跳ねてから〇・五秒
講義は、思ったより何とかなった。
教授というのは、教壇という定位置に立ってくれる上、九十分間しゃべり続けてくれる。はじめの週のうちに、人名鑑の教員ページは埋まった。距離が動かない相手ほど、易しいのだ。
問題は、動く人間のほうである。
学食は、その最たるもので、定位置がない。全員が動く。トレーを持った数百もの三角形が、雑然と流動する。
あれは今思えば、「群れ」というものを俺が初めて「光の集合」として眺めた場所だったのだが、当時の俺の感想は一つだけだ。
座る場所がない。
トレーを持って漠然と立ち尽くしていたら、奥の席から手が振られた。
距離、十五メートル。反射で振り返しかけたが、やめた。学習の成果である。
だが、よく見れば分かった。見覚えのある三角形が、若枝のようにしなっている。肩のそばの光は、振る手につられて、ぴょこっと跳ねていた。
「葛西くーん! こっち!」
「……遠野さん」
「相席どうぞ。あのままだと知らない人と相席になっちゃうもん」
「俺、知ってる人に数えてもらえてる?」
「何言ってんの。一緒に折り鶴、折った仲でしょ」
俺は素直に座った。日替わり定食が二つ、差し向かい。
距離、一メートル。これは、俺にとっては怖い距離のはずだった。この距離では、顔が見えるし、俺は顔を見て話をするのは苦手だったからだ。
だが今は「目の前に読めない本が一冊ある」くらいの感じである。別に怖いことではない。
「その後、体はどう?」
「おかげさまで」
「よかった。ねえ、今日の鯖、当たりだと思わない?」
「思う」
「日替わりはね、水曜がいちばん当たりなの。木曜は落ち着く。金曜は攻めてくる」
「攻めてくる?」
「先週の金曜、麻婆豆腐だったんだよ。学食で麻婆は、攻めでしょ」
彼女はよく喋り、よく食べた。
語学の小テストで出された問題の理不尽さ。日替わりの、二十円値上げに対する憤慨。値上げについては抗議のボイコットを続行中とのことだったが、遠野さんはそれを日替わりを食べながらいった。指摘すると、遠野さんは、あははと笑った。
「そういえば新聞読んだんだよね。看板のやつ」と遠野さんはいった。「子ども、無事でよかったね」
「うん。それにしても、みんなよく読んでるんだな、あんな小さい記事」
俺は正直、驚いていた。県版の、下のほうの四行だったのだ。
「それは読むでしょ。地元だし」
「俺は読まないぞ」
「こら。大学生なんだから新聞くらい読みなさい」と遠野さんは言った。「と言いつつ、実はバイト先の人に教えてもらって読んだんだけどね」と笑って種明かしした。
「なんだ」俺も笑った。
「怪我したって書いてあったけど、大丈夫なの」
「かすり傷。もう治った」
「ほんとに?」
「ほんとに。それより、Tシャツもらったんだ」
「Tシャツ」
「洋服屋のおじさんが、新品を持ってきてくれた。血がついたから」
「……血」
言い方を間違えたな、と思った。
「それって……かなり危なかったってことなんじゃないの。たしかその看板って三十キロあったって」
「うん。落ちるとき、すごい音がした」
「三十キロが、上から……」
彼女は少し黙った。
「腕に当たったってこと? 私てっきり、逃げるときにどこかにぶつかりでもしたのかと思ってたのに」
「当たったっていうか、かすめたんだ。その子、かくれんぼしてて。引っ張り出したら泣かれたよ、いい隠れ場所だったのに、って」
笑いどころを準備したつもりだったが、彼女は笑わなかった。
「危機一髪じゃん、それ」遠野さんは急に、まっすぐな声になった。「すごいよ。咄嗟にそんなの、できないよ、普通」
俺は何というべきか迷った。
咄嗟、ではなかったのだ。俺はあの日、三十分立っていた。乾物屋の主人に叱られて、頭を下げて、その二、三分のあいだに、子どもが路地に入っていた。
だが、それを言うには、なぜ落ちると分かったのかを言わなければならない。
俺は、ただ褒められたままでいることにした。
褒められているのは、声で分かる。
だけど、いま、彼女はどんな顔をしてるんだろう、と俺は思った。
病室で一度、同じことを思ったのを覚えている。彼女が笑ったときのことだ。
あのときは、無いものねだりだと思って片づけたのに、今日は、簡単には片づけられなかった。俺を褒めてくれている人が、たった一メートル先にいる。その人がどんな顔をしてるのか、俺だけ分からないなんて。
美晴は鯖の身をほぐした。
ほぐしただけで、口へ運ばなかった。
俺は話題の向きを変えることにした。
「そうだ。そのTシャツってのが、これがまたダサいやつなんだよ」
「そうなんだ」
「商店街の余り物だってさ。胸に、なんか丸っこいマスコットがでかでかと刷ってあるやつで」
「……あー。あれね」遠野さんは、なにやら苦笑いしている。
「知ってるのか」
「まあ、うん。この辺の人はだいたい知ってるでしょ」
「何なんだろうな、あれ。魚みたいなダンゴみたいな。あんまり可愛くもないし」
「えー。まあ、うん」
「……何か歯切れが悪いけど、遠野さん、もしかしてあのマスコットのファンだったりする? もしそうなら、悪かった」
「そういうわけじゃないよ」遠野さんは笑った。今度はふつうの笑い声だ。
「着てるの、それ」
「着てない。畳んである」
「なんで」
「着るのに、ちょっと勇気が要る」
「着なさい」
「なんでだよ」
「わざわざ店から出してきてくれたんでしょ」
「うーん。じゃあ、明日着てくるかぁ」俺はいい加減なことを言った。
「見せて」
「え」意表を突かれた。
「明日、確認します。ちゃんと着てるか」
「勘弁してくれ」
「だめ。あんなの着て歩いてる人、めったにいないんだから」
「なんか、やっぱりちょっと詳しいだろ」
「しおみんは、葛西くんが思ってるよりも人気なんだから!」
「しおみん?」
ともかく、さっきまで少しゆっくりだった箸は、元の速さに戻っていた。
顔が読めないことで、気づいたことが、もう一つあった。
たとえば、彼女が笑う。俺も少し遅れて笑う。相手が笑ったから笑う、という順番だ。これでは半拍遅い。
人が笑い合うとき、相手の笑い出しそうな顔を見て、こちらの顔がつられて動くことがあるはずだ。ところが俺の笑いは、相手の笑い声を確認してからだ。
返事としては正しくても、反応としては遅い。
退院から二か月。それを指摘されたことはないが、気づいてしまうと、気になる。
俺は箸を止めて、彼女の光を見た。
肩のそばの光が、ぴょこりと跳ねた。その〇・五秒後に、彼女が笑った。
——間に合う。
次にその光が跳ねたとき、俺はそれを合図にして、口の端を上げてみた。
彼女が笑い、俺も笑った。たぶん、ほとんど同時に。
うまくいった。
俺はそのとき生まれて初めて、笑い返すという動作を、計算でやった。
人名鑑の遠野美晴のページに、その日、一行足した。
「学食、鯖。よく喋る。顔が分からなくても平気だった数少ない相手」。
最後の一行を書いたあと読み返していると、何かこう、小っ恥ずかしいような気がした。一瞬、消そうかと思ったが、残しておいた。
そして、その下にもう一行だけ足した。
「跳ねてから〇・五秒。間に合う」




