第21話 鎮守の森の抱擁 ~詩織視点~
扉が、バタンッと嫌な音を立てて閉まった。
ついさっきまで、あんなに穏やかで、お互いの体温が伝わるような温かな空気が流れていたはずのアトリエ。けれど今は、取り残された私と、主を失った椅子、そして冷めかけて頼りなく湯気を上げる二つのマグカップだけが、そこに取り残されていた。
「陽斗さん……?」
唇から漏れた彼の名前は、誰に届くこともなく、しんとした静寂に吸い込まれて消えた。
最後に見た彼の顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。私を、あるいは自分自身を心の底から怖がっているような、ボロボロに砕け散ったあの眼差し。
勝利を掴んで、過去の嫌な思い出を全部片付けたはずの彼が、どうしてあんなに悲しい顔をして逃げ出したのか。
「待って……行かないで……!」
私はイーゼルの横に掛けていた薄手のコートをひったくるように掴むと、靴を履くのももどかしくアトリエを飛び出した。
古いアパートの階段を駆け下りる足音が、コンクリートの壁に跳ね返って、私の心臓をドクドクと激しく急かした。
表へ出ると、北野の夜風は思っていた以上に冷たかった。雨上がりの湿った空気が、肺の奥をツンと刺すように冷やして、私の焦燥感をいっそう強くした。
「陽斗さん! どこ……どこにいるの!?」
街灯の下、銀色に濡れたアスファルトが鏡みたいに街の灯りを跳ね返している。
彼はどこへ向かったんだろう。いつも理屈で考えて、一番効率がいい道を選ぶ彼なら、三宮の駅を目指すだろうか? それとも、頭の中がぐちゃぐちゃになって、ただこの暗闇を彷徨っているんだろうか。
私は彼の影を探して、夜の北野をがむしゃらに駆け下りた。
「お願い、まだ遠くに行かないで……」
坂を下るにつれて、神戸の街は夜の暗闇を深くしていく。
三宮の賑やかな通りに出る、少し手前。街のざわめきが嘘みたいに消えた場所に、生田神社の赤い鳥居が、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
なぜだか、確信があった。
何でも計算して、いつでも正解を探し続けてきた彼が、こんなに心が乱れた時に行きたい場所。それは理屈なんて通用しない、ただ静かな神様が守る森なんじゃないか、と。
境内の奥へと足を踏み入れる。
そこには、都会の真ん中とは思えないほどの深い闇と、古い森の匂いが立ち込めていた。
風に揺れる木々の葉っぱが、カサカサと誰かの囁き声みたいに聞こえる。その森の奥、大きな木の根っこが複雑に絡まり合っている茂みの陰に、私は見つけた。
濡れた土の上に膝をつき、小さくなって震えている、その背中を。
「陽斗さん……!」
駆け寄ろうとした私の足音に、彼はビクッと大きく肩を跳ねさせた。
自分の肩をぎゅっと抱くように腕を回して、彼はガタガタと激しく震えている。
近づいた私の気配に気づいたのか、彼は顔を上げないまま、絞り出すような、今にも消えそうな声を漏らした。
「……来るな。お願いだ、俺を見ないでくれ」
「嫌です! そんなこと言われても、放っておけるわけないじゃないですか!」
「見ちゃいけないんだ……。今の俺は、無様で、ぐちゃぐちゃで……。一番見られたくない姿なんだ」
「無様だっていいですよ! 陽斗さん、何があったんですか? あんなに、あんなに上手くいったのに……」
「壊れてしまったんだ。俺は、俺はまた……。完璧だと思っていたんだ。ちゃんと理屈を組み上げて、無駄なものを捨てて、もう二度と心が揺れることなんてないと思っていたのに」
彼は声を震わせながら、地面を強く握りしめた。
「あんたのことを想うたびに、胸の奥が焼けるみたいに熱くて、頭の中がバラバラになってしまうんだ。感情を計算しようとしても、答えが出ない。こんな……こんなダメな、欠陥だらけの自分なんて、生きていく場所なんてどこにもないんだ……!」
「……欠陥だなんて、そんなこと言わないで!」
