煩悩を祓うのは座禅とタライ、なのです(笑) 5
髪から滴る雨の滴には、周囲の世界がその小さな球体に押し込められていた。空を駆けるカラスの鳴き声が聞こえる。雨はもう、止んでいた。
雨で濡れた俺の顔に、温かい一筋の滴が流れている。俺は、自分でも気づかないうちに泣いていた。
「戻ったか、一途よ」
背後から幼い女の子の声が俺の名を呼んだ。一心とおぼしき小さな足音が近づいてくる。
「ああ、今……戻ったよ」
俺は力強く答えた。一心は俺の前に立って、まじまじと俺の顔を見る。
「うむ、その様子だと見えたようじゃな。己の慢心も、非力さも、己の為すべきことも」
「ああ」
「いい顔をしておるぞ、一途」
一心は俺から目を逸らさずににっと笑って見せた。それは幼い子供のように無邪気な笑顔だった。
「ありがとう、一心。俺、何だか自分が恥ずかしいわ」
「恥じることではない、誰しも当たり前に持つものじゃ。ただそれに気づくことができる人間はそう多くはない。お主は心が弱かった、故に気づけたのじゃ。胸を張れい」
その瞬間、俺の胸のつかえがすっと下りた気がした。心の中に滴が一粒落ちて、波紋が揺らめいて拡がっていく。そんな心地良い気分だった。
「一途さん、何だか急に大人っぽくなりましたね~。そんな顔をしてます」
水涼さんがにっこりと微笑みかける。それでもやっぱり何か恥ずかしくて、俺は顔を少し俯かせた。
「水涼さんもありがとう。そもそもは水涼さんと出会えたおかげで、俺こんなに変わることができたんだから」
「お礼には及びませんよ、もともとは一途さんが潜在的に秘めていたものです。私たちはそのきっかけにすぎませんから」
「それでも、ありがとう」
「何だかこっちまで恥ずかしくなっちゃいますね~」
珍しく水涼さんが顔を赤らめるとぷいっと後ろを向く。
「では一途、お前は無明祓想を終えたのだ。儂の『加護』を受け取れ」
一心が胸元で両手をパンと合わせ、なにやら呪文のようなものを発する。次の瞬間、白い魔方陣が俺を囲むように球体を成していく。俺の体も魔方陣に呼応して光り始める。そして球体は俺の体にぴったりと貼り付き、温かい光で包まれた。先ほどの光景が再び俺の心の中を通過していく。光はほどなくしてゆっくりと消えていった。ずぶ濡れだった俺の体はすべて乾いていた。
「……これで儂の『加護』をも手に入れた。もうお主に話さんわけにはいくまい」
一心が水涼さんに視線を送る。いつになく真面目な表情をした水涼さんが一心に応えるように、こくりと頷いた。
「では話そう。神々の中で今起きていること、お主に与えられた使命のすべてを」
「ああ、頼む」
俺は力強く頷いた。これから立ちはだかる壁に屈しまいと、心に決めて。
***
「そもそも儂ら清水の神は、もとは人間であった。その生を終えた後、天国と地獄の境目の世界、境界において境界神によって選ばれた、というのはすでに水涼から聞き及んでおるな」
「ああ」
「儂らはそれぞれがその清水に縁のある人間が選ばれる。永く清水の守り神としての役を果たせるようにな。清水は雨や雪、天から降り注いだものが山に水を蓄え、麓に流れ、湧水の水源の元にて湧き出で、お主の生まれる遥か昔より人々の生活に潤いをもたらしてきた」
「それはなんとなく分かる。縁のある人間ってことは、あんたも水涼さんもってことか?」
水涼さんが以前言っていたことを思い返す。確か彼女は三百年も前に自害したと……。
「生前の出来事はともかくとして、深く関わっておるものが選ばれる。その時点ですでに神がおったとしても、境界神が神の交代を決めるのじゃ。儂は千年以上前にこの諏訪神社の巫女を継ぐ唯一の子であった。しかし生まれつき病に冒されやすい弱い体でな、病に伏してこの世を去った。故に境界神は幼子の魂、いつ悪霊となるかも分からん儂の魂を拾い上げ、神へと転生させたのじゃ」
「私は……」
水涼さんが口を開いた。
「御台所清水にて自害しました。私はこの地を治める旧佐竹藩、城主の娘でございました。刻の戦乱において、かねてからの敵襲により我が城は落城、私だけが逃げ延び、辿り着いた先が御台所清水でした。綺麗な、綺麗な湧水に私は心底惹かれて、疲れ果てた私は清水の水を一口含みました。それはもう格別なもので、私の身も心も洗い流してくれるような、まさに天の恵みであろうと感じました。そこでも追っ手は近づいており、私は決心しました。敵に下り、生き恥をさらすくらいなら、今ここで自らの生を諦めようと。死を恐怖と思うことなく、自害という選択をしたのです」
「水涼さん、そんな過去が……」
水涼さんは淡々と語る。無表情な彼女からは悲しみも苦しみも何も感じ取られず、涙さえも浮かんではいなかった。
「そんな私を見かねてでしょう。境界神の方は私を御台所清水の神へと任命してくださいました」
「でも、水涼さんの話だともっと適当だった気が……」
「あれは説明するのが面倒くさかったので、かなり簡潔にお話させていただきました~」
城主の娘ってことはお姫様だったってことになるはずなんだけど、この人は生前からこんな人だったんだろうか。一心がコホンと咳払いをして、脱線した話を本筋に引き戻す。
「話を続けよう。同じように儂ら以外の清水にもそれぞれ神がおる。お主がすでに会った馬洗い清水の流道、側清水のレイクソルト・太郎、神清水の澪琴。それ以外の清水にももちろん神はおる。儂ら清水の神は水源が涸れるとやがて消失する。水源が涸れる理由はさまざま、地殻変動で山の水の流れが変わる場合もあるし、水涼のように何らかの原因で水源が塞がれてしまう場合、そして……人間からの神への信仰が薄れた場合と、じゃ」
確かに水涼さんも水源が石で塞がれていて力が弱まっていたと言っていた。じゃあ、俺はホントにたまたま神を救ったことになるんだな。
「そうじゃ、お主が水涼を助けなければ、いずれ水涼は消失していたであろうな」
一心が俺の心を読み取って回答する。それは分かったけど、でも――。
「お主の言いたいことは分かっておる。神の力をもってすれば、その石をどける、または水源が塞がれる前にどうにかできたのではないか、ということじゃろう?」
先回りして言われる。俺は一心の言葉に頷いた。少し慣れてきたとはいえ、やっぱり心を読まれるってのはあんまり良い気分じゃないな。
「儂ら神は自然の摂理に則っておる。たとえそれが神の力の根源を封じるものであったとしても、それは森羅万象の理のひとつ。抗うこと、それ自体が神の世界では強く禁じられておる。世界は大きな理という巨大なうねりの中にある。それを崩すのはたとえ神であろうとも許されんのじゃよ」
なんか偉く壮大なスケールの話になってきた気がする。そんな話に、俺が一体どう関係しているというのだろうか。玻雀のことについても。
「そう話を急かすな。肝心なのはこれからじゃ。先ほど言うたように、信仰が失われた清水もまた枯渇する道を辿る。信仰心を失って枯渇した清水は荒みやすい、そしてその清水を守る神の心もまた同じこと。お主、伍代清水という清水を耳にしたことがあろう」
一心が俺に問い掛ける。確かに、その名は聞き覚えがあった。




