第10話 祝杯とフライパン ~陽斗視点~
手書きの履歴書を何枚台無しにしたか、もう数えるのも止めていた。だが、その無骨な文字で埋め尽くされた最後の一枚が、どうにか俺という型落ちのシステムを拾い上げる奇特な企業の目に留まったらしい。
再就職の内定。
その通知をスマホの画面で確認した瞬間、真っ先に脳裏を掠めたのは、かつての同僚たちの顔でも、駅前の自販機で啜るいつもの苦いコーヒーでもなかった。北野の薄暗いアトリエで赤ペンを握り、俺の空白期間を『お休み』だと、救いのある言葉で呼んでくれたあの女の少し困ったような微笑みだった。
(内定が出てすぐに、あの女の顔が浮かんだ。洒落た店で祝うなんてガラじゃない。ビーナスブリッジで泥臭い執念を語り合った俺たちらしく、もっと剥き出しの祝杯がいい。……いや、ただ俺自身の手で何かを作り、誰かに届けたくなっただけかもしれないが)
俺は北野の急な坂道を下り、スーパーへ寄り道した。普段なら見向きもしない特売の鶏もも肉、少し皮の剥けかかったニンニク、それにキンキンに冷えた安物の缶ビールを6本パックで買い込む。レジ袋が指に食い込む痛みさえ、今はどこか心地いい重みとして感じられた。
そのままアトリエの扉を叩くと、絵具の匂いを纏った詩織が驚いた顔で顔を出した。俺は、手に提げた袋を無造作に突き出した。
「陽斗さん……? その重そうな袋は一体……?」
「内定が出た。その祝いだ。店を予約するのも面倒だし、何より他人の作った料理を澄ました顔で食う気分じゃない。今日は俺が、俺のやり方で飯を作る。あんたは黙って、そのへんで見てろ」
唖然とする彼女を余所に、俺はアトリエの隅にある、お世辞にも広いとは言えない小さな台所を占拠した。システム構築に比べれば、レシピ通りの調理など論理的な作業のはずだった。だが、火力の調整と調味料の分量という、あまりにアナログな変数に、俺は思いのほか苦戦を強いられることになる。
「……陽斗さん、本当に大丈夫ですか? その、フライパンから立ち上る煙の量が、少し不穏なのですが。アトリエに火災報知器があったかどうか、不安になってきました」
「外野は黙って見てろ。これは緻密な熱計算に基づいた、メイラード反応を極限まで高めるための調理工程だ。……たぶん、な」
「メイラード反応って。……要するに焦げているということですよね。それ、ソースが完全に炭化して、もはや別の物質になっていませんか?」
「うるさい。これは隠し味だ。……詩織さん、あんたは皿を並べていろ。あと、その期待に満ちた(?)視線はプレッシャーになるから止めろ。バグが出るだろうが」
格闘すること小一時間。テーブルに並んだのは、お世辞にも彩りが良いとは言えない鶏肉のガーリックソテーと、案の定少し焦げたバゲット。そして、結露してテーブルに水たまりを作っている缶ビールだ。
外食の洗練された味とは程遠い。だが、自分の手で素材を選び、火を通し、完成させたこの不格好な一皿は、自分の人生というコードを、自分の手で再び書き換え始めた今の俺には、何より相応しい気がした。
俺たちは向かい合って座り、プラスチックのコップに注いだ黄金色の液体を軽くぶつけ合う。
「……採用、おめでとうございます。本当に、良かったです。あの履歴書のインクの跡も無駄じゃなかったんですね」
「あぁ。以前より小さい会社だけどな、今の俺には十分すぎるくらいだ。……あんたの赤ペン指導が、最後の一押しになったのかもしれないな」
詩織は照れたように笑うと、少し焦げた鶏肉を慎重に口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
「……美味しいです。少しだけ、強気な味がしますけれど。……いえ、かなり塩辛いですね」
「塩を入れすぎた自覚はある。……だが、今日くらいはいいだろう。祝杯なんだからな。血圧の心配をするのは明日からでいい。それに、このくらいガツンとした味じゃないと、酒の肴にはならない」
「ふふっ、そうですね。陽斗さんらしい、妥協のない味です。……でも、不思議ですね。こうして焦げた料理を囲んで、誰にも邪魔されずに飲むビールが、こんなに美味しいなんて。外のレストランできちんとした格好をして、周りの目を気にしながら食べるより、ずっと……」
詩織は言葉を切り、琥珀色の液体を見つめた。
窓の外には、夜の神戸が静かに横たわっている。
かつてはあの中の一つの光であることに必死だった。誰よりも有能な”歯車”として、システムの一部として完璧に機能することだけを考えていた。そうやって自らを摩耗させていった日々。だが今、この狭いアトリエで、強烈なニンニクの香りに包まれている時間は、不思議なほどに心が軽かった。
「陽斗さん、こうして二人で飲んでいると、独り身の気楽さが身に沁みますね。誰の機嫌を伺うこともなく、自分のペースで、自分のためだけに時間を使える。……私たちは、きっとこれでいいのですよ。誰かと一つになる必要なんてなくて、ただ、こうして時々『お疲れ様』と言い合える誰かがいれば」
「全くだ。他人の期待に応えるために、無理な納期でシステムを組む必要もない。エラーが出ても、自分が納得していればそれで完結だ。誰にも邪魔されない孤独っていうのは、社会からログアウトした俺たちに与えられた、案外贅沢な報酬なのかもしれないな」
俺たちは、孤独の自由を讃え、二本目の缶ビールを開けた。
自分を欠陥品だと定義し、灰色の絵に逃げ込んでいた彼女と、自分を機能不全のプログラムだと断じ、世界から消えようとしていた俺。
俺たちは、まだ何も解決していない。明日になればまた、彼女はキャンバスを灰色に塗り潰すかもしれないし、俺は新しい職場で、また別の不条理なバグに直面するだろう。
「……なぁ、詩織さん。あんたの絵、少しずつ変わってきたんじゃないか?」
「え……? そうですか? 自分ではまだ、よく分からなくて」
「いや、変わったよ。前の絵は、ただそこにあるだけの『死』だった。でも今は、その灰色の奥に、何かを拒絶するような、激しい『生』が見える。……俺の作ったこの塩辛いソテーみたいにな」
「……最高の褒め言葉として、受け取っておきますね」
この瞬間に喉を鳴らすビールの苦味と、二人で笑いながら突っつく焦げたソテーは、私たちが確かに『生きている』という、これ以上ないほど泥臭い証明だった。
「……でも、陽斗さん。もしまた仕事に疲れて、履歴書を書き直したくなったら、いつでも言ってくださいね。その時は、私がまた真っ赤になるまで添削してあげますから」
「縁起でもないことを言うなよ。……まぁ、その時はまた、こいつよりはマシな肉を焼いてやるよ。……たぶん、その頃には火力の制御も完璧になっているはずだ」
俺はわざとらしく鼻を鳴らし、残りのビールを一気に煽った。
完璧ではない明日。不具合だらけの人生。
だが、この不器用な食卓の温かさだけは、どんな高精度のシミュレーションよりも、俺の乾いた胸に深く、温かく刻まれていた。
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