第二十六話 博奕
・前回までのあらすじ
ラークン伯が所有する『コッペリア・ナヴゥル』の施術を無事に終えたレオンは、ラークン伯より労いの言葉を受け、同時に『ヤドリギ園』移設計画を実行すべく書面を送付すると伝えられる。術後の対応をラークン伯お抱えの技師に任せたレオンは、エリーゼの様子を確認すべく自身の工房へと戻る。工房に戻ったレオンはヨハンより状況を確認、『マリー直轄部会』の要請で次回の決勝戦を降りる事が出来ない事、同時にエリーゼの心理的状態が思わしくない事を伝えられる。
壁も、床も、天井も、真っ白に塗り込められた、広大過ぎる空間だった。
『グランギニョール』が開催される円形闘技場の舞台と遜色の無い広さだろう。
その広大な空間に、さざなみにも似た微かな音が留まる事無く響き渡る。
連なり噛み合う無数の歯車と、金属シリンダーが旋回する音だ。
スチーム・アナライザー・ローカス――『蒸気式精密差分解析機』の稼働音だった。
漂う水蒸気の中で稼動する巨大な威容は、鋼鉄製のパイプオルガンを思わせる。
解析から演算まで行う『蒸気式精密差分解析機』は、錬成技師にとって必須の機材だ。
とはいえ非常に高額であり、おいそれと購入出来る代物では無い。
一基一〇〇〇万クシール。
ガラリア・イーサの『特別区画』にちょっとした屋敷が建つ金額だ。
それほどに高額な『蒸気式精密差分解析機』が、ここには二〇基ほども並んでいる。
どれほどの財力と権力を有したなら、それほどの設備を有する事が出来るのか。
そんな『差分解析機』のひとつと、背の高い男が向き合っている。
『差分解析機』からタイプアウトされる用紙を手に取り、鋭い視線を投げ掛けている。
藍色のスーツに純白のクラバット、アイスグレーの頭髪と瞳。
黄金に煌めく精密な左義肢。
ガラリア・イーサ随一の天才技師――マルセル・ランゲ・マルブランシュだ。
この広大な空間はマルセルの錬成工房であり、ガラリア・イーサ郊外の『工業区画』地下四五メートルに存在する。もちろん『工業区画』の地下に、これほどの巨大工房――空間を設ける事など違法だ。
違法と知りつつマルセルは、存在しない筈の男性型オートマータ『ドワーフ』達と共に、違法な地下工房を極秘裏に建設したのだ。
ここで使用される水や蒸気、濃縮エーテル等に掛かる経費は、全て地上の『工業区画』から捻出される仕組みとなっている。巧みかつ悪質な隠蔽工作だった。
「――何時に無く真剣な様子だけれど、どうしたの? パパ」
無言で用紙を見つめるマルセルの背中に、たおやかな声が響く。
気だるさに甘さがブレンドされた、蠱惑的な声音だ。
顔を上げたマルセルは、声の方を見遣った。
見つめる先には臙脂色のビロードが張られた、猫脚のカウチソファが置かれている。
そのカウチソファに、ゆったりと身体を預けているのは、驚くほどに美しい娘だった。
ブロンドのロングヘアが、煌めいている。
白い肌は、絹の艶やかさを秘めている。
瞳はエメラルドの色に輝き、紅い唇は蜜を含んだ様な微笑みを浮かべている。
豊満な肢体を包むのは、純白のシュミーズドレス。
『グランギニョール』にて一〇年無敗、至高のコッペリア――オランジュだった。
「いやなに……レオンの様子を確認していたんだが、幾分思わしく無くてね」
「またピーピングしてるのかね? マルセル君」
オランジュに返答するマルセルの言葉を、揶揄う様な声が遮った。
ダークブルーのロングワンピース・ドレスに、黒革のコルセットとロングブーツ。
ウェービーなライトブラウンのロングヘアに、冷たく光る銀縁の眼鏡。
作業用の椅子に腰を下ろした美貌の女性――ベネックス所長だった。