「本当のことだろ! 俺は効率的に、論理的に生きてなきゃいけないんだ。そうじゃないと、あの連中にまた笑われる。また『いらない人間』に逆戻りだ。なのに、あんたの顔を見ると、全部どうでもよくなって、ただ怖くて……!」
それは、いつも自信満々に仕事の話をする彼の言葉じゃなかった。
役に立つかどうかという残酷な物差しで自分を縛り付けて、そこから少しでもはみ出すことを死ぬほど怖がっている、迷子になった子供の悲鳴だった。
私は、服が泥で汚れるのも気にせずに、彼のすぐそばに膝をついた。
夜の闇と冷たいしずくに打たれて、氷みたいに冷たくなってしまった彼の体。私は迷わず、その震える背中へ両腕を回して、力いっぱい抱きしめた。
「……っ! 詩織さん……。やめろ、離せよ、汚れるだろ。俺みたいな、壊れた人間に触っちゃいけないんだ……」
「離しません。絶対に、絶対に離しませんから!」
「離せって……! 俺には、もう何もないんだ。プライドも、冷静さも、全部捨てて逃げ出してきた。ただの抜け殻なんだよ」
「抜け殻なんかじゃありません。こんなに、こんなに熱くて、震えてるじゃないですか」
拒絶しようとして身をよじる彼の力を、私はもっと強く抱きしめることで封じ込めた。
私の体温が、夜の森に奪われていく彼の熱を、必死に繋ぎ止めようとする。
ドクンドクンと、壊れそうな時計みたいに早く打つ彼の心臓の音が、私の胸に直接伝わってくる。
「陽斗さん、聞いてください。……貴方は、悪くない。悪くないんですっ!」
陽斗さんの呼吸が、一瞬だけ止まった。
「心がぐちゃぐちゃになるのも、理屈通りにいかなくなるのも、それは貴方が壊れているからじゃありません。……貴方が、誰かを一生懸命に好きになろうとしているからです」
「好きに……俺が、あんたを……?」
「はい。誰かのことを想って、怖くてたまらなくなるのは、とても、とても優しいことなんですよ。自分よりも大事なものができちゃったっていう証拠なんですから。だから、貴方は何も悪くありません」
「……でも、俺は……、ダメな人間なんだ。効率とか、理屈とか、仕事の道具としてしか価値がないはずなのに、それすらめちゃくちゃにして……」
「いいえ。そんな道具みたいな価値、私はどうでもいいです。貴方は、ただの人間です。私の大好きな、不器用で、まっすぐで、一生懸命な、たった一人の人間です。欠陥なんかじゃありません。その心の揺らぎこそが、貴方がちゃんと生きているっていう証拠なんです」
「詩織さん……本当に、俺で……いいのか? こんな、理屈も言えなくなった、情けない男で……」
「そんな陽斗さんがいいんです。今の陽斗さんが、一番人間らしくて、愛おしいです」
私は何度も、何度も繰り返した。
彼を傷つけた世界のひどい声よりも大きく、私の心の全部を込めた温度を伝えた。
「貴方は、悪くない。貴方は、何も悪くないんですよ……」
抱きしめる腕にギュッと力を込めると、陽斗さんの張り詰めていた力が、ふっと抜けたのが分かった。
私の肩に預けられた彼の瞳から、温かいしずくがポタポタとこぼれて、コートの生地に染み込んでいく。
「……怖かった。あんたがいなくなるのが、自分が消えてしまうのが……本当に、怖かったんだ……」
「怖がってもいいんですよ。私がちゃんと、ここにいますから」
それが空からの雨なのか、それとも彼の涙なのか、私には分からなかった。だけど、そのしずくはちっとも冷たくなかった。
生田の森の木々が、私たちを包み込むようにザワザワと優しく揺れている。
北野のアトリエでずっと守ってきた”独り身”という名の灰色の孤独。それが今、この湿った闇の中での抱擁によって、温かな色彩へと塗り替えられていく。
「……詩織さんは……。あったかいな……」
「はい。私も、あったかいです」
「ごめん……な。あんな風に、飛び出したりして」
「いいですよ。こうして、見つけられたんですから」
私は彼を抱きしめたまま、その背中をゆっくりと、何度も何度もよしよしと撫で続けた。
夜が明けるまではまだ時間がかかるけれど、私たちの間にあった壁は、もうどこにも見当たらなかった。
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