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めっちゃ愛想いい奴

 九月最終週の月曜、復学初日である。

 空は高く、金木犀は満開。

 俺はこれから、顔のない六千人の中へ飛び込んでいく。


 通学路は商店街を抜ける。

 二か月ぶりの汐見銀座は、朝の匂いが層になっていた。

 パン屋の発酵、八百屋の土っぽさ、そして角を曲がったところのソースと出汁。


 蛸八の大将が、開店前の焼き台を磨いていた。

 会釈すると、布巾を持った手が五センチほど上がり、ねじり鉢巻きが軽くうなずいた。大将の「おう」だ。

 それから大将は、その手で俺の左肩のあたりを指した。

 指してから、自分の肩を、ばん、ばん、と二度叩いた。

 あの日のことを言っている。この通りでは、あれは説明の要らない出来事だ。

 俺は左腕を上げて、肘を二回曲げてみせた。もう平気です、という意味である。

 大将は一つうなずいて、焼き台に戻った。


 この人の顔は、今の俺には分からない。だが、もともと、大将は顔で喋らない。

 そのぶん手元が雄弁だから、こっちも手元だけ見ていればいい。

 今は人の顔が分からなくなったが、この店とのつきあい方は何も変わらないだろう。


 三つ目の角に、袖看板の落ちた跡があった。腕木を切り取ったあとと、コンクリートの傷。

 俺はそこで少しだけ足を止め、それから、大学へ向かった。


 アーケードの下を歩きながら、自分の視界の賑やかさに、あらためて呆れた。

 看板の丸に光が一点ついている。同じ光は、自転車の車輪やマンホールにも。道路標識や、ボルトの頭や、菱形の交差点マークにも。

 丸だろうが、四角だろうが六角だろうが、閉じた形はみんな律儀に真ん中へ、光る旗を一本立てて、中心を申告してくる。


 理玖に言わせれば「図形はたいてい正直なんだ。中心を一個しか持たない」。

 ただ一つ、三角形をのぞいて。

 あいつだけが、中心を七個も抱えている。

 そして人間は、三角形の方の仲間だった。

 だから人の人生は、マンホールの構造より複雑になるし、時として、三角関係なんてものが生じるのだろう——というのは、まあ単なる軽口である。


  ※


 汐見大学(シオダイ)は駅から歩いて十五分、商店街の先にある。

 正門をくぐった瞬間、俺は自分の立てた作戦が、いかに机上のものだったかを知った。

 作戦というのはこうだった。「人名鑑を充実させ、声と歩き方と光で個体識別し、平穏な学生生活を送る」。

 悪くない作戦だと思っていた。病室では機能していたのだ。

 だが、病院と大学の、決定的な違い——

 それは距離である。

 病室は狭い。あそこは、俺の識別装置がちょうど働く広さに、たまたま出来ていたのだ。


「おーい」

 正門の先で、誰かが手を振っている。

 距離、二十メートル。光は初見。だが手はこっちに向かって振られている気がする。迷うが、俺も振り返す。

 だが手を振ってきた誰かは、俺の脇を素通りして、俺の三歩後ろにいた別の誰かと合流した。

 なるほど。俺に振ったんじゃなかったのか。

 んんんっと咳払いをする。

 朝の往来で他人に全力で手を振った男は、何食わぬ顔で歩き出すしかない。もっとも、何食わぬ顔ができているかどうか、自分の顔さえ分からない俺には、保証のしようもないが。