「相変わらず意地悪だなあ、イザベラ。前にも言っただろう? ギブ・アンド・テイクさ。レオンに与えた『蒸気式精密差分解析機』は一〇〇〇万クシール、その分くらいは情報提供して貰ってもバチはあたらないよ」
マルセルは肩をすくめてみせる。
ここに並ぶ二〇基ほどの『蒸気式精密差分解析機』は全てマルセルの私物であり、同時に全ての解析機がガラリア・イーサの『特別区画』で活動する、優秀な錬成技師達所有の『蒸気式精密差分解析機』と繋がっていた。
本来なら遠方にある『差分解析機』同士を繋ぐ術など無い、しかしマルセルは密かにその技術を確立、可能としていた。
高名な錬成技師であるヨハン・ユーゴ・モルティエ――その父親が研究開発した『電信』と『電話』の技術を独自に解析、流用しているのだ。
その上でマルセルは、将来有望な若い技師達に『蒸気式精密差分解析機』を贈呈、そこに仕込んだ特殊な『電信』の技術を用いて常時、最新の研究成果を蒐集していた。
「それで? レオンの『差分解析機』からどんな情報を引き出しているのかね?」
ベネックス所長はマルセルを見据えたまま、質問を続ける。
「ああ……『エリーゼ』の状態についてちょっとね」
「あら、それって『お姉様』に何かあったって事? 大丈夫なの? パパ」
歌う様な調子でオランジュは言う。
必死さや危機感とは縁遠い声だ。
マルセルもまた、軽い口調で答える。
「まあ大丈夫だろうさ。レオンはボクに似て優秀だからね。多少の事なら立て直すよ」
「確かに『あの子』は優秀かも知れないけれど……本当に大丈夫? パパは覚えてる? 私が退屈しない相手を用意するって約束に、パパは以前、義肢の左腕じゃ無くて、生身の右腕を賭けているのよ? 『お姉様』はちゃんと、私が退屈しない相手として『仕上がって』いるのよね?」
ソファに身体を沈めたまま、オランジュは悪戯っぽく小首を傾げて尋ねる。
その言葉を聞いたベネックス所長が、呆れ顔で言った。
「マルセル君、キミは自分が錬成したオートマータと、そんな約束をしていたのか? 事故で左腕を失ったってのに、残った右腕も賭けるだなんて、冗談にしても性質が悪いよ」
「問題無いよ。確かに『エリーゼ』は、何かしらの問題を抱えているのかも知れない。だけどボクがオランジュの為に用意するステージは、こんな『グランギニョール』の仕合程度で終わる事じゃ無いからね? 間違いなくオランジュは満足するさ。もっと壮大で雄大な……ボクら真の錬成技師が、心から待ち望んだ場所と状況だ。その話はキミにも伝えただろう? イザベラ」
手にした用紙の束を傍らのテーブルに置きながら、マルセルは笑みを浮かべる。
何の迷いも感じさせない、子供の様に無邪気な笑みだ。
そんな邪気の無い笑みを受けて、ベネックス所長の表情は、どこか真剣なものとなる。
一方でオランジュは、愉しげに眼を細めながら微笑んだ。
「本当に本当の約束よ? 私は退屈な『お遊戯会』にはもう飽き飽きしているの。約束を違えたりなんかしたら、本当にパパの右腕を捥ぎ取るわ……十二年前、左腕を捥ぎ取った時みたいにね?」
ベネックス所長は、訝しむ様にオランジュを見遣る。
次いでマルセルに質問した。
「――マルセル君。キミの左腕は事故で失われたって聞いていたんだが、その事故っていうのは……」
マルセルは事も無げに答えた。
「あれ、言ってなかったかな? そうか、キミはレオンが物心つく頃にはもう『ジブロール自治区』へ、顔を出さなくなっていたものな。まあ、お察しの通り『オランジュ』を初めて起動した時にやられたのさ。ちょっとした意見の食い違いでね」
・マルセル=達士、天才と呼ばれる錬成技師。レオンの実父。
・ベネックス所長=レオンの古い知人で実の姉。有能な練成技師。
・オランジュ=マルセルが錬成した最強のコッペリア。『レジィナ』の称号を持つ。




