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弓弦

 七月の遠征バスは、冷房と気合いで満ちていた。

 気合いの発生源は主に宮下先輩である。「北稜(ほくりょう)は競技系だからな!試合慣れしてるからな!でもうちには型の深さがある!」と、誰も反論していないのに何かと戦っていた。三年になって副将の肩書きが板についた分、声のでかさにも役職がついた。その隣で小田島さんが「いやあ、若いんだけども」とのんびりお茶をすする。紺野さんは窓際で目を閉じて、試合前の集中を高めていた。

 北稜大学は隣県の山手にある。合気道部の交流戦は毎年恒例とのことだ。ただし向こうは「競技合気道」——試合のある流派だという。乱取りがあり、ポイントがあり、勝敗がつく。うちの稽古には、いわゆる試合はない。技の種類や攻守を固定した上でやる自由稽古と、その中での勝敗はあるが、基本的には約束稽古で技を磨く流儀だ。だから今日は、言葉は同じで文法の違う外国へ行くようなものだった。

「向こうの道場、すごいぞ」と宮下先輩が言った。「大学の中に専用の武道場がある。うちと大違い」

「うちには会館があるじゃないですか」と俺は言った。

「そうだよ!うちには会館がある!」

 張り合いになっていなかったが、先輩は満足そうだった。


  ※


 北稜の武道場は、天井が高く、新しく、そして畳が白かった。

 正確には競技用のマットで、畳ですらなかった。よその畳は青くない、どころの話ではない。白いマットは受け身の音まで違って、慣れない感触に部員一同がそっと足裏で床を確かめる中、壁の掲示が目に入った。地区大会準優勝、県大会三位、全日本学生出場——賞状と盾が、棚に年代順で並んでいる。それに引きかえ、うちの道場の壁にあるのは、旧文化会館を守る会のポスターと、去年の忘年会の集合写真だ。それを思うと、さすがに少し、気後れしそうになる。部員数も倍いた。向こうの学生たちはよく揃った準備運動をして、よく通る返事をした。


 そして俺は道場の隅の、その男に気づいた。移動中だった。荷物を抱えて、壁際を歩いていた。歩きながら、ノートを読んでいた。そして、その男の縦の光は——弦だった。

 まっすぐ、という点では理玖に似ている。だが理玖の線が「定規で引いた線」なら、こっちは材質が違う。張ってあるのだ。上端と下端を強い力で引っ張り合って、びん、と張り詰めた一本。八雲さんの静かな一点とも違う。あの一点が「もう動く必要のない静けさ」だとしたら、この線は休んでいない。弓に矢をつがえて、引き絞ったままの、触れたらぴんと鳴りそうな線。


「あれが東雲(しののめ)だ」と、いつの間にか隣に八雲さんがいた。「北稜の三年。面白いだろう」

「面白いって……まだ何もしてませんけど、あの人」

「歩いてるだけで分かるものも、ある。よく見ておけ」

 確かに。それが分かるのが俺の眼だ。人名鑑の新ページが、勝手に開いた。

 東雲蓮。北稜大三年。体脂肪が薄く、筋骨を感じさせる、パリッとした肌。移動中も稽古ノートを離さない。光は、引き絞った弓弦(ゆみづる)


  ※


 合同稽古のあと、親善試合になった。短刀乱取り——片方がラバー製の短刀で突きにいき、もう片方が捌いて投げる。突きが決まれば短刀側に点、投げなり抑えなりが決まれば取り側に点。時間で攻守交替。ラバーの短刀は思ったより硬く、思ったより軽い。握った瞬間「これで人を突きにいく」というルール自体が、うちの稽古には無い発想だと分かった。


