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かくれんぼと、落ちる看板

 気づいたのは、その二分後だった。

 落下の見当をもう一度つけようと見上げたときだ。


 看板の中心の光は、いよいよ鈍く滲んでいた。おそらくもう、一刻の猶予もない。

 腕木が折れるなら、あの看板はこっちへ落ちるだろう。そのあとは、路地の入口の、あのビールケースが積んであるところへ——そこで、俺の目が止まった。


 積んだビールケースの陰。人の入れる隙間ではない、と思っていた場所だ。

 その暗がりの、腰の高さあたりに、光が三つ、浮かんでいた。

 ぽつん、ぽつん、ぽつん。


 誰かいる。その気づきに俺は戦慄した。

 体はケースの陰に完全に隠れている。

 だがケースの外で律儀に灯っている三つの光。あれは傍心だ。

 五日前、ファミレスで理玖が言ったことが、そのまま耳の中で再生された。

 ——輪郭の外にあるのに、本人の三角形の一部だ。外にいることが、仕事なんだ。

 まさか、こういう仕事とは思っていなかった。


  ※


 路地に飛び込んで、ケースの隙間を覗くと、しゃがんだ男の子と目が合った。

 どんな顔をしているのか、俺には分からない。ともかく、男の子の目と、俺の目が向かい合った。

 小学生だった。人差し指を口に当てている。しーっ、の形。

「かくれんぼか」

 こくり。

「ここはだめだ。今すぐ出よう」

 首を、横に振られた。

「頼むから出てくれ」

 もう一度、横に振られた。

「だって見つかっちゃうもん」


 議論している時間はなかった。俺はケースの隙間に腕を突っ込んで、子どもの襟首と腕をまとめて掴み、力任せに引きずり出した。

「うわっ、なにすんだよ!」

「悪い」

「あそこよりいい場所、なかったのに!」

「本当に悪い」

 抱え込み、路地から二歩、転がり出たとき。

 背中で、ばきん、と金属質の音がした。


 袖看板が、腕木ごと落ちたのだ。

 ガッシャーンと落雷のような音を立ててビールケースの山を薙ぎ倒し、アーケードの床でもう一度跳ねて、シャッターに寄りかかるようにして、それは止まった。


 落ちるとき、鉄の角が、俺の左肩をかすめた。

 Tシャツ越しに、二の腕の外側が、じんわり熱くなっていく。

 商店街の人たちが、駆け寄ってきた。

「おい! 大丈夫か!」

「子どもは!?」

「無事です」と俺は言った。「たぶん、両方」

 子どもは尻もちをついたまま、落ちた看板と俺とを見比べていた。

「……オレ、そこにいたよね」そう言った声が震えていた。

「危ないところだったな」

 あと数瞬でも遅かったらと考えて、背筋が冷たくなった。

「なんで分かったの。見えないよ、あそこ」

 商店街の大人たちが、全員、同じ顔で俺を見た。同じ質問の目だ。

 俺は正直に答えるわけにもいかず、いちばん使い勝手のいいやつを出した。

「……なんとなく」


  ※


 理玖が走って戻ってきたのは、その二分後だった。

 走りながら音を聞いたという。

 理玖は人をかき分けて現れ、俺の腕と、落ちた看板と、倒れたビールケースと、男の子の泣きそうな顔を、順番に見た。それですべてを察したようだった。

「葛西。腕から血が」

「かすり傷だ」

「腕を洗え。錆が入る」

「それくらいならうちでできる。兄ちゃんこっちだ」乾物屋の奥で手当てしてもらえることになった。

 俺はありがたく受けることにした。歩くとき、膝がなんだかカクカクした。


「大家は」と俺は理玖に訊いた。

「いた。話は聞いてもらえたよ。だがこの通り、遅かったようだな。看板は腕木から折れてる。三年前にも一度、業者を呼ぶ話が出たそうだ」

「呼ばなかったのか」

「見積もりが、思ったより高かった。それと、その年は他にも直すところがあった。……で、来年でいいということになって、何となくそれきりになったそうだ」

 俺は落ちた看板の方を見た。

 いつも通りの景色というのは、そういうふうに、少しずつ危なくなるのだ。


 乾物屋さんが連絡したのか、子どもの母親が飛んできて、俺は三十回くらい頭を下げられた。俺も三十回くらい、「ケガがなくて本当によかったです」とか「俺は本当に大丈夫ですから」と言った。


