第20話 制御不能のオーバーフロー ~陽斗視点~
視界のすべてが、一瞬にして彼女の色彩によって塗り潰されていく。
お茶を淹れてくれた詩織さんが、俺の報告に応えるようにゆっくりと顔を上げた。
至近距離。あまりにも、あまりにも近すぎる。
薄暗いアトリエの中で、彼女の瞳に映り込む自分の顔がはっきりと見えるほどだ。逃げ場のないほどに重なり合った視線の熱に、俺の理性がチリチリと音を立てて焦げ付いていく。
安堵の吐息を漏らした彼女の薄い桃色をした唇が微かに震え――。
そして、彼女は吸い込まれるような仕草で、静かに、優しく、その長いまつ毛を伏せた。
その瞬間、俺の脳内にあるすべての思考回路が、耳を劈くような警報を鳴り響かせた。
(……待て! これは、何だ。一体、何が起きている……!?)
心臓が、肋骨を内側から叩き壊さんばかりの激しさで脈打っている。
ドクン、ドクン、という衝撃が全身の血管を駆け巡り、脳漿までを激しく揺さぶる。
動けない。指先一つ、呼吸の一回ですら、どう制御すればいいのか分からなくなっていた。いや、動かすのが死ぬほど怖い。
今、この数センチという、狂おしいほどに近い距離を埋めてしまえば――。
これまで俺という人間を定義し、過酷な現実から守るための拠り所としてきたすべての規律が、二度と元に戻らないほどバラバラに壊れてしまうという確信に近い予感がある。
今日、俺は自分を裏切った過去の因縁をすべて断ち切り、完璧な決着をつけたはずだった。
貝村親子という、俺の人生にまとわりついていた泥を完璧に洗い流し、俺は自由になったのだ。誰にも頼らず、誰にも心を預けない。冷静なまでに自己分析をし、独りで生きていく強い自分として、この世界で再起動を果たしたはずだった。
だというのに、伏せられた彼女のまつ毛が、春の夜の湿った風に震えるのを見つめている今、俺を支配しているのは勝利の余韻などではない。
足元が消え失せ、底の抜けた深い暗がりに、足場を失ったまま頭から墜落していくような、凄まじいパニックだった。
(……想いが、強くなっている……?)
これまでは、彼女のいる場所を安全地帯と呼ぶことで、自分を納得させてきた。だが、今のこの感情を、そんな便利な言葉だけで片付けることはできない。
――あんたがいたから、戻ってこられた――
そう口にした言葉は、単なる感謝という枠をとうに踏み越え、俺の胸の内を激しく焼き焦がしている。
彼女の隣にいたい。この安らぎを、これからの人生で欠かすことのできない唯一の光として、自分の中に繋ぎ止めておきたい。
そんな形のない、脆くて強烈な欲望が、抑え込んできた感情のすべてを決壊させていく。
他人に期待せず、自分一人で完結することこそが生存戦略だった俺にとって、この、誰かを求めるという衝動は、自分という存在の根幹を否定しかねない猛毒に等しかった。これまで俺が築き上げてきた鉄壁の要塞が、内側から爆破されるような衝撃。
パニックだ。これは……心が、自分でも制御できないほどに暴走している証拠だ。
これまでの人生、どんなに複雑な問題も、どんなに理不尽な不条理も、俺は、”答え”を導き出して対処してきた。論理的に、かつ効率的に。感情を排した計算こそが、俺をここまで連れてきた唯一の武器だった。
だが、目の前で静かに呼吸を繰り返す『詩織』という女性だけは、どんなに頭を絞っても、納得のいく答えが一つも見当たらない。
想えば想うほど、喉の奥が焼け付くような恐怖がせり上がってくる。
彼女を失うことが怖いのではない。
彼女なしでは、もう自分を保っていられない体質に変わっていくことが、抗いようもなく、死ぬほど恐ろしいのだ。
それは、自立という名の鎧を脱ぎ捨て、剥き出しの心で彼女の前にさらされることへの拒絶反応でもあった。一度でもこの温もりを知ってしまえば、俺は二度と、独りの冷たさに耐えられなくなるだろう。