 うちの部は順番に出ては、北稜の試合勘に揉まれていった。

 宮下先輩は良かった。丸太の光は乱取り向きで、多少の誘いに釣られようが軸は折れない。二点差まで食い下がって、時間切れ。マットを叩いて悔しがる音まで大きかった。紺野さんはもっと良かった。取りの捌きで相手の突きを三本連続で空振りさせ、北稜がどよめいた。だが攻守が替わった瞬間、彼女の得点は止まった。突く側に回った紺野さんは、一瞬だけ、突きの直前に手元が緩む。打ち込む形の直前で、何かが竹刀の記憶と噛み合わない——素人の俺にもそう見えて、惜しくも敗れた。本人は礼のあと、無言でノートを出した。


 東雲の相手は、俺だった。組み合わせを決めたのは八雲さんである。俺に言った「面白い」を、こういう形で回収してきた。

「北稜三年、東雲です。よろしくお願いします」

 礼は深かった。ラバーの短刀がこちらをうかがう。俺は構えをとった。相手の外接円は、白いマットの上にうっすらと、いつも通り浮かんでいる。円に乗る。粒の並びを待つ。いつも通り——

 だが、いつも通りは、三秒で終わった。

 突きが来た、と思ったときには一本目を取られていた。見えなかったのではない。見えたのだ。東雲の縦に張った弦は、突きの直前も直後も、張ったまま、一ミリも(かし)がなかった。傾がないから、崩れの予告がない。予告がないから、俺の眼は「答え」を、突きが着弾したあと表示した。

 攻守を替えても同じだった。俺が短刀で突く。東雲が捌く。

 捌かれながら俺は思った。この人はたぶん、俺の円に乗っている。

 自分の「五心」や「外接円」を、俺自身は見ることはできない。だがこれまでの稽古で、宮下先輩や紺野さんに見てきたそれらを、自分自身に重ねてみると分かる。東雲は、間違いなく、俺の円の上を歩いている。そして、八雲さんと同じ足運びを、静けさではなく、張力でやっている。外接円に乗られて、シムソン線を引かれて、俺は白いマットに三回、綺麗な弧を描いた。受け身だけは褒められた音がした。

 七点目を取られたあたりで、俺は方針を変えた。見るのをやめよう、と。寒稽古のあの一本。初めて宮下先輩相手に技を決めた、あのときの感覚を思い出そう、と。

 だが結果を言うと、八点目は今日いちばん速く取られた。当然と言えば当然だった。あの一本は「三か月見続けた末に、見なくても体が知っていた」一本なのであって、「見なければ強くなる」魔法ではない。宮下先輩相手に千回組んだ蓄積が、東雲相手には一本もない。貯金のない口座から引き出しはできない。俺は慌てて眼を開け直し、答えをみて動こうとし、その時間差を狩られ続けた。

 そして、十二対〇。

 完封、という言葉の輪郭を、俺は体で覚えた。礼をしたとき、膝が少し笑っていた。単純な消耗と、情けなさで。十五分間、解けない問題を解き続けた脳の疲れ方は、投げられた体の疲れ方より深かった。


  ※


 試合後の礼のあと、東雲は俺のところへ来た。ノートを片手に持ったままだった。

「葛西さん、でしたよね。三点、指摘していいですか」

「……お願いします」

「では一つ目。あなたは突きの前に、俺の足元を三回見ました。マットの上の何もない場所です。二つ目。あなたの入り身は判断から動作まで、コンマ二秒くらいの遅れが常にある。反応が遅いんじゃない。判断のあとに、もう一工程ある遅れ方です。三つ目」

 東雲はそこで、ノートを閉じた。

「あなたの合気道は、ただ答えを写してるだけです」

 冷たい水を背中に浴びせられたような気がした。道場の音が、ふいに遠くなった。

「どこかに正解があって、それを見て、書き写してるだけのように見えます。写しは綺麗です。しかし、写しは元の答えより必ず遅い。俺は今日、あなたの技じゃなくて、その時間差と試合をしていました。俺が勝ったのは当然だし、今のあなたなら千回やっても負ける気はしません……すみません。事実ですので」

 敬語のままで、ずいぶんないい草だ。ほとんど死体蹴りを思わせる容赦のなさに、俺は思わず呆気に取られてしまった。だが、この人の指摘は、三点とも完全に正しい。足元をみたことも、写しであることも。俺の眼のことを何一つ知らないまま、手合わせだけで、この人は俺の中身を正確に測量した。

