第12話 土足の侵入者 ~陽斗視点~
新しい職場での一週間は、かつての俺なら『楽すぎて欠伸が出る』と吐き捨てていたであろう、穏やかなリズムで過ぎていった。
提供されたデスクには、最新鋭とは言えないが、開発には必要十分なスペックの端末が鎮座している。かつてのように、無能な上司の失態を埋めるために徹夜でコードを修正する必要はない。自分の仕事を淡々と片付け、定時になれば迷わず画面を閉じ、席を立つ。その、社会人としてあまりに当たり前の行為が、今の俺には、砂漠で見つけたオアシスのような贅沢に感じられた。
(仕事は、ただの仕事だ。そこに人生のすべてを懸ける必要はない。……ようやく、そう思えるようになったんだな)
金曜日の夜。俺はポートアイランドの無機質な駅のホームに立っていた。
海を渡って吹き付ける風はまだ鋭く冷たいが、そこには以前のような、自分という存在を摩耗させるだけの刺々しさはない。潮の香りに混じるのは、解放感に似た安堵だ。
俺の足は、自然と北野へと向かっていた。三宮の雑踏を抜け、坂を登る前に立ち寄るスーパーでの買い物も、もはや週末の定例行事だ。特売の輸入ビールに、少し値の張る生ハム。そして、目に付いた旬の野菜。それは、誰にも邪魔されない独り身の時間をより豊かにするための、ささやかな投資だった。
(詩織さんに会う。……いや、その表現は少し語弊があるな。アトリエという静かな場所で、似たような孤独を持つ人間と時間を共有する。それが、俺という擦り切れた人間を元に戻すために必要な工程なんだ)
急な坂道を一歩一歩踏みしめるように登り、見慣れたアトリエの扉の前に立つ。
だが、ノックをしようとした俺の手が、空中で止まった。
扉の向こうから漏れ聞こえてくるはずの柔らかな気配がない。いつもなら、俺の足音に気づいて内側から鍵を外す音が聞こえるはずなのに、今日は不気味なほどの重苦しい沈黙が、厚い扉を隔ててのしかかっている。
嫌な予感が、背筋を這い上がった。
強めに扉を叩くと、数秒の空白を経て、重い鉄の扉が軋むような音を立てて僅かに開く。
「……ああ、陽斗さん。お疲れ様、です……」
顔を出した詩織さんの表情を見て、俺の心臓が不快な音を立てて跳ねた。
整えられたはずの髪は僅かに乱れ、頬は土色に沈んでいる。何より、その瞳だ。つい先週まで、微かな希望を宿して春の光を映していたはずの瞳が、今は光を一切拒絶する黒い穴のように、虚ろに濁っている。それは、俺がかつて鏡の中で嫌というほど見続けてきた、自分の価値を完績なきまでに叩き潰された人間の目だった。
「詩織さん。……何があった? 何かトラブルか?」
俺は返事を待たずに、半ば強引にアトリエに足を踏み入れた。
室内には、いつもと変わらない乾いた絵具の匂いが漂っている。だが、中央のイーゼルの上に置かれたキャンバスを一目見て、俺は言葉を失った。
描き込まれていたはずの力強い『春の息吹』は、その上から執拗に塗り重ねられた、濁った灰色によって無惨に殺されていた。それはもはや芸術ではない。逃げ場のない焦燥と、やり場のない自己嫌悪を叩きつけたような、剥き出しの悲鳴だ。
(……これは、絵じゃない。何かの拒絶反応だ。一体、誰が彼女の領域を荒らした? 何が、彼女のキャンバスから光を奪い去ったんだ?)
