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婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: スフィーダ
第一章 灰色の海と、色彩の坂道

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第02話 例外処理の夜 ~陽斗視点~

 北野の上方に位置する小さな公園は、学校の裏手にあるために観光地の喧騒からわずかに距離を置いている。

 完全な静寂とは程遠いが、遠くで弾ける笑い声や石畳を叩く靴音が、波のように押し寄せては引いていった。その断続的な響きは本来ならば背景として処理されるべき雑音なのだが、今は妙に意識の表層に引っかかる。


 俺はベンチの端に腰を下ろし、漫然と坂の上へと視線を向けていた。

 視界に入る情報は確かに存在しているのに、それらが意味を持つ前に脳を素通りし、ただの色彩と光の記号として通過していく。仕事に追われ、負荷が極端に集中して意識が朦朧としていた頃、目の前の景色が単なる色の羅列にしか見えなくなったことがあったが、今の感覚はそれに酷似していた。


『……拾いたまえ。君に相応しい場所にあるはずだ』


 脳内で再生されるのは、記録された音声のように正確で、温度を排したあの男の声だ。


 あの日、高級な絨毯の上に無造作に放り出されたジェラルミンケース。俺が組織に捧げてきた歳月と自尊心を嘲笑うかのように、それは足元に転がった。屈辱に震えながら拾い上げる俺を、ソファーに深く腰掛けた浩美は、新たな”資産”である男の腕に抱かれ、勝ち誇ったような笑みを浮かべて眺めていた。


『ねぇ、陽斗。精密機械みたいに理屈っぽくて、血も涙もないあなたは嫌なのよね。そんな融通の利かない人間、どこへ行っても欠陥品として扱われるだけよ』


 彼女はそう吐き捨てて、俺との婚約を一方的に解消した。あの日、彼女から浴びせられた言葉が脳裏にこびりついて離れない。


『私は精密機械になんてなりたくないの。人間として、もっと温度のある贅沢な人生を楽しみたいの。だから、自分の未来を汚すような不純物は、今のうちに排除しておかないとね。さようなら、浅井陽斗』


 より高価な、条件の良い資産家の息子という上位互換が現れた瞬間、俺という存在は無価値なものとして切り捨てられたのだ。


(最高の資産を手に入れる資格を失った落伍者……か。よく言ったものだ)


 俺は最善を尽くしていた。

 巨大な城を守るために、持てる知識を積み上げ、技術という武器一本で泥の中から這い上がろうとした。だが、その努力さえも『泥亀にはお似合いの光景だ』と周囲に嘲笑われ、理不尽な結末ですべてを失った。


 不意に意識が現実へと引き戻される。

 ベンチに座ったまま、握りしめていた拳に血の気が失せていることに気づいた。指先が白くなり、無意識のうちに自分を壊さんばかりの力で握り込んでいたらしい。呼吸を整えようとしてゆっくりと肺の空気を吐き出すが、肺胞の隅々まで行き渡らず、どこかで不可視の何かが引っかかる感覚が残る。


 そのとき、視界の端に違和感を覚えた。坂の上の校舎、その窓際に一つの人影があることに。

 距離がある以上、表情や服装の細部までは伺い知れない。ただ夕刻の逆光の中に浮かぶ、細い輪郭だけが確認できる。それでも、その存在だけが周囲の風景から浮き上がり、妙に強く意識の深層に刺さった。そこだけが別の空間で描かれているような、奇妙な歪みを感じる。


(……見ているわけがない。こんな距離で、目が合うはずがないんだ)


 脳がそう結論を下しているのに、射抜かれるような視線が交差したという錯覚が消えない。理由は分からない。ただ、あの影が自分と同じ、同じ位置に立っているという確信だけが胸に居座る。俺は逃げるように視線を逸らし、軋む膝を押し上げてベンチから立ち上がった。


 坂を下り始める俺の足取りは、どこか自分のものではないように心許ない。石畳の凹凸が、普段よりも不快なほどはっきりと足裏に伝わり、一歩ごとに衝撃が脳を揺らす。途中で楽しげな観光客の集団とすれ違ったが、その笑い声は意味を成さない雑音として鼓膜を滑り落ちていった。


  

 歩きながら、また別の記憶が強制的に呼び出される。オフィスの無機質なデスク、並んだ複数のモニター、深夜の蛍光灯が放つ青白い光。


「浅井、これ今日中にいけるか?」

 

「今の設計を維持するなら可能です。ただし追加の要求をねじ込むなら再調整が必要です」

 

「理屈はいいから、とりあえず進めてくれ。現場で合わせればいいだろ」

 

「了解しました。不測の事態でも止まらないよう、二重に対策をしておきます」


 当時の俺には一切の迷いがなかった。条件を厳密に整理し、優先順位を決め、最短ルートで仕事を完遂する。それが唯一の正しい道だと、一片の疑いも持っていなかった。

 だが、仕事が終盤に差し掛かる頃、周囲の空気が変わり始める。


「浅井、お前さ、もう少し言い方を考えられないのか? 角が立ちすぎだ」

 

「何をですか。不可能なものは、事実として不可能だと伝えるのが誠実でしょう」

 

「それはそうだが、正論だけじゃ物事は回らないんだよ。もっと余裕を持たせろ」


 その言葉の意味が、当時はどうしても理解できなかった。通らないものは通らないと伝えるのが、全体を守るための最善策のはずだと信じていたからだ。

 だが、今なら理解できる。理解できなかったのではなく、理解することで自分の築き上げた完璧な理屈が崩れるのを、本能的に恐れて拒絶していただけなのだ。


 

 坂を下りきる頃には、周囲の空気はしっとりと湿り気を帯びていた。観光地の華やかさは薄れ、生活の匂いが漂う住宅街の気配が前面に押し出されてくる。信号機の電子音や、路地を抜ける車の走行音が規則的に響き、一見すると平穏で整った日常が広がっている。

 それでも、依然として現実感が伴わない。映画のセットの中を歩いているような、自分だけが透明なカプセルに閉じ込められたまま浮遊しているような感覚。


 足は止まらない。止める理由も、再び動かす方法も見つからないまま、惰性に身を任せて前へ進む。

 退職の日のことが、遅れてやってきた痛みのようによみがえった。


「浅井くん、少し話がある。別室へ来てくれ」


 会議室の空気は、砂漠のように乾ききっていた。上司の声は努めて穏やかだったが、その瞳にはすでに確定した非情な宣告が映っていた。

 そこから先、どんな言葉が並べられたのかは覚えていない。ただ、いくつもの否定的な言葉が積み上げられ、最終的な結論だけが突きつけられた。


「さっさと私物を片付けて、この会社から去りたまえ」


 必要とされていない。

 俺という存在は、この社会という巨大な仕組みにおいて、あってもなくても構わない予備の部品に過ぎなかったのだ。

 坂道を下りきり、暗くなり始めた街角で、俺はようやく一つの残酷な結論に辿り着く。

 これは人生の崩壊ではない。

 ただ、想定されていなかった、道なき道へ入り込んだだけなのだ。


 本来の人生設計には存在しなかった異常な道。戻るための方法も見つからないまま、ただ混乱しながら歩き続けている末期的な状態。それでも足が止まらない以上、俺は動かし続けるしかない。


 正解があるのか、あるいはこの先にゴールがあるのかすら分からない。

 それでも、心臓の鼓動だけは一定のリズムで胸を叩き続けている。

 それだけが、この壊れかけた俺に残された、唯一の確かな証だった。


 そして、あの窓際にいた影だけが、行き場のない記憶として、いつまでも意識の奥底で鈍い光を放ち続けていた。

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