51 ヘレンの子供➀
「ごめん⋯マリベル」
土と草の匂いが私の鼻に心地いい。
それは幼い日、薬草園の中を走り回って、二人揃ってお父様に怒られた。そんな懐かしい気持ちを思い起こさせた。
「やっと⋯様を抜いてくれたのね」
「⋯⋯」
平民になってしまったユーリスだったから、帝国の伯爵家の私を呼び捨てにするわけにはいかないのは理解できる。でもそれがとてもとても厚い壁に思えて、寂しくて寂しくて堪らなかった。
お父様もお母様もいなくても、今私にはお祖父様や伯父様、そして従兄のロイドもいる。でもユーリスとは何か別の繋がりなのだと無意識にそう自覚していた。
私はユーリスを“初恋の人”だとちゃんと理解していたのだ。
あの幼い日には分からなかったことでも、大人になれば理解できる想いだった。
あのケニスト公爵家の空に弾けて消えたはずの想いに、私はこんな歳になっても縋っていたのだ。
暫く抱きしめてくれていたユーリスだったけど、「ちゃんと話す」と言って私から少し距離をとった。
温もりが離れた途端、また寂しい気持ちが湧いてきたけど、話はとても聞きたかったし、私も沢山話したかった。
それから、私達は長い時間お互いの事を話した。
壁際に控えているとはいえ、ヨリエールはその全てを私達の見届け人のように聞いていて、時折ハンカチで目元を押さえているのが見えた。
私は知らなかった。
ハスビス子爵領を旅立ったあと、ユーリスはてっきり父親の元へと帰っていたと思っていたから。まさか全寮制の寄宿学校に入れられて、修道士のような生活を強いられていたとは思いもよらなかった。
そして彼がどうしてヘレンの子供を引き取ったのか話し始める。
「ヘレンの子は彼女が身篭ったと聞いたときから、僕の子ではないことは分かっていたんだ。だけどノーラ男爵家の跡取りになるのなら、僕は関係ないから、それでも構わなかった。僕はマリベルが死んだと聞かされたときから、何に付け心があまり動くこともなかったから、その時も何もなかった思わなかったんだ」
ゆっくりと話すユーリスの瞳は、本当に何も映さないように暗い物だった。
「僕が魔力枯渇病になった為に、僕の周りの人は運命が狂わされた。父上は僕のせいじゃないと言ったけど、僕にはそうは思えなかった。だから異母弟の為にヘレンと婚姻する事も、あの頃はそれでいいと思ったんだ。僕のせいで一人の貴族女性の運命が狂ってしまったからね」
ユーリスは父親の後妻のスザンヌにとても申し訳なかったと言った。
本当なら愛する人と幸せな結婚をするはずだったのに、その愛の結晶をその身に宿しながらケニスト公爵に嫁ぐのを強いられたのだと聞いたら、私もスザンヌには同情してしまった。
「ヘレンとの婚約が調ったあと一度だけ、彼女と言葉を交わしたんだ。その時に僕を遠ざけた理由を教えてくれたんだよ」
スザンヌは自分が婚姻を強いられたのは、ユーリスの病のせいだと、彼を虐待してしまうかもしれない自分を抑える自信がなかったのだとユーリスに言ったそうだ。
そんな事で⋯と思うのは、私がきっと当事者ではないからだ。
「ギカンの罪はマリベルの戸籍を消した事だと聞いている。その頃にヘレンはまだ子供だったことも考慮されて、彼女は修道院に子供と一緒に行くと聞かされていたんだ。だけど彼女は子供をいらないと言い出した」
「えっ?もう子供は生まれていたの?」
ユーリスが頷くのを見て、私は驚いてしまった。てっきり修道院で産んで、その子供をユーリスが引き取ったのだと思っていたのだ。
「丁度生まれて暫くしてから、ギカンの罪を知らされたんだ。それで僕はヘレンに子供は父親に預けてもいいんじゃないかと言ったんだ。彼女もそうすると言っていたんだけど、父親の方が拒否した。でも陛下の温情で修道院に連れて行ってもいいと言われたのに⋯彼女はあっさり捨てると言った。それも仕方のないことなのかもしれないとその時は思ったんだけど⋯」
育てられないと言ったヘレンは、てっきり孤児院に子供を預けるのだと思ったユーリスの所に、ある日突然子供を抱えた乳母が訪ねてきたそうだ。
その乳母の話では、ヘレンの子を預ける孤児院が決まるまでの間、彼女がヘレンの子を育てるようにと言われて、彼女は修道院に子供を迎えに行ったそうだ。ヘレンからその子を受け取ろうとしたとき、突然その子をヘレンが斬りつけて怪我を負わせた。
慌てた乳母はそのままユーリスの所に血塗れの子供を抱えて来たそうだ。
「僕は⋯マリベルを害したギカンと身内だった男だ。僕にはもう君に会う資格はなかった。だから隣国から来た研究者がマリベルだと知った時、はじめは遠くからそっと見守るだけに止めようと思っていたんだ。でも僕は⋯僕が薬師になったのはマリベルの父上のようになりたかったからだ。マリベルと二人であの薬草園で働く事が僕の幼い頃の夢だった。それに魔力枯渇病の事をもっと詳しく知りたかった。デトリス領で薬草園が出来て、そこで働く薬師を募集してることを知って、どうしても働きたくなって、前のような関係になれなくても、マリベルのそばにいられるかもしれない。僕はその縁に縋りたくてここに来る事をその時はもう選んでいたから。本当は僕の子でもない子供に煩わされたくはなかったんだけど⋯」
そこまで話したユーリスは、一度息を吸ってから苦悶の表情で私を見つめた。