 学習した俺は、次は振り返さなかった。

 すると相手は、わざわざ進路を曲げてこっちへ来た。

「葛西! 久しぶり! お前、新聞出てたろ」

「……江藤か?」

「今、思いっきり無視しなかった?」

「してない。熟慮していた」

「なんの熟慮だ。そんな場面だったか、今の」

 高校の同級生である。理玖や俺と同じく、ここに進学したのだ。

「で、新聞。あれお前だろ。商店街の看板の」

「見たのか」

「うちの母親が切り抜いてた。『同じ高校の子じゃない?』って」

「切り抜くようなことじゃないだろ」

「いや、切り抜くだろ。子どもの命の恩人だぞ」

 四行の記事に、子どもを助けた「近くにいた大学生」として、俺の名前と年齢が載っていたのである。


「そういや頭打って入院してたって聞いたけど、大丈夫なのか」

「まあ、だいたい」

「だいたいって、なんだよ」

「じつは後遺症が、ちょっと」

「後遺症? 大丈夫なのか?」

 江藤は俺の全身を見回した。

「命に別状はない。ちょっとものの見え方が、な」


 顔が部品にばらけて見えます、と説明する気には、ならなかった。

 説明したところで、江藤に何ができるわけでもないのだ。

 去り際、江藤はこう言った。

「お前、なんか雰囲気変わったかもな」

 変わったのは雰囲気じゃなくて視覚野だ、と思ったが、言わなかった。


  ※


 昼までに、俺は方針を確定させていた。

 よし、分かった。もう、全部に振り返してやる。

 俺宛てだろうが、人違いだろうが、視界で手が振られたら、振り返す。人違いなら、咳払いでもしてごまかせばよいのだ。

 無視はよくない。単純な期待値の計算である。これぞ経済学部の面目躍如。


 我ながら合理的な判断だと思った。だが今にして思えば、あれは判断などではなく、判断の放棄である。

 この方針の副作用が判明したのは、一週間後だった。語学の教室で、前の席の男二人がこう喋っているのが聞こえたのだ。

「経済一年の葛西って知ってる?」

「あいつだろ、新聞のやつ。看板から子ども助けたっていう」

「そう、そいつ。めちゃくちゃ愛想いいんだよ」

「ああ、誰にでも挨拶するっていう話な」

「やっぱ、咄嗟に人助けができるやつは、そういうところから違うっていうか」

「あれマジなん? 感じいい上に人助けってなんだよ」

「俺、試しに、遠くから手を振ったら振り返してきたから、本当だぞ。すげえよな」

「できすぎだろ」


 俺は大学に、存在しない人格を一人、育ててしまったようだ。

 道理で、俺の下駄箱まわりには勧誘ビラが同期の三倍集まるわけだ。テニス、映画研究、アカペラ、囲碁……。

「めっちゃ愛想がよくて人助けをする葛西くん」の需要は、意外と高いらしい。


  ※


 十月の頭、正門前を歩いていたら、聞き覚えのある声がした。

 距離、五メートル。江藤である。

 立ち止まって見ると、江藤の三角形が、足元を残したまま、じりじりと後ろへ傾いていた。逃げたいのに、逃げられないという格好だった。

 相手は背が高い二人組だ。低く自信ありげな声で、契約がどうの、権利収入がどうのと言っている。

 二人組の三角形は、どちらも江藤へ覆いかぶさるように傾いていた。


「あの、俺、そういうのはちょっと」と江藤が言った。

「話だけでも聞いてよ。損はさせないから」

「いや、あの、まあ、はい……」

 これはだめだと俺は思った。三人のあいだに割り込んでいった。

「ちょっと今の話、詰めさせてもらっていいですか」

「え?」

「まず、その『月に三十万』の三十万というのは、平均ですか、中央値ですか」

「……いや、平均、かな」

「じゃあ最頻値は」

「さいひん、って」

「いちばん人数の多い金額です」

 俺は統計学を履修している。履修しているだけで、単位はまだ取っていないが。

 二人組はその後も粘ろうとしたが、ほどなく撤退していった。


「……葛西」

「おう」

「助かった。けど、お前さあ」

「なんだ」

「なんで平気なの、ああいうの」

「ああいうのって」

「凄まれてただろ、途中。あの背の高い方、けっこう怖い顔してたぞ」

「そうなのか……よく見てなかったんだ」

「お前、肝が据わってんなあ。高校のころからそんなやつだったかなあ」

「高校のころは、ああいうのに絡まれる機会もなかったろ」

「今の、みんなに言うわ」

「言わなくていい」


「いや、なんかさ」江藤は決まりが悪そうに頭をかいた。「俺、ああいうの断れなくて」

「断れない、か」

「……それに、さっきのやつらは、ちょっと怖かったから」

 江藤は、今度はほっぺたをかいた。

「途中から、あの背の高いほうの目が笑ってなくてさ」

 断れない、の方はよく分かった。

 事故の前の俺だったら、きっと同じように立ち尽くしていたろう。いや、俺のほうがひどい。


 だが、怖かったの方は、あまりピンとこなかった。

 目が笑っていない。江藤にはそれが読めたが、俺には読めなかった。

 俺に届いていたのは、江藤へ覆いかぶさる二つの三角形と、「権利収入」という言葉だけだ。



 俺は、怖い相手の前に立っていたのではない。怖いということを、誰からも知らされないまま立っていたに過ぎない。

 だが、肝が据わっている、と江藤は言ったのを、俺は訂正しなかった。訂正できるほど、勇敢さに詳しいわけじゃない。

 考えてみれば、この三か月、俺は誰にも臆していない。知らない金物屋のおじさんに「看板が落ちます」と言ったときも同じ理屈である。

 人が怖いというのは、たぶん、九割がた顔でできているのだ。俺は、それを怖がるための材料を持っていなかったということだ。


  ※


 学生課から呼ばれたのは、十月の半ばだった。

「新聞、拝見しました」職員の人は言った。「この記事を、学報で紹介させてもらえないかと思いまして。美談ですから」

「美談ですか」

「美談でしょう。咄嗟の判断で子どもを助けた、と」

 咄嗟ではない。俺はあの日、あそこに三十分立って人払いをしていた。

 乾物屋の主人に叱られ、頭まで下げた。

 その二、三分のあいだに子どもが路地に入ってしまった。

 だが、それを説明するには、なぜ落ちると分かったのかを説明しなければならない。


「……すみません。遠慮させてください」

「そうですか。謙虚ですねえ」

 職員の人はたいへん納得したらしい。

 だが謙虚ではなく、説明できないだけであった。


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