 母親に背中を押されて、男の子が前に出てきた。

「あの、ありがとうございました」

「どういたしまして。無事でよかったよ」

「ねえ、兄ちゃんは超能力者なの?」

「うーん」俺は一瞬考えてしまったが「違うと思うな」と答えた。

「じゃあ、なんで分かったの」

「……なんとなく、かな」

「それ、絶対うそだ。兄ちゃん分かってたもん」

「うーん」俺は頭をかいた。

 母親が「あまりお兄さんを困らせないの」といって話を打ち切ってくれたので助かった。


 商店街の洋服店のおじさんが、新品のTシャツをもってきてくれた。

「振興会の余り物だけど、新品だから」

 さっきアーケードで見かけた白くて丸っこいマスコットのイラストがのっている。

 俺は礼を言い、血のついたシャツを脱ぎ、手当てで包帯を巻かれた腕を、そでに通した。


  ※


 翌朝、俺は新聞に載った。

「汐見銀座で看板落下 大学生が児童救う」

 本文は四行だった。


 空き店舗の袖看板がおよそ三十キロあったこと。

 腕木の取り付け部が腐食していたとみられること。

 近くにいた市内の大学生が児童を抱えて避難し、児童にけがはなかったこと。

 大学生は腕に軽いけがをしたこと。


 俺が三十分立ち続けて警告したことは一行もなく、俺は「近くにいた大学生」として扱われていた。

 軽傷者を出した事案である。商店街としては、記者に何もかもは話しにくかったのかも知れない。

 そう思うと、俺は少し複雑な気持ちがした。


 三日後、復学の前日だった。

 商店街を歩いていたら、ツバメ古書堂の前で呼び止められた。

「あんた、こないだの子だろう。南さんの連れの」

 おばあさんは、あの日と同じ丸椅子に座っていた。

「はい。葛西といいます」

「腕、どう」

「平気です。もうかさぶたです」

「そう」

 おばあさんは前掛けのポケットから封筒を出した。

「これ、持っていきな」

「何ですか?」

「商店街の共通券。三千円」

「いや、そんな、もらえません」

「もらっとき」

「でも」

「ええから、もらっとき」

 もらう筋合いはなかったが、押し問答に負けるような形で受けとった。


「新聞にはね、あんたが立っとったことは、書いてなかったねえ」

 俺は、少し驚いた。

「読んだんですか」

「そりゃあ、読んださ。うちは古本屋だよ」おばあさんは少し声を張ったが、理由になっているようで、なっていなかった。

「わしは店先から見とったんだよ。あんた、ずいぶん長いこと、あそこに立っとったろう」

「まあ三十分くらい」

「三十分も」おばあさんは丸椅子に座り直した。「なかなかできんよ」


 新聞では報じられていなかったが、見てくれていた人がいたのだ。

 俺は嬉しかった。

 両手に封筒もって、頭を下げて言った。「これ、ありがとうございます。いただきます」

 おばあさんは頷き、「またおいで」と店に入っていった。


  ※


 その夜、俺は人名鑑に、二ページ足した。

 一ページ目は、ツバメ古書店のおばあさん。「小柄。店先の丸椅子。あの日、ずっと見てくれていた」

 二ページ目には、名前が書けなかった。名前を訊かなかったからだ。

 こう書いた。「路地の子。姿は隠れていて、傍心だけ外に出ていた」


 三千円ぶんの券は、その晩、使い道が決まらなかった。

 俺は封筒を、机の上に置いた。


 明日から、大学が始まる。顔のない大学の新学期が。


 ところで、新聞は県版の下のほうの、たった四行であった。

 だから、あんな小さな記事を読んでいる学生がいるとは、このときの俺は思ってもいない。

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