テーブルの上に無造作に置かれたスマホが、まるで彼女を追い詰める凶器のように、冷たく光っている。詩織さんはそのスマホから、怯えるように視線を逸らした。その震える指先が、何より雄弁に事態の深刻さを物語っている。
「……すみません、陽斗さん。今日は、その、あまり良いおもてなしができそうになくて。少し、体調を崩してしまったみたいなんです。だから、今日は……」
――嘘だ。――
彼女の指先の震えは、風邪などの生理的なものではない。
俺は手に提げていたスーパーの袋を乱暴にテーブルに置いた。袋の中には、今夜楽しむはずだった生ハムや珍しい野菜が入っている。だが、それらを取り出す手が一瞬止まった。今の彼女の、この世の終わりを見たような顔に、華やかな冷菜や酒の肴はあまりに不釣り合いだ。そんなものを並べても、彼女はさらに『持て成さなければならない』という強迫観念に追い詰められるだけだろう。
俺は袋の奥底、明日の朝食にとりあえず放り込んでいた食パンの袋と、卵のパックを掴み出した。
今の彼女に必要なのは、贅沢な食事ではない。ただ、凍えきった指先に伝わる熱と、生存を維持するための最低限の栄養、そして『ここに居てもいい』という最低限の肯定だ。
「体調不良か。……なら、酒を飲むわけにはいかないな。でもな、空腹はろくな考えを生まない。理由を聞くつもりはないが、まずは腹を満たすぞ。あんたはそこで、余計なことを考えずに座っていろ」
俺はあえて、彼女の絶望に深く触れるような野暮な真似はしなかった。
今の彼女に『何があったのか?』と問い詰めるのは、極限まで追い詰められた人間に、さらに重荷を背負わせるようなものだ。そんなことをすれば、彼女の心は完全に折れてしまう。
俺にできるのは、ただ、この凍てつくような空間に、フライパンが奏でる乾いた現実の音を響かせることだけだった。
俺はアトリエの隅にある、狭いキッチンに立った。
ガスコンロに火を点ける。卵を割り、厚切りのパンを焼く。調理という名の、ただの反復作業。
背後で、詩織さんが力なく椅子に沈み込む気配がした。彼女の呼吸は浅く、今にも消えてしまいそうに不安定だ。
(独り身の平穏なんて、たった一通の外部からの連絡で崩れ去るほど脆いものだったのか? ……いや、違う。俺たちが共有してきたのは、そんな脆弱なものではないはずだ。互いの孤独を尊重し、守り合うための静かな信頼だったはずだ)
ジュウ、という小気味よい音が響き、香ばしい香りがアトリエの空気を少しずつ塗り替えていく。
俺は、彼女が視線で刺すように見つめていたスマホに、一瞬だけ鋭い視線を向けた。
そこには、俺の知らない過去という名の亡霊が、醜い足跡を残しているに違いなかった。彼女の時間を、彼女の色を、勝手な理屈で汚し、奪おうとする厚顔無恥な侵入者。
(……許さない。誰かは知らないが、彼女が必死で取り戻そうとしていたこの聖域を土足で汚す奴は、俺が徹底的に叩き潰してやる)
俺は、無意識のうちにフライパンの柄を、指が白くなるほど強く握りしめていた。
今の俺には、自分の誇りを取り戻すために戦う権利がある。そして、同じように傷ついた目の前の女性を守るために、その牙を剥く理由もある。
「詩織さん。……少し焦げたが、トーストと目玉焼きだ。見た目は悪いが、栄養はある」
俺は出来上がった、不格好だが温かい皿を、彼女の前に置いた。
詩織さんは、立ち上る湯気をぼんやりと見つめ、ゆっくりと顔を上げた。その頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
「……陽斗さん。どうして、何も聞いてくれないんですか? 私が、どれほど情けない過去に縛られているか……」
「聞く必要がないからだ。あんたの絵を見れば、酷い目に遭っていることくらい、猿でも分かる。理由なんて、腹を満たしてからでいい。今はただ、この焦げたパンの味に集中しろ」
俺は自分の分のビールを乱暴に開け、喉に叩き込んだ。
苦い液体が、腹の底で渦巻くどす黒い感情を、僅かに鎮めてくれる。
窓の外、夜の北野は不気味なほどに静まり返っている。
だが、その静寂の裏側で、確実に”亡霊”がその醜い姿を現そうとしている気配を、俺は本能的に感じ取っていた。
(……さて、どんな身勝手な奴が紛れ込んできたのか、拝ませてもらおうじゃないか。俺たちの週末を、彼女の平穏を邪魔した代償は、高くつくぞ)
俺は、暗闇に沈む窓の外を、獲物を狙う猟犬のような鋭い視線で見据えた。
俺たちの誰にも邪魔されない孤独という名の特等席を守るため。その長い夜が始まろうとしていた。
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