第01話 色彩の死体 ~詩織視点~
本物語はフィクションです。実在の地名が登場しますが、作中の高校および登場する団体・名称等はすべて架空のものです。
「もう、君には飽きたんだよ。何を言っても『そうだね』と返される。……その献身が、僕には息苦しいんだよ」
背後で閉まった重厚なドアの残響が、いつまでも鼓膜の裏側で低く、低く唸り続けている。それは、精巧な細工を施された硝子の城が、目に見えないほど微細な一筋の亀裂から、逃れようのない破滅へ向けて音を立てて瓦解していくような、残酷な不協和音のように感じた。
五年の歳月。共に歩んだ神戸の石畳が放つ、雨上がりの湿った土と油の匂いも。風見鶏の館を見上げた午後の少しだけ汗ばんだ掌の、あの頼りなくも確かな温もりも。摩耶山の頂から、瞬きを忘れて見下ろした宝石箱のような夜景に誓った、永遠という名の救いのないまやかしも。そのすべてが『飽きた』という、あまりに短く、あまりに無慈悲な三文字の暴力によって、ドロドロとした泥色の下水のような絵具に成り果ててしまった。
(笑わなきゃ。私は、生徒たちに『自分の色を大切に』と、反吐が出るほど清らかな理想を説く教師なのだから。自分自身が何色かも分からなくなった、ひび割れた空っぽな器を、誰もが見惚れるような、凛とした聖職者の笑顔で塗り固めなければ。キャンバスの下地を徹底的に白く塗り潰すように、私の絶望を、教育者という名の厚塗りの下地のように。隙間なく、完璧に覆い隠すのよ。一滴の濁りも、表面には出しちゃダメ)
翌朝の北野坂は、まるで嫌がらせのように鮮やかだった。
異人館の赤煉瓦を洗う、春の鋭すぎる陽光の暴力的な反射。街路樹の若葉が放つ、生命力の塊のような、どこか毒々しささえ感じさせる粘膜質な緑。
観光客たちが無造作に撒き散らす、浮ついた期待に満ちた声の飛沫を背に受けながら、私はさらにその先、北野の最果てに座す私立芸術高校の急峻な石段を、一歩ずつ、仮面を厚く塗り重ねるようにして登っていく。
今の私にとっては、それらすべてが粘膜を逆撫でする耳障りな雑音であり、保護膜を剥がされた網膜を焼き、抉り、侵食する過剰な刺激に過ぎない。世界という巨大な色彩の濁流が、私を拒絶し、押し流そうとしている。
美術室の油絵具と乾いた木材の匂いが染み付いた重い扉を開け、指先に馴染んだはずのパレットを手に取る。チューブから絞り出した深紅の粘り気のある滴が、昨夜彼が『好きな人ができた』と告げた瞬間の私の心臓が上げた、音にならない悲鳴の返り血に見えて、思わず呼吸が止まった。
「あ、しおちゃん先生! おはよーございまーす!」
不意に背後から、美術室の冷え切った沈黙を強引に、かつ残酷なほど無邪気に震わせるような、無遠慮で濁りのない声が飛び込んできた。振り返れば、そこには制服の袖に乾きかけのアクリル絵具を無残にこびりつかせたまま、太陽のように屈託なく笑う美術部の生徒たちが立っている。
私は、内側からボロボロと剥がれ落ちそうになる仮面を、聖母のような慈愛に満ちた顔で貼り直す。
「……瀬戸先生でしょ。誰がそんな風に呼び始めたのかしら。全く、最近の生徒は先生を友達か、あるいは道端の石ころか何かだと思っているのね。少しは威厳という言葉を、辞書で引いて学んでほしいものだわ」
困ったものだとわざとらしく肩をすくめ、柔らかな、それでいてどこか冷めた苦笑を交えて教え子を諫める。それが、この美術室という舞台において、私が息を引き取るまで演じ切り、死守すべき完璧な教育者としての役割だ。
生徒たちは「だって先生、しおちゃんって感じなんだもん」「親しみやすさの表現だよ、先生は。癒やし枠なんだから、今更諦めてくださいよ」と、私の心の底、光の一筋すら届かない深い淵に溜まった真っ黒な澱など知る由もなく、残酷なまでに澄んだ笑みを、真っ白なキャンバスのように私へ向ける。その、一点の曇りもない純粋さは、今の私には研ぎ澄まされた冷たいメスと変わらない。ただ触れるだけで、私の緻密な偽装を、皮一枚残さず切り裂いていく。
「はいはい。ほら、今日は素晴らしい光が入っているわ。この瞬間を逃したら、二度と同じ角度の同じ温度の影は描けないのよ。早く準備をなさい。貴女たちの感性を、一滴も、一分も無駄にしないように。……そう、貴女たちの色は、まだ何にも、誰にも汚されていないのだから。その無垢なまま、キャンバスを汚しなさい」
