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秋の審査

 十月の第三日曜、道場に緊張が満ちていた。昇級審査の日である。

 県の連盟から審査員の先生が来る。(さかき)先生という、七十を過ぎた小柄な人で、袴の裾さばきに音がなかった。光は細い。細いが、よく使い込まれた道具の細さとでも言おうか。研がれ続けた彫刻刀のような、鋭い縦の線が、道場の上座に正座している。外の三つの光は、手の届くところに小さく畳まれて浮いていた。使う道具だけを手元に残した、職人の道具箱のような三点だった。それだけで、青い畳の道場が、いつもより三度ほど冷えて感じられた。


 受審者は俺を含めて五人。紺野さんも受ける。彼女は半年先輩の分、俺より上の級だ。控えの列で、彼女の姿勢は普段より更に一段まっすぐで、素振りされた棒が、研がれた棒になっていた。

 俺はといえば、白帯が二年目に入っていた。級は去年から少しずつ上がってはいたのだが、合気道の帯は級が上がっても白なのだ。うちの部では一級に受かったときだけ、初段までの中継ぎに茶帯を締める習わしになっている。つまり今日は、入部から一年、初めて帯の色に関わる審査だった。帯は洗いすぎて少しくたびれ、俺の技は百本に十本くらい通るようになっていた。進歩の速度としては胸を張れないが、投げられ日記は二冊目である。継続だけが取り柄であった。


 朝、控えの板の()では、宮下先輩が受審者を集めて訓示を垂れていた。「いいか、審査は試合じゃない!普段通りやれ!普段通り!俺は初段のとき緊張で相手の名前を忘れたんだ!お前らはそうなるな!」。励ましなのか脅しなのか分からない話で、控え室の緊張は、むしろ微増した。小田島さんは受審しない側で、薬缶(やかん)の麦茶を人数分の湯呑みに、几帳面に等量ずつ注いでいた。等量に注がれた麦茶というのは、見ているだけで少し落ち着く。

 スマホには朝から美晴のメッセージが入っていた。「審査がんばれ」。それだけの文面に、跳ねる犬のスタンプが三連。ぴこぴこと画面の中で跳ねるのが、まるで美晴に灯った光みたいだ。そう思ったら、少し笑えて、少しほどけた。


 審査前、八雲さんが俺のところへ来て、一つだけ注意をくれた。

「葛西。技の終わりが、いつも半拍早い」

「終わりが、早い」

「投げた瞬間に、君の中で技が終わっている。ほっとするのが見える。本当の終わりは、もう少し先だ」

 それだけ言って、離れていった。心当たりがありすぎて、耳が痛かった。写し終えた答案を提出した受験生は、そりゃあ、ほっとするものだ。ほっとして、視線が切れて、半歩下がる。自覚はあるものの、直し方までは分からないまま、審査は始まった。


  ※


 基本技の審査は、(つつが)なく進んだ。受け身、体さばき、指定技。一年間、週三回転がり続けた体は、指定された型を指定された通りに出せるくらいには育っていた。写しは綺麗です、という東雲(しののめ)の声が頭のどこかでするたび、綺麗で何が悪い、と思うことにした。今日は綺麗さの試験なのだ。受け身の段では、俺の後方受け身の音に榊先生が一度だけ、深く頷いた。この一年で唯一、誰にも文句を言われたことのない科目である。投げられ日記の賜物だ。

 紺野さんの審査は、見事だった。研がれた棒が、指定技を一本ずつ、寸分の狂いなく置いていく。置く、という表現が正しい。彼女の技は投げるというより、あるべき場所に相手を置く。終わりの姿勢は毎回、写真に撮って教本に載せられる形で静止した。光で言えば、投げ終えたあとも、外の三つが微動もしない。技が終わっても、彼女の三角形は、外まで崩れないのだ。残心というものを、俺はこの日初めて、光の側から見た。あの人の武道は、終わりから逆算して組み立ててあるのだ。列で見ながら、俺は合宿の夜の言葉を、まだ言葉のままで思い出していた。


 異変が起きたのは、自由技の段だった。

「葛西君、といったかね」

 榊先生が、上座から立ち上がったのだ。道場の空気がざわりと動いた。審査員が自分で受けを取るのは、予定にない。八雲さんだけが、素知らぬ顔で座っていた。この人の素知らぬ顔は、大抵、知っている顔である。

