なお、六千人中、ひとり
空きコマには、図書館に通うようになった。
きっかけは理玖の講義だ。五心、オイラー線。名前を知ってしまうと、続きが知りたくなる。それに、いつまでもあいつに説明される側でいるのも、少し悔しい。
汐見大図書館の地下二階、分類番号512番台——幾何学の棚。
古い本ばかりだ。試しに一冊抜いて開くと、ページのそこらじゅうで三角形が光っていた。印刷された図版の一つ一つに、七つの光が律儀に灯る。
教科書というより、俺にとっては、いっそ夜景の写真集に近かった。
貸出カウンターで初等幾何の入門書を二冊借りた。経済学部一年の貸出履歴としては、いささか変わっている。俺は閲覧席で一時間、ページをめくるたびに点いたり消えたりする街明かりを眺めて過ごした。
※
後期の語学は、前期と同じ顔ぶれだった。「顔ぶれ」という言葉を、俺が使っていいのかは分からないが。
初回の講義の前に、英語の佐伯先生が俺の席までやってきて、言った。
「葛西くん。お帰りなさい。大変でしたね。体はもういいのですか」
「ありがとうございます。おかげさまで、だいたい元気です。あの、鶴、二十羽も折って下さったって」
「ああ」先生は眼鏡の位置を直した。「気にしないでください。折り紙は、指の語学ですから」
この先生は、森羅万象を語学に回収しようとするのだ。
答えに窮していると、先生は思い出したように付け足した。
「そういえば、新聞を読みましたよ。あれは、あまりよい記事ではありませんでしたね」
「はあ」
褒められるものと身構えていたので、拍子抜けした。
「四行では、何も書いていないのと同じです。誰が、なぜ、そこにいたのか。それが書かれていない文章は、報告ではありますが、文章ではありません」
俺は返事の仕方に困り、再び「はあ」と曖昧な声を出すほかなかった。
この先生は、たぶん記事の書き方の話をしているだけである。それでも「なぜそこにいたのか」という部分が空欄だとはっきり言ったのは、佐伯先生だけだった。狙っているふうでもないのに、不思議なやり方で核心をつく人だ。
「ところで葛西くん、君はずいぶん数学が好きなようですね」と、急に問われて驚いた。
「どうしてですか。あ、もしかして、こないだ、先生も図書館にいらっしゃったんじゃ」
「はい。幾何学の難しそうな本を、なにか綺麗なものでも見るかのような目で眺めていましたね」
実際に、俺はあの本を、綺麗だと思いながら見ていた。
「ちょっと入院中に、世界の見え方が変わったみたいで」
「それはまさに、語学の本懐ですね」
佐伯先生は満足そうに頷いた。何かの誤解が成立したような気がしたが、訂正はしないことにした。
その日の講義は、例文の反復練習だった。同じ構文を、単語を替えて何十回も口に出す。後ろの席の男子が、休憩がてらに手を挙げて、間延びした語尾で質問した。
「先生ぇ、これ意味あります? 文法とか、考えながらでも喋れれば良くないすかぁ」
佐伯先生は、黒板を書き書き、振り向かずに言った。
「文法はね、考えなくなったときに、初めて身についたと言うんですよ」
「はあ」
「考えながら話しているうちは、それはまだ外国語で、あなたの言語ではありません。はい、続きを」
語尾の伸びる男は「きびしー」と小声で言い、教室は反復練習に戻った。隣の席で遠野美晴が「いいこと言うね、先生」と小さく笑った。たしかに、いい言葉だ。俺は人名鑑の佐伯先生のページの余白に、その言葉を書き留めた。
※
遠野美晴だが、後期の語学では、俺の隣が彼女の定位置になっていた。
それとも、彼女の隣が俺の定位置なのか。
初日、俺が席に着いたら、当たり前みたいに隣に座ってきて、こう言ったのだ。
「私、ここね。前のほうは黒板の字がまぶしいから」
それからは、俺が教室に入ると、彼女の隣が一つだけ空いている。空けておいてくれているのだ、と何回目かで気づいた。
彼女の識別は、もう間違えない。
風を受けてしなる若枝。よく通る声。そして、笑う直前、肩のそばでぴょこりと跳ねる傍心。
跳ねの観測記録は病室の一回から順調に増えて、この時点で十四回を数えていた。打率十割。
彼女が笑う〇・五秒前、俺は世界で一人だけ、先に知っている。
そう思うと、なんだか妙に誇らしい気がした。
ちなみに、Tシャツは着ていった。
あの丸っこいマスコットを胸にでかでかと掲げて教室に入ったら、遠野美晴は机に突っ伏して笑った。
「ほんとに着てきたんだ」
「確認するって言ったのはそっちだろ」
「うん。うん、偉い」
その日は一日、すれ違う人がなんとなくこっちを見ていた気がするが、確かめる手段はない。
※
水曜の昼前だった。
キャンパスの銀杏並木の向こうから、誰かがこっちに手を振った。
距離、三十メートル。
復学した日の俺なら、条件反射で振り返して終わりだ。声はまだ届かない。三十メートルというのは、俺の識別装置が、とっくに息切れしている距離である。
だがその日は違った。
三角形のしなり方。それから、振られた手の下で、肩のそばの光が、ぴょこ、と跳ねた。
遠野美晴だ。間違いなく、俺に向かって、振っている。
俺は、初めて確信を持って、手を振り返した。
人違いの保険をかけず、期待値の計算もせず、ただまっすぐな一振りを。
「ねえ葛西くん、今の、なんで私って分かったの? 結構遠かったよね」
「……雰囲気で」
「雰囲気」彼女は俺の言葉を、手に取って裏返すみたいに繰り返した。「あそこから分かるかなあ」
「分かる。誰でもってわけじゃないけど」
「私のことは分かるんだ」
「分かる。それに遠野さんこそ。気づいたのはお互いさまだし」
「そりゃ分かるよ。葛西くん、歩き方が変だもん」
「変か」
「ちょっとね。……それにしてもさ」
「なんだ」
「葛西くんって、人の目、ちゃんと見て話すよね」
俺は返事に詰まった。
見ているのは、本当だ。実際には、部品としての目を見ているだけで、表情までは分からないが。
遠野さんとの会話で、俺は人の顔が見えないことを惜しいと思い始めていた。そう思わされた相手の言葉だったから、俺は複雑だった。
「なんか、まっすぐ見てくるっていうか。ふつう、そんなに見ないよ」
「……見てるかな」
「見てる。でも、うーん。なんだろ」
彼女は一秒だけ、言葉を探すような間を置いた。
「ううん。いいや。うまくいえないから、まとまったら言うことにする。私、次の講義あるから、もう行くね」
「ああ。……また、隣の席で」
「うん。また」
それだけの会話だった。
彼女は駆けてきた並木道を、歩いて戻っていく。歩調に合わせて、三角形が揺れていた。去り際、肩のそばの光が、ひょこりと跳ねた。
何回目かは、もう数えなくてもいい。数えなくても、彼女がそこにいることは、これまでの十数回で、とっくに分かるようになっていたからだ。
人名鑑には、その日、こう書き足した。
「遠野美晴。三十メートル、確信。」
その下の余白に、しばらくしてから、もう一行だけ足した。
「なお、六千人中、ひとり」