耳当たりの良い、けれど中身の空っぽな、死人のような定型文を、潤滑油のように滑らかに投げかける。
嘘だ。
光など、この世界のどこにも存在しない。窓の外に広がる神戸の街は、深い鉛色の霧に包まれたように輪郭を失い、色彩という概念そのものを拒絶している。私を慕って集まる生徒たちの、期待に満ちた、呪いのような純粋な眼差し。それに応えようと筆を動かし、無機質な言葉を紡ぐたびに、私の内側にある本物の感情という名の絵具が、最後の一滴まで絞り出され、パレットの上でカサカサに乾いて、粉々に砕けていく。他人の色に染まり続け、他人が望む『私』を過剰に演じ続けた結果、私はパレットの上で混ざりすぎて、とうとう色の判別すらつかない、ただの汚泥のような濁色になってしまったのだ。
(恋愛なんて、人生を最も醜く彩る泥遊びだわ。愛情という名の希釈液で薄められた、脆く不安定な幻想。期待という名の過剰な筆圧に耐えきれず、いつかキャンバスは、その繊維から引き裂かれる。もう二度と、私のパレットに、あんな心臓を焼くような色は混ぜない。白と黒……光と影。それだけがあれば、世界は十分に完結しているのよ。これ以上、誰の手によっても傷つくこともないのだから。沈黙こそが、私の唯一の救済なの)
放課後。西日に不吉なほど赤く染まり、浮遊する微細な埃が黄金色の粒子となって舞う、無人のアトリエで一人、私は筆を執った。
だが、描き出されたのは、かつて権威ある公募展で賞賛を浴びた麗しい風景画でも、生命力に溢れた人物画でもない。多すぎる色彩を、叫び声を上げる世界から力ずくで剥ぎ取り、存在そのものを激しく拒絶するように、鉛筆の芯をキャンバスに叩きつけ、紙の繊維を削り取るようにして刻まれた、無機質な静止画。黒い線が、執拗に重なり、厚い層を成し、一つの塊、一つの絶望となっていく。
その時、ふと窓の外。遥か眼下、校舎裏の先にある公園のベンチに、妙に異質な”影”が落ちているのを見つけた。
物理的な距離は、十メートル以上も離れているだろう。その男の顔の造作も、ましてや瞳の虹彩が何色であるかなど、美術教師としての私の視力がどれほど優れていようと、判別できるはずもなかった。
だが、春のあまりに暴力的な陽光を背負い、逆光の中に沈んだその輪郭は、周囲の風景から完全に切り離されていた。楽しげに笑いながら通り過ぎる観光客たちの極彩色の奔流の中で、その男だけが、光を吸い込み、一切を反射しない黒い穴のように座っている。
首を垂れ、微動だにしないその背中。それは、どれほど精巧に描かれた風景画の中にあっても、一目で『描き手の絶望』が混じった色だと見抜ける、あまりに重苦しい筆致の影だった。
(……見える。あの人は、目を開けていない。あるいは、開けていたとしても、何も見ていない)
男がふと、顔を上げた。距離を超えて、視線が交差したような錯覚に陥る。当然、視線など合うはずもない。だが、逆光の中で虚空を見つめるその男の眼窩には、光の反射が一切存在しなかった。
それは、偽りの笑顔と色彩で自分を必死に塗りつぶし、境界線を引いている私にとって、鏡合わせの救いようのない自分自身を強制的に見せられているような、酷い嫌悪感と……、そして、どうしようもなく、内臓を掴まれるような抗いがたい共鳴を抱かせるものだった。
瞳の色が見えたのではない。あの男の瞳の奥に広がる『何も無さ』が、私の内側にある空洞と、音もなく、けれど激しく共鳴したのだ。
(あの人も、自分の色が分からなくなったのかしら。あそこにあるのは、何も映さない空っぽの黒じゃない。ありとあらゆる期待と裏切りを飲み込んで、飽和して、絶望という名のフィルターで何百回も濾過した後の究極の無色……。私と同じ、色の死体だわ)
「……貴方も、壊れているの?」
乾いた口から漏れた独り言は、湿った潮風にさらわれて、誰の耳に届くこともなく消えた。だが、私の、あの日から止まったままの時間が、あの色彩を喪失した存在と交差した瞬間、鋼鉄の弦が、見えない指によって強引に弾き鳴らされたような、微かだが、逃れようのない震えが、私の凍てついた背筋を走り抜けた。
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