「一本、儂に掛けてみなさい」

 断れる空気ではなかった。俺は先生と組んだ。細い、乾いた手首だった。先生がすっと入ってくる。老人の速度ではなかった。だが——見えた。細い線が、入り身の一瞬、わずかに前へ乗る。円はもう足元にある。粒が並ぶ。俺は半歩ついて、導いた。

 先生が、ころん、と転がった。道場の空気が、またざわついた。受け身は綺麗だった。七十過ぎの体が、羽根布団みたいに柔らかく畳に落ちて、立ち上がった。先生は袴を直し、俺をじっと見て、言った。

「もう一本」

 二本目は、先生もさっきより本気だった。手首から伝わる圧が違う。細い線が、今度は前に乗らない。乗らないどころか、こちらの導きに合わせて、線がしなやかに逃げる。七十年使い込んだ体は、崩されることへの抵抗の仕方まで練れていた。それでも、円は円だった。位置関係は嘘をつかない。俺は先生の円の上を四分の一だけ歩いて、レールの向きが変わったところで、いただいた。

 ころん。

 二度目の静寂のあと、榊先生は立ち上がり、帯を締め直し、しばらく黙って俺を見ていた。値踏み、というのとは違う。骨董屋が壺の底の銘を確かめるような、静かで長い目だった。それから上座に戻って、講評の一言を述べた。

「気の流れが、実に良い」

 幾何学とはかけ離れた講評だった。しかし、気ではなく幾何です、などと言えるはずもなく、俺は神妙に努め、深く礼をした。あるいは、武道でいうところの気は、俺の幾何と同じことなのだろうか。とにかく、褒められたのは間違いないのだから、喜んでおこうと思った。


  ※


 審査の締めは、続けての自由技三本だった。

 一本目、二本目と通って、体が温まって、そして三本目——受けの宮下先輩を投げ終えた、その瞬間だった。いつもの「ほっ」が来た。例の、答案提出の安堵。視線が切れかけ、体が半歩、後ろへ緩みかけ——


 ——そのとき、雨の音がした。実際にしたわけではなく、記憶の中で。

 青雲荘の夜。談話室の麦茶と、窓の外の梅雨の音。打った後のほうが大事なの、という声。それらが音より先に姿勢で蘇った。

 打って、決まって、それで終わりじゃなくて。終わった後も、崩れないで、そこに在ること——。


 俺は、下がらなかった。

 投げの形のまま、視線を切らず、宮下先輩が受け身を取り終えて、畳の上で静止するまで——その全部を、技の中に入れたまま、立っていた。

 半拍。

 たった半拍、終わりを先へ延ばしただけだ。

 なのに、その半拍の中に、今まで一度も味わったことのない感触があった。技が、投げで終わらずに、着地して、根を張って、それから静かに閉じる感触。

 不思議なもので、その半拍のあいだ、道場の音がよく聞こえた。窓の外の商店街の遠いざわめき。三階から染みてくる、微かなベースの振動。宮下先輩の道着が畳を擦る音。

 技の終わりを延ばすというのは、世界が閉じる前に、もう半拍だけ世界の中に立っている、ということらしかった。剣道時代の紺野さんは、あの半拍を六年も七年も磨いていたのか。打った後のほうが大事、の意味の、たぶんまだ入口だけを、俺はこの日、体でくぐった。

「そこまで」

 榊先生の声で、審査は終わった。先生は講評で技の細部にはほとんど触れず、最後に一つだけ言った。

「最後の一本は、終わりまで技だった」

 列に戻るとき、隣の紺野さんと目が合った。彼女は俺を数秒見て、それから、ふ、と小さく息を吐いた。

「……見事な残心、だね」

「紺野さんのを、借りました」

「ううん、君のものにしな。返す必要はない」と紺野さんは首を振った。

 それだけだった。それだけの会話が、審査の合格発表より、少しだけ嬉しかった。


  ※


 全員、合格だった。

 俺は茶帯になった。折り目の硬い、新品の帯。白帯を解いて、畳んだ。俺の一年と、顔も知らない先代たちの歳月ぶんの、くたびれた白。道場の物入れに返すとき、妙な感慨があった。締め方を教わったのは小田島さんだった。今日も小田島さんは、俺の腰で新しい帯をするすると整えながら、言った。