他人に心を委ねることは、自分の命を他人の手に預けることと同じだ。
かつての裏切りで、俺はその恐ろしさを骨の髄まで思い知らされたはずだった。
だからこそ俺は、自分の中に誰も立ち入れない場所を作り、そこを『独り身』という名の壁で厳重に守ってきたのだ。誰にも干渉されず、誰にも乱されない、完璧な自分だけの領域。
なのに、今の俺はどうだ。
自らその壁を内側から叩き壊し、詩織という存在に、俺の心のすべてを明け渡そうとしている。
防壁はすでに意味をなさず、彼女という存在が、俺の心の奥底まで絶え間なく流れ込み続けている。
彼女の色が、俺という無機質な灰色を塗り潰し、見たこともない鮮やかな情景を描き出そうとしている。その変化が、耐えがたいほどに怖い。自分が自分でなくなるような、自己の消滅への恐怖。
「……詩織……さん」
自分の唇から漏れた声が、ひどく掠れていて、情けないほどに震えていることに絶望する。
独りで生きていくという、唯一の誇り。揺るぎない自立心。
それらをすべて失って、俺は今、逃げ場のない『新しい牢獄』の扉を自ら叩こうとしているのか。
正確に時を刻んできた俺の意識は、今、詩織という鮮やかな色彩を前にして、激しく火花を散らしながら、動けなくなろうとしていた。
まぶたを伏せた彼女の、その無防備な信頼。それにどう応えればいいのか、どこを探しても正解が見つからない。
触れたい。抱きしめたい。その柔らかな肩を引き寄せたい。
これまで、俺は自分の孤独を誇りにしてきた。誰もいない部屋、誰にも乱されない時間。それが安全なのだと信じてきた。しかし、彼女の伏せたまぶたの向こう側にある、底の知れない優しさに触れたいという渇望が、その信条をゴミのように踏み荒らしていく。
しかし、そうしてしまえば、俺はもう、昨日までの俺ではいられない。
引き返せない場所まで来てしまう。
(俺は……一体、どうなってしまったんだ。こんなにぐちゃぐちゃな感情、俺の知っている俺じゃない……!)
愛おしさと背中合わせの底知れない恐怖が俺を突き動かした。
伸ばしかけた指先が、彼女の肌に触れる寸前で止まる。
そのわずか数ミリの空間が、俺の最後の防衛線だった。ここを超えれば、俺は俺でなくなる。独立したシステムとしての『浅井陽斗』は崩壊し、彼女という色彩なしには成立しない『何者か』に変わるだろう。
これ以上ここにいれば、俺という人間は跡形もなく消えてしまう。彼女という光に飲み込まれ、影さえも残らなくなる。
その本能的な恐怖が、俺の理性を完全に焼き切った。
「すまない……っ!」
自分でも驚くほど悲痛な声を上げ、俺は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
驚いて目を開けた詩織さんの表情を見る余裕すらなかった。俺は逃げるようにアトリエの扉へと走り、重い鉄扉をこじ開ける。
自分の足音が、アパートの冷たい廊下に異常なほど大きく響く。
背後で彼女が俺の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返ることはできなかった。
今、振り返って彼女の困惑した顔を見れば、俺はそのまま彼女の足元に崩れ落ちてしまうだろう。それが分かっていたから、俺はひたすら前だけを見て、階段を駆け下りた。
外に出ると、冷え込み始めた春の夜気の中へと、ただひたすらに身を投げ出した。
北野の夜風は、熱を帯びた俺の顔を冷酷に打ち付ける。
だが、心臓の暴走は止まらない。
自分がどこへ向かっているのかも分からぬまま、俺は闇に包まれた坂道を転がるように走り続けた。
勝利を掴んだはずの夜に、俺はかつてないほどの惨敗を自分自身に喫していた。
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