうしよう、本当に泣いちゃった……!」
「先生、大丈夫!? 誰かに何か言われたの? 誰なのよ、しおちゃん先生をこんなに泣かせたのは!」
生徒たちは、私の突然の崩壊に顔を真っ青にして、激しく動揺し始めた。
おろおろと私の周りを取り囲み、小さな手で背中をさすってくれる子や、カバンを漁って清潔なハンカチを差し出してくれる子。
彼女たちの混乱した、その一生懸命な愛しさが、今の私にはただただ申し訳なくて、情けなかった。私が支えなきゃいけない存在なのに、私は彼女たちにまで心配をかけて。
「ご、ごめんね……なんでもない、本当になんでもないの。ただの寝不足かな……」
しゃくり上げながら、やっとの思いで吐き出した「なんでもない」という言葉は、自分でも驚くほど掠れていて、空虚に響いた。
陽斗さんが私に投げつけた冷たい拒絶。それを隠そうとする私の見え透いた浅ましい嘘。
どちらも同じくらい、この夕暮れの美術室の中で、虚しく、寂しく響いて消えた。
「そんなわけないよ! こんなに震えてるのに……。しおちゃん先生、私たちじゃ力になれないかな? なんでも聞くよ?」
生徒たちは、今にも自分たちまで泣き出しそうな、切なげな表情で私を見つめている。
でも、私はこれ以上、彼女たちの純粋な心に、私のドロドロとした灰色の感情を押し付けるわけにはいかなかった。教師として、一人の大人として。
「……本当に大丈夫。少し、独りで考えをまとめたいだけなの。今日は部活、休みにしていいから、みんな早く帰りなさい。私も、少ししたらちゃんと帰るから。約束するわ」
私は彼女たちの目をまともに見られず、視線を真っ白なキャンバスへと無理やり逃がした。
私の頑なな態度に、生徒たちはそれ以上踏み込めず、「……無理しないでね、しおちゃん先生。明日、また笑ってる先生に会いたいから」と、何度も何度も振り返りながら、心配そうに美術室を去っていった。
一人になった美術室に、また重苦しい沈黙が戻る。
生徒たちが残していった、廊下を歩く足音が遠ざかるたびに、孤独が深まっていく。
私は立ち上がると、一本の筆を取った。
でも、パレットに向き合っても、描けるのはやっぱり灰色だけだった。
陽斗さんに出会う前の世界に色がなかった頃の私。
彼がいないこれからの世界も、きっとこんな風に、何の熱も持たない無機質な灰色に染まってしまうんだろう。
救いたかった。彼に『生きていていいんだ、独りじゃないんだ』と、全身全霊で伝えたかった。
でも、私のその想いこそが、彼を一番追い詰め、苦しめていたのかもしれないと思うと、もう筆を動かすことさえ罪悪感に変わってしまう。
私は美術室の隅に蹲り、冷たい床の感触を肌で感じながら、ただ時間が過ぎるのを待った。
暗くなった美術室の中で、独り。
自分を拒絶した、それでも大好きな人の手の温もりを必死に思い出しながら、いつまでも震えていた。
(陽斗さん……。貴方は今、ポートアイランドのあの部屋で、独りで寂しくない? ……私は、死ぬほど寂しいよ。貴方がいない世界は、こんなにも色がなくて、寒いんだよ)
春の夜風が、窓をガタガタと不安げに揺らす。
それは、行き場を失った私の心の泣き声みたいに、いつまでも止むことはなかった。
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