「茶色はいい色だけども」

「白は、これからを感じさせる色、でしたよね」

「そう言ったけども」小田島さんは結び目をとん、と叩いた。「茶色は土の色、根っこの張る色だ。これからってやつが、土に潜り始めた色だよ」

 小田島さんの色彩学には、何やら詩のような趣がある。


  ※


 審査のあと、道場でもう一つの式があった。

 大隈主将の、引退演武である。

 四年生の秋。就活を終え、卒論に入る主将の、最後の畳だった。受けは宮下先輩が務めた。俺は正座の列で、正直に言うと、そこまで大きな期待をしていなかった。大隈さんの稽古を、俺は一年間、ほとんど印象に残せていない。気配が薄く、光が薄く、いつの間にかいて、いつの間にか帰る人。技も、派手なところの一つもない教科書通り。

 だが、演武が始まって、俺は目を疑った。

 濃いのだ。

 大隈さんの七つの光が、濃い。この一年、露光三段落としだったあの光が、今日は、普通の——いや、普通より深い色合いで灯っている。技は相変わらず教科書通りだった。飛ばない。飾らない。入り身、転換、投げ、残心。教科書のページをめくるように、一本、また一本。だがその教科書通りの一本一本が、線の芯まで詰まっていた。四年分の反復が、薄い光の中に、ぎっしりと沈殿していたのだ。それが今日、最後の畳の上で、全部浮かび上がっている。もうひとつ、白状する。俺はこの日まで、大隈さんの外の三点を見たことがなかった。薄くて、外までは見えていなかったのだ。それが今日は、三つとも、確かにそこに灯っている。内も、外も。この人はずっと、七つ全部で、ここに居たのだ。

 正座の列が、静かに前のめりになっていくのが分かった。紺野さんは膝の上の拳を握ったまま微動だにせず、小田島さんは湯呑みを置いて、目を細めていた。

「大隈は目立たない。だが、あれこそが四年間、目立たずとも、ただ続けた人間の型だ」

 隣で八雲さんが小さく言った。誰に説明するでもない、独り言に近い声で。

 演武は十分足らずで終わった。大隈さんは正座して、一同に礼をして、短い挨拶をした。「四年間、ありがとうございました。この部で良かったです。あと——」少し間があって、「気配が薄いのは、便利ですよ。こつこつ続けるのに、向いてます」。それが最後の言葉だった。笑っていいのか泣いていいのか分からない一言に、道場は温かくざわめき、宮下先輩が新主将に指名されて男泣きし、みんなで写真を撮り、片付けが始まり——

 気づいたら、大隈さんは、もういなかった。

 挨拶のあと、確かにその辺にいたはずなのだ。麦茶も飲んでいた気がする。なのに、誰も帰るところを見ていない。荷物ごと、静かに、いつの間にか。最後の最後まで、あの人はあの人の型だった。俺は人名鑑の大隈さんのページを開いて、末尾に書いた。「引退。演武の日だけ、光が濃かった。四年分。去るときは、いつも通りに去っていった」。


  ※


 その夜は、蛸八だった。

「見せて見せて」と美晴が言うので、俺は紙舟の隣に、畳んだ茶帯を置いた。湯気とソースの匂いの中の茶帯は、道場で見るより少し、うまそうな色をしていた。

「おお……茶色い」

「茶色いよ」

「白より強そう」

「小田島さんいわく、根っこの張る色だそうです」

「ほほう、いいね、それ」美晴は一個目をあちちと頬張ってから、帯を指の先でつんと突いた。「じゃあ今日から葛西くんは、根の生えた人だ」

「それから茶色は、これからって奴が土に潜り始めた色だ、とも言ってた」

「……その小田島さんって人、詩人だね」たこ焼きを、あちちと食べながら、美晴は言った。

「同感」俺はたこ焼きを冷ましながら言った。


  ※


「よーし! 新主将の初仕事だ!」

 翌週の稽古で、目を腫らし終えた宮下新主将が宣言した。

「柔道部と交流稽古を取り付けてきた!来月、うちの畳に呼ぶ!葛西、頼んだぞ!」

「俺なんかに何を頼むっていうんです」

「お前は茶帯になった!もう立派な、うちの戦力だ!」

 宮下先輩は言った。そう言われれば、俺も色帯として、しっかり務めざるを得ない。だが柔道部といえば、平均体重がうちの部と二回りは違う集団である。九十キロの丸太が軽量さえに見える世界から、お客様がいらっしゃる。茶帯の折り目は、まだ硬いままだった。

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