30 基礎学力
エーリヤ帝国の帝都に着いた私は、先ず皇帝に謁見した。
戸籍の事やオルデイック王国からの脱出に、力を貸して下さったことにお礼を言うためだ。
皇帝エンリストとの対面は、私の事を慮ってくださって、仰々しい謁見室ではなく、少し広めの応接室で行われた。
ノーラ男爵家やハスビス子爵家、それとデトリス侯爵家、私が知っているその貴族家に置かれていたソファの何倍も大きな物が、部屋の中央に置かれていて、まるで自分が小人になった気になる。そこに座ることを許されたけれど、座るというより沈む感じだった。私はこれまでの栄養状態があまりよくなくて、同じ年代の子よりもかなり小さかった。それでもデトリス家にいた間に、だいぶ大きくなったと自負していたけれど、まだまだだったみたい。皇帝にはまだ10歳くらいにしか見えなかったらしい。私が沈むのを見て沢山のクッションが用意された。
皇帝は、大きな体と厳しい顔に反してとても優しい人のようで少し驚いた。
お祖父様が先に皇帝にお礼を述べてくれて、私も隣で頭を下げたんだけど、一言くらいは自分でお礼を言わないといけない。
でも震える声は止められなかった。こんな偉い人に会ったことなんてなかったんだの。
皇帝は、応接室のソファと同じくらい大きな人だったけど、懐も大きな方だった。
震えて吃りながら話す未熟な私の言葉を最後まで聞いてくれて「問題なし」と仰った。
これは、皇帝が機嫌の良いときに出る言葉だそうで事前に聞かされていた。
その言葉を聞いた途端、全身から力が抜けて、ただでさえ埋もれていたソファに、クッションもあまり役に立たなくて、私は益々沈んでお祖父様に助けてもらった。
エーリヤ帝国の帝都は、主に5つの地区に別れている。私のお祖父様ウェスガル伯爵は、帝都の東の方に位置するアズール地区に、屋敷を構えていた。
デトリス侯爵家よりも大きな屋敷は、馬車でそのまま門をくぐったけれど、なかなか玄関には辿り着かなかった。
そんな大きなお屋敷を見たことなくて、私は物珍しくて馬車の窓から外を眺めていた。そんな私にロイドが丁寧に教えてくれる。彼は植物にとても詳しいみたい。ゆっくりと流れる景観の木や花の名前と、その植物の特性、なぜそこに植えられているのかなど、薬師になりたい私には、とっておきの情報で、私は直ぐにロイドに尊敬の念を抱いた。
聞けば、彼のお父様は薬師ではないけれど、植物に詳しいそうだ。彼のお父様は私のお母様のお兄様で、私の伯父様にあたる。
伯父様も土魔法を使える事はアーサー様に聞いていた。その上で伯父様に魔法を習ったほうがいいと言っていたので、きっと伯父様が私の魔法の先生になってくださるはずだ。
私は、期待に胸を膨らませて、到着した玄関にお祖父様に手を添えてもらって降り立った。
◇◇◇
「帝国歴322 年に吸収した国は⋯⋯」
頭を抱えて考えても、答えが絞り出せない。目の前のテスト用紙には、空欄が目立つ。情けない顔を上げて、試験官のロイドを見つめる。
「あと3分だぞ」
「⋯⋯」
もう一度考えてマリベル!
昨日の夜頑張って暗記したじゃない!
私は自分で自分を励ましながら、数日前から昨夜までに記憶したはずの、帝国歴史の教科書を頭の中で開く。
確か⋯5頁目位にあったはず⋯。
「はい、終わりー」
その無情なロイドの声で、数日間の習得結果があまりよくないものだと決定した。私の頭の中では、開いたままの真っ白な教科書だけで、結局答えは浮かび上がってこなかったからだ。
「ひぁ〜」
テスト用紙を取り上げられたテーブルに突っ伏して、私は悲壮な声を上げる。
帝国に来て、学園に入学する準備をしながら、私の基礎学力のテストが行われた。
家庭教師なんて付いてもらったこともない私に、基礎なんてあるはず無い。
無いなら入学できないの?
テストを受けながら、半ば泣きそうな気持ちだったけれど、私は自分でも意外だったけど、ある程度の知識は持っていたようだ。
幼い頃にユーリスから習っていたから、私は文字が読めた。簡単な計算問題位は自然と身についていた。それもあって、薬草園で働いていた頃、一緒に働いていた人達から、いらなくなった本を譲ってもらったりして読んでいた事が幸いだった。
あの薬草園では、特にあからさまな暴力や命を脅かすほどの意地悪をされたわけではなかったけれど、子供の私がちょこまかと働く事を邪魔にされたりはしていた。
構いたくなかった薬師達は、私には本を与えたのだ。
それだけは、今とても感謝することになった。
但し、帝国の歴史は全く理解できていなかった。そんなの当たり前だ。
まさか自分が帝国に来るなんて思っていなかったから、勉強なんてしたことなかったし、あの薬師達が帝国について学ぶはずないのだから本などなかった。
というわけで、入学する初秋までに私は帝国の歴史を学ぶ事になった。それと合わせて、貴族としてのマナーもだ。
家庭教師は、お祖父様が選んだ方だったけど、歴史に関しては偶にこうしてロイドがテストをする。
ロイド曰く、家庭教師が私に激甘だから、ちゃんと身につくか心配なのだとか。
そんなに甘い先生には思えなかったけれど?
今日もテストの回答に空欄が多かったから、同じところを学ぶ事は決定だ。
歴史は暗記が基本だから、この頭の中に入ってくれなければ、これは繰り返される。
毎日、毎日、帝国歴の勉強ばかりで魘されそうだ。
王国と帝国では、学園の入学時期が違う。
王国は春だったけれど帝国では初秋だった。
今頃は、マインと一緒にデトリス領の学校に、通っていたはずなのになぁ。
現実逃避をしながら、学園に入学するまでに基礎学力を学ばなければ!
それが、夢の入り口なのだから!
少しだけ気弱になった私に、いつも初志を思い出させるのは、遠い記憶に残るベッドに横たわる幼馴染の、苦しさを我慢する横顔だった。




