第13話 亡霊の囁き ~詩織視点~
陽斗さんが用意してくれた、不格好で少し焦げたトースト。その香ばしさは、本来ならこのアトリエに満ちるはずの安らぎの象徴だった。けれど今の私には、その温もりがかえって痛い。自分自身の不甲斐なさを鋭い刃で突きつけられているようで、喉の奥が狭まり、飲み込むことさえ躊躇われた。
陽斗さんは何も聞かずに、ただ向かいに座ってビールをゆっくりと喉に流し込んでいる。その沈黙は、彼なりの最大の配慮なのだと分かっていた。追及せず、詮索せず、ただ、今の私という存在を、そのまま静かに受け入れている。それは私たちがこの数ヶ月、暗黙の了解として築き上げてきた”自立した独り身同士の気高くも切実な礼儀だったはずだ。
その時、私の手元にあるスマホは、そんな私たちの静謐な聖域を嘲笑うように、再び、そして執拗に震え始めた。
(……また。どうして、放っておいてくれないの? どうして、壊れた時計の針を無理やり戻そうとするの)
液晶画面に浮かび上がる『和真』という二文字。それが明滅し、テーブルの上で跳ねるたびに、私の視界は灰色の砂嵐に覆われていく。無視すればいい。着信拒否をすればいい。頭の中の冷静な私はそう叫んでいる。けれど、過去に数年かけて植え付けられた恐怖という名の種は、たった一通の連絡で私の心に深く根を張り、毒の花を咲かせていた。一度支配された記憶は、そう簡単にデリートできるものではなかった。
「……出ないのか?」
陽斗さんの低く落ち着いた声が静寂を切り裂いた。彼の手の中にあるビール缶が、微かな金属音を立ててテーブルに置かれる。
「……いえ、出なくていいんです。ただの過去の遺物ですから。放っておけば、そのうち止まります。機械の故障みたいなものですから」
強がりを言った私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
嘘だ。
止まらない。
和真は一度こうなると、自分の欲求が満たされるまで、相手の精神を磨り潰してでも攻撃を止めない男だ。かつて、私が大学の課題として徹夜で描き上げた大切な絵を「俺の話を聞かない罰だ」と言ってバケツの水をかけ、無惨に台無しにした時の、あの歪んだ笑顔と冷え切った瞳が、昨日のことのように脳裏をよぎる。
スマホの震えが止まると同時に、今度はメッセージの通知音が、鼓膜を直接刺すような高音で鳴り響いた。
『今の彼女と本当に終わったんだ。家を追い出されて、財布もあいつに隠されて、本当に行くところがないんだ。詩織、お前は昔から優しかったよな。俺のことを本当に理解して、助けてくれるのはお前しかいないんだよ。今、北野の近くまで来てる。アトリエの場所、まだ変わってないんだろ? 少しだけでいい、顔を見せてくれ』
全身の血が、一気に足元へ引きいていく感覚。指先が、自分のものとは思えないほど氷のように冷たくなる。
「行くところがない」
「お前しかいない」
かつて私を精神的に支配し、飼い殺しにするために彼が好んで使った呪いの言葉。彼は私を救い手として、パートナーとして求めているのではない。ただ、自分が沈まないための「使い捨ての浮き輪」として、私の自尊心を泥の中に押し潰して沈めようとしているだけだ。
(北野に来ている……? ここに? 陽斗さんとの、この静かな場所に?)
