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婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: スフィーダ
第一章 灰色の海と、色彩の坂道

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第03話 境界線の侵入者 ~詩織視点~

 放課後の美術室には、西日に焼かれた古い油絵具特有の匂いが、逃げ場を失った熱気とともに重く立ち込めている。私はパレットに残った、中途半端に乾き始めて不快な粘り気を帯びた鮮やかな紅を、金属のヘラで執拗に削ぎ落としていた。網膜を刺すようなその紅は、今の私の心象風景にはどこにも存在しない、毒々しい異物でしかない。

 

(かつてはこの色を情熱だと、あるいは愛だと呼んでいた気がするけれど。今の私にとっては、ただの処理に困る色彩でしかないわね)

 

 無機質なプラスチックの上を硬い金属が滑り、乾きかけの塗料を剥ぎ取る音だけが、静まり返った教室に空虚に響いている。まるで、自分自身の削り取られた自尊心の破片をかき集めているような、惨めな作業に思えてならなかった。


 

 筆を洗い、描きかけのキャンバスに厚手の布を被せて視界から隠す。今日も結局、一筆も進めることはできなかった。木枠に張られた白い下地が、まるで私を嘲笑う巨大な空白のように、どこまでも冷酷に眼前に広がっている。生徒たちの前では「心のままに、素直に筆を動かしなさい」なんて、吐き気のするような嘘を教壇から振りまいているというのに。自分自身が一番、心の動かし方という初歩的な回路を焼き切ってしまっている事実に、喉の奥が苦く焼けた。


 重い木製の扉を閉め、校門を出てから、北野の急な坂道をゆっくりと下り始める。観光客たちがスマートフォンの画面越しに、都合よく切り取られた異国情緒という名の幻想を熱心に撮影していた。彼らにとってのこの街は、彩り豊かな思い出の断片なのだろう。だが、毎日ここを通る私にとって、歴史の重みを装った古い石造りの建物も、丁寧に手入れされた街路樹も、すべてがコントラストを失ったモノクロの背景にしか見えない。


 不意に、坂の下に位置する小さな公園の入り口に、吸い込まれるように視線が止まった。

 夕闇が忍び寄るベンチに、一人の男が座っていた。

 スーツ姿だが、一日を終えた勤め人の充足感も、あるいは明日へと続く適度な疲労感すらも漂っていない。ただそこに放置された”物”のように、微動だにせずうずくまっている。その周囲だけが、まるで重力が捻じ曲がっているかのように、空気の密度が極端に低くなっている気がした。


(あの瞳。忘れるはずがない。あれは、すべてを失って、ただ立ち尽くすしかない人間の色だ。光を通さず、ただ暗い底へと沈んでいくような、救いようのない絶望の色。私と、同じだ)


 気づけば、私は磁石に引かれる鉄屑のように、公園のに入っていた。

 近づくにつれ、男の輪郭が夕刻の影の中に浮き彫りになってくる。短く整えられた清潔な髪、無理に姿勢を保とうと強張った背中。だが、その指先は膝の上で細かく震えており、必死に何かを食い止めようとしているのが、手に取るように分かった。

 他人に干渉することに、今の私は何のメリットも、ましてや救いも感じない。誰かの内側に触れることは、自分の中の空洞をさらに深く露呈させるリスクでしかないはずだった。

 それなのに、私の足は、逃げ場のなくなった彼の正面で止まっていた。


「……大丈夫ですか? 顔色が、あまりにも悪いようですが」


 自分でも驚くほど、感情の伴わない空々しい言葉が口をついて出た。教育者として長年塗り固めてきた外面が勝手に作動したのか、それとも、ただの同族嫌悪に近い、歪んだ好奇心だったのか。

 男が、錆びついた機械のようにゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に映った自分を見て、私は息を呑んだ。

 周囲の光をすべて飲み込むような、底知れない、そして逃げ場のない虚無。それは、鏡の中で毎日死んだようにこちらを見つめている、私の瞳とあまりにも似通っていたから。


「……何か、用ですか? 俺に、何か用事でもあるんですか?」


 返ってきた声は、凍てつくような拒絶を、氷点下の質量を孕んでいた。低い、それでいて神経を逆撫でするような鋭利な刃の音。

 

「いえ、あまりに苦しそうに見えたので。……少し、休みますか? 近くの自販機で、水でも買ってきましょうか?」

 

「余計なお世話だ。……あんたに、一体俺の何が分かるっていうんだ。善意の押し売りなら、よそでやってくれ」

 

 男は吐き捨てるように、あるいは自分自身の弱さを呪うように言うと、無理やり体を押し上げて立ち上がった。その拍子に、彼の重心がわずかにふらつく。反射的に、支えようと手を伸ばしかけた私を、彼は獲物を睨む獣のような、冷淡な視線で制した。


「触るな! 同情なら、他で別の場所でやってくれ。俺は、ただの『例外処理』の結果だ。……他人に干渉される謂れも、憐れまれる道理もない」


 ”例外処理”。聞いたことのない単語には、自分を血の通った人間としてではなく、廃棄された部品として認識しているような、救いようのない絶望が混じっていた。

 

「同情なんて、そんな安直なものじゃありません。ただ……貴方が今、見ているその灰色の景色が、少しだけ分かるような気がしただけです。私も、同じ色の中にいるから」

 

 私の言葉に、男の眉がぴくりと動いた。

 それは、彼にとって、もっとも嫌悪すべき言葉だったのかもしれない。


「分かるはずがないだろう。……赤の他人に、俺が失ったものの重さも、その喪失の理由も、何一つ理解できるはずがない。分かったような口を利くな」


 男は氷のように冷たく言い放つと、私の肩をかすめるようにして通り過ぎようとした。その瞬間、一陣の風が坂の上から海へと吹き下ろし、彼の纏う冷えた空気と、私の胸の奥に澱んでいた湿った焦燥が、一瞬だけ、暴力的なまでの純度で混ざり合った。


 彼は一度も、ただの一度も振り返ることなく、闇が濃くなり始めた坂の下へと消えていった。

 残された私は、彼が座っていたベンチの不快なほど冷え切った感触を、網膜に焼き付いたあの色のない瞳を、ただ呆然と反芻していた。

 

(……あんなに酷い拒絶を、言葉の暴力を叩きつけられたのに。どうしてだろう。心臓が痛いほどに、脈打ってる。死んでいたはずの感情が、痛みという形を借りて、無理やり息を吹き返そうとしているみたい)


 私は、自分の指先をじっと見つめた。

 止まっていた。あんなに酷く震えていたはずの指先が、今は静止している。

 あの男と同じように、私もまた、壊れた世界の中で必死に呼吸を繋いでいるのだという事実を、これほどまでに生々しく突きつけられたことはなかった。

 真っ白で無機質だった私のキャンバスに、初めて一本の太くて鋭い黒い線が、暴力的な意志を持って引かれたような感覚。


「……恋愛なんて、二度としないって決めていたのに」


 独り言は、遠くの波音に混じって、霧のように消えていった。

 だが、私の瞳には、彼が去っていった暗い路地の先が、不気味なほど鮮明に、そして執拗に焼き付いて離れなかった。

 

(……もう、逃げられないわね。あんな風に、剥き出しの絶望を他人の前で晒してしまった彼を、私は放っておくことなんてできない。それは結局、自分自身を見捨てることと同じだもの)


 私は、冷えたベンチからゆっくりと立ち上がる。足取りは依然として重いが、視界を覆っていたモノクロームの世界に、ほんのわずかだけ、境界線を定義する濃い影が混ざり始めていた。

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