「……あの。コンマ二秒って、数えたんですか」

「単なる体感です。もちろん誤差はありますよ」東雲はノートを開き直して、何かを書き足した。「ただ、五十本も組めば体感は収束します。合同稽古を入れれば、今日は五十三本でした」

 数えていたのか。

 ちらりと見えたノートの中身は、細かい字がページの罫線を無視するほど詰まっていて、余白に小さな図まで描いてあった。

「これは俺の稽古用のノートです。これに色々と書いています。君のことも」と東雲は言った。「参考までに、なんて書いたか知りたいですか」

「……知りたいです。知りたくない気もしますが」

「汐見大・葛西さん(二年)。受け身は部で一番。技は写し。目は本物」

 目は本物。その真意を訊き返す前に、割って入る声があった。


  ※


「おいこら東雲ぇ!」

割って入ったのは宮下先輩だった。「よくも、うちの後輩に好き放題言ってくれたな!?俺との点差は二点だったからな!来年は覚えてろよ!」

 東雲は先輩を三秒見て、ノートに何かを書いた。

「何て書いた!?」

「備忘録。汐見大・宮下さん(三年・副将)、来年再戦希望。二点差に納得していない」

「素直か、お前は!」

 たしかに、素直といえば素直な男のようだ。恐ろしく素直で、失礼のラインを踏むことを恐れない率直さ。そして記録の正確な男だった。

 帰り際、道場の出口で、東雲がもう一度だけ俺に言った。

「葛西さん。次に会うまでに、写しじゃない技を、一本持ってきてください」

「……努力します」

「別に、楽しみにはしてません」

 そう言って、ノートを開いて、歩き去った。ノートを読みながら歩ける廊下の長さを、あの大学は完備しているらしかった。


  ※


 帰りのバスの中で、俺は窓にもたれて、自分の状態を点検していた。

 十二対〇。三点の指摘。全部正しい診断。普通に考えれば、へこむべき夜だった。宮下先輩は隣でまだぶつぶつ言っているし、紺野さんは敗因の分析をノートに書き続けている。

 なのに俺は、気持ちが昂るのを、さっきから止められずにいた。乗り越えるべき、明確な壁が、そこに見えたからだ。

 答えの見える俺の眼が、通用しない人間がいるのだ。しかもそれは魔法でも才能でもなく、五十三本を数える種類の努力でできていた。壁が魔法なら絶望するしかない。だが努力なら——それは、登り方の存在する壁だ。

 通路を挟んだ席から、八雲さんが言った。

「葛西、どうだった」

「……面白かったです」

「そうだろう」とだけ言って、八雲さんは目を閉じた。


 スマホが震えた。美晴からだった。「試合どうだった?」。俺は正直に打った。「12対0で負けた」。すぐに返信があった。「点差がもう面白い」「帰ったらたこ焼きね。敗戦処理は六対六で受け付けます」。俺は「よろしくお願いします」と打って、スマホを伏せた。

 夕暮れの高速道路を、バスは汐見へ向かって走っていた。俺は人名鑑の東雲のページに、一行書き足した。

「引き絞った弓弦。写しを狩る人。俺は再戦を希望する」

 書き終えて、もう一つ、あの項目の三つ目のことを考えた。「目は本物」。技は写しと切り捨てた同じページに、あの人はそう書いた。写しを狩る側の人間が、写しの元になっている「見る力」だけは、偽物じゃないと測定した。だとしたら、俺の課題は眼を捨てることじゃない。本物の目と、写しじゃない技を、どうやって同じ体に住まわせるか。次に会うまでの宿題は、たぶん、それだ。

 ふと窓の外を見たら、遠くの観覧車が、夕日の中でゆっくり回っていた。丸い輪郭の真ん中に、律儀な一点。世界はいつも通り、円と三角形でできていて、俺の三角形だけが、俺には見えない。だがそれは今日、少しだけ形を変えた気がした。

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