想像しただけで、視界が歪み、胃の底からせり上がるような不快感に襲われる。このアトリエは、私がようやく手に入れた自分自身の尊厳を取り戻すための居場所だ。誰の色にも染められず、誰の機嫌も伺わずに、ただ自分の内なる灰色と向き合うために守り抜いてきた最後の砦。そこに、あの男の無遠慮な靴音が響き、私の空気を汚すことを想像するだけで、耐え難い汚辱を感じる。
「……詩織さん」
陽斗さんが、静かに椅子から立ち上がった。彼は私の隣まで迷いのない足取りで歩み寄ると、震えて止まらない私の手の上から、大きな手をそっと重ねた。その掌は驚くほど熱く、確かな質量を持って、現実感を失いかけていた私をこの場所に繋ぎ止めてくれる。
「……怖いのか? それとも、まだ未練が残ってるのか?」
その問いに、私はすぐに答えることができなかった。答えてしまえば、自分が必死に積み上げてきた自立という名のメッキが、すべて剥がれ落ちてしまう気がしたから。けれど、陽斗さんの射抜くような瞳は、私のそんな子供騙しの虚勢をすべて見透かしていた。
「……未練なんて、これぽっちもありません。ただ、情けないだけなんです。あんな男に、たったこれだけの卑怯な言葉に、まだ怯えて動けなくなっている自分が。私は、独りで生きていけるって、陽斗さんに……いえ、自分自身に証明したかったのに。結局、何も変わっていなかった!」
「独りで生きることと、一人で戦うことは別物だ。それを混同するのは、論理的じゃない」
陽斗さんの言葉は、鉄のような硬度を持って私の胸に突き刺さる。
「外部からの不当な侵入に対して、個人で対処しきれないことは何の恥でもない。そのために防壁があり、システムを保護するための第三者の介入がある。あんたが言えないなら、俺が代弁する。あんたが必死で守ってきたこの領域を荒らす権利は、世界中の誰にもない」
窓の外では、いつの間にか降り出した雨が、アトリエの古びた屋根を激しく叩き始めていた。しとしとと降る春の雨は、いつしか雨脚を強め、北野の急な坂道を濡らし、街の灯りを冷たく滲ませていく。
その激しい雨音に混じって、アトリエの階下、一階にある古い建物の共用入り口の鉄扉が、ガチャンと乱暴に開けられる音が響いた。
心臓が、喉元まで飛び跳ねるように激しく脈打つ。
階段を一段ずつ登ってくる、あの独特の踵を引きずるような不規則な足音。
和真だ。間違いなく、彼がここに辿り着いている。
私は、陽斗さんのシャツの裾を、無意識のうちに指が白くなるほど強く握りしめていた。
友達でも恋人でもない、ただ週末に食事を共にするだけの独り身の同類。そう定義して距離を保っていたはずの彼の存在が、今は荒れ狂う嵐の中、荒波に飲まれそうな私を支える唯一の灯台のように見えてしまう。
(嫌だ嫌だ嫌だ! 会いたくない。見られたくない。私のこの、ようやく描き始めた新しい灰色を、あの男に土足で踏みにじられたくない……!)
足音は踊り場で止まり、アトリエの厚い木製の扉が、外側からドンドンと乱暴に叩かれた。
「詩織! 中にいるんだろ? 電気がついてるのは分かってるんだ。開けてくれよ、詩織! 俺を見捨てるのか?」
扉越しに聞こえる和真の声は、湿り気を帯びた執着心に満ちていて、それでいてどこか芝居がかった、被害者を装う悲壮感に満ちている。かつての私なら、この声に騙され、罪悪感に駆られて扉を開けてしまっていただろう。
私は陽斗さんの背中に隠れるように、小さく身を縮めた。
陽斗さんは、私の指先の激しい震えを背中で感じ取ったのか、僅かに肩を怒らせ、扉の向こう側を、獲物を屠る瞬間の猛禽のような鋭さで睨みつけた。
「……さて、外部ノイズの除去作業を始めるとしようか」
彼が吐き出した言葉は、いつもよりずっと低く、腹の底に響くような怒りを孕んでいた。
静かであるはずだった週末の夜が、過去からやってきた最悪のノイズによって上書きされていく。
私は、陽斗さんの広く、揺るぎない背中を見つめながら、これから始まる過去の清算に対して、逃げ出したいような恐怖と、心のどこか深い場所でずっと求めていた、完全な解放への予感に、激しく身を震わせていた。
雨音はさらに勢いを増し、アトリエを包む空気は、一触即発の緊張感に満たされていく。
扉の向こうで醜い叫びを上げ続ける亡霊の声が、私の新しく、脆く、そして愛おしい日常を、容赦なく侵食しようとしていた。私はただ、陽斗さんの体温だけを頼りに、その嵐の中に立ち尽くしていた。
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