第11話 凪の終わり ~詩織視点~
アトリエの窓の外では、北野の街を優しく包み込む春の陽光が、午後の微睡みを誘うように淡く揺れていた。
キャンバスに向かう私の指先は、数ヶ月前とは比較にならないほど軽やかだ。以前の私は、ただ自分の内側にある”死んだ街”を、呼吸を止めて塗り潰すことしかできなかった。色彩は敵であり、光は私を追い詰める凶器でしかなかったけれど。今の私の絵には、ほんの少しだけ、風が運んでくる花の香りと、街の鼓動が混じり始めている。
(陽斗さんが、あの日私の絵を『生きている』と言ってくれたから。あの不器用で、けれど何よりも誠実な肯定が、私の中に澱のように溜まっていた名前のない恐怖を少しずつ溶かしてくれたのね。……独りでいることは、もう寂しいことじゃない。だって、週末になれば、あの少しだけ塩辛い料理と、気兼ねのない沈黙が待っているのだから。この距離感こそが、今の私にとっての聖域)
絵具の乾く匂いが、かつてのように喉を焼く刺激臭ではなく、生きている証のように鼻腔をくすぐる。私はパレットの上で、チタニウムホワイトにほんの少しのジョーンブリヤンを混ぜた。春の、まだ幼い陽光を表現するための色。それは、誰にも邪魔されない私の独りの時間が生み出す、唯一無二の光のはずだった。
そんな穏やかな充足を切り裂くように、テーブルに置いたスマホが短く、鋭い震え声を上げた。
バイブレーションの音は、静まり返ったアトリエの中で驚くほど暴力的に響く。なんとなく嫌な予感が背筋を走った。
画面に表示されたのは、もう二度と、生涯この視界に入れたくないはずの名前だった。
『元気? 久しぶりに詩織の声が聞きたくなってさ。今の彼女、感情の起伏が激しくて本当に疲れるんだ。わがままばかりで、俺の仕事の大変さも理解してくれない。やっぱり、俺のことを一番分かってくれるのは詩織だけだよな。近いうちに、また前みたいに二人で会えないかな』
心臓の奥が、氷の塊を直接流し込まれたみたいに冷たく強張った。
一文字ずつ、網膜に焼き付く言葉の羅列が、吐き気を催すほどに甘ったるくて、救いようがないほどに身勝手だ。
私を『重い』と突き放し、他の女性のもとへ去っていったあの時の、あまりに一方的だった別れの言葉。私の自尊心をバラバラに砕いて、この薄暗いアトリエに引きこもる原因を作った張本人が、一体どの面を下げてこんなことを言えるのだろう。
(『わかってくれる』ですって? そんなの、貴方のわがままを私が全部飲み込んで、自分を殺して笑っていただけじゃない。貴方の言う優しさは、私の犠牲の上に成り立っていた、ただの無償の搾取よ。それを今さら……自分の都合が悪くなったからって、また私を都合のいい女に戻そうとするなんて。……ふざけないで。本当に、ふざけないでよっ!)
指が震えて、スマホを床に投げ出したくなった。
返信なんて、するはずがない。する価値もない。けれど、一度こじ開けられた記憶の扉からは、過去の泥水が濁流となって流れ込んでくる。
「詩織はいいよな、絵だけ描いていればいいんだから」
「仕事で疲れている俺の気持ち、少しは考えろよ」
「君のそういう暗いところが、結局俺を追い詰めるんだ」。
和真が放った無数の刃のように鋭い言葉の数々が、今の私の平穏を容赦なく切り裂いていく。
彼はいつもそうだった。自分の不遇を私のせいにして、私の努力を『暇人の道楽』だと断じた。私が彼の機嫌を伺って焼いた料理に、一度だって美味しいと言ったことがあっただろうか。それなのに、今の彼女がわがままだからと、私に癒やしを求めてくる。それは私を人間として見ているのではなく、自分の自尊心を補完するための便利な道具として呼び戻そうとしているだけだ。
私は逃げるように筆を握り直し、パレットに残った灰色を、まだ乾いていない春の色彩の上に、乱暴に塗り重ねてしまった。せっかく見つけたはずのキャンバスの上の淡い光が、汚れた色に飲み込まれて消えていく。その様は、まるで足元から崩れていく私の心そのものだった。
(どうしよう。週末には、陽斗さんがやってくる。今の、この過去にとらわれた醜い私を見れば、あの鋭い感性を持つ彼は、間違いなく何かを察してしまう。彼との間にようやく築き上げた、この気楽な独り身という、何よりも大切で清潔な関係を、こんな汚れた過去の亡霊で汚したくない。私はただ、自分の震える肩を抱きしめて、アトリエの隅で息を潜めることしかできない)
独りでいるのは、もう怖くないはずだった。
誰にも依存せず、自分の足で立っていることに誇りを持てていたはずなのに。
どうして、たった一通の通知で、こんなにも脆く崩れてしまうのか。どうして、こんなにも、自分が積み上げてきた自立心が偽物のように思えてしまうのか。
(私は、変われていなかったの? 陽斗さんと過ごしたあの時間は、ただの逃避で、この男の一言で粉々になるほど脆いものだったというの? そんなはずはないのに、喉の奥が熱くて、視界が滲んでいくのを止められない)
北野の坂道を吹き抜ける風の音さえ、今の私には、過去からの嘲笑のようにしか聞こえなかった。
(陽斗さんに見られたら、なんて思われるだろう。やっぱり、独りでは何もできない女だと思われるのかしら。あんなに偉そうなことを言っておきながら、結局は過去の男一人に振り回されている愚かな女だと。……そんなの、そんなの、絶対に耐えられない)
私は、自分が陽斗に対して抱いている感情の正体が分からず、ただ恐怖していた。それは恋などという甘いものではなく、もっと切実な、自分の尊厳を守るための最後の砦のようなもの。彼にだけは、軽蔑されたくない。彼にだけは、私が私であることを認めていてほしい。その願いが強ければ強いほど、和真という異物が、私の存在そのものを汚染していくような感覚に陥る。
窓の外、さっきまであんなに輝いて見えていたはずの春の光が、今はひどく遠く、私を拒絶する冷たい鏡のように感じられた。
私は、和真からのメッセージを削除する勇気さえ持てないまま、ただ氷のように冷たくなったスマホを握りしめ、刻一刻と暗くなっていく部屋の中で立ち尽くしていた。
部屋の隅に置かれた、陽斗さんが以前買ってきた輸入物のビールの空き瓶が、夕闇の中で頼りなく光っている。あの時は、こんな過去の影なんて二度と差さないと信じていたのに。
穏やかだったはずの私の日常が、修復不可能なほどに軋み始めていた。
私は、明日が来るのが、週末が来るのが、初めて恐ろしいと思った。このアトリエに満ちた静かな空気が、毒のように私を蝕んでいく。独り身の気楽さという鎧が、今はあまりに薄く、頼りない。
(……助けてなんて。言えるわけないじゃない。私は、独りで生きていくって決めたんだから)
震える指先でキャンバスの端を掴む。そこには、塗り潰しきれなかった春の色が、まるで断末魔のように僅かに残っていた。
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