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九十キロの山

 十一月の頭、うちの道場に柔道部がやって来た。

 宮下新主将の初仕事、交流稽古である。玄関の引き戸が開いた瞬間、会館の二階の床が、みし、みし、と鳴って来客の質量を正直に報告した。

「畳、青っ」

 先頭の部員が開口一番そう言い、後続が口々に「青い」「青いな」「青……」と続いた。そう、我が道場の畳は、どこに出しても恥ずかしくないほど青いのである。妙な誇らしさで胸を張るうちの部員たちを、俺は横目で見ていた。畳の色で誇れる部は、たぶん幸せな部である。


 合同稽古は、文化の違いの見本市だった。礼の角度が違う。受け身の音が違う。うちの受け身が「たん」なら、柔道部のは「どん」だ。会館の床が一回ごとに軋んで、階下の展示室の水彩画が、壁から落ちやしないかと心配になった。

 準備運動からして迫力が違う。柔道部の打ち込みを全員で一斉にやると小さな地震で、小田島さんが薬缶を押さえに立ったほどである。

 向こうは向こうで、うちの転換の足さばきを「回るの速っ」と面白がり、うちは向こうの絞め技を「あれ人間にやっていいんだ……」と青ざめて見た。同じ畳の上の、別の惑星だった。

 畳の上の光の風景も壮観だった。柔道部の縦四つは、総じて低い。重心を示す光が、うちの部員より、軒並み拳一つぶん低いところに据わっている。低くて、太くて、動かない。人間というより、地形である。

 その地形の中に、ひときわ大きな山があった。

 岩淵さん。柔道部の副将で、三年。公称九十キロ。公称、と付けたのは、隣に並んだ宮下先輩、八十八キロが小柄に見えたからである。四つの光が、また低い。オイラー線が短い。短くて、地に近い。そして、外の三つがまた良かった。下限は畳すれすれの近さで、体から遠く、ゆったりと山を囲んでいる。まるで裾野だ。岩淵さんという山には、なんと裾野まであった。


  ※


 乱取りの時間になった。

 交流だから勝ち負けではない、と両主将は宣言したが、宣言で消える闘志なら武道部はやっていない。

 宮下先輩は水を得た丸太で、柔道部相手に組み合っては投げて、投げられて、起き上がるたびに嬉しそうにした。幸福の構造の頑丈な人である。紺野さんは柔道部の組み手の圧に苦戦しつつ、間合いの切り方で観客を唸らせた。掴ませなければ柔道は始まらない。紺野さんは掴まれる前の世界で戦っていた。

「次!葛西いってみよう!」

 宮下主将の声で、俺は山の前に立った。

「柔道部の岩淵です。お手柔らかに」

「合気道部の葛西です。こちらこそ、お手柔らかに」

 お手柔らかに、が両者とも本気の声だった。が、組んだ瞬間、俺は自分の見積もりの甘さを知った。襟と袖を取られる。それだけで、俺の選択肢が九割消えた。柔道の組み手は、握手ではなく建築だった。俺は建築に組み込まれた一本の柱で、柱の分際で建物を動かそうとしていた。

 いつもの手順を試した。円に乗る。粒のレールを待つ。だが待てど暮らせど、レールが「使える向き」に来ない。理由は見れば分かった。山が、(かし)がないのだ。押しても、引いても、縦四つの密集が微動だにしない。宮下先輩なら丸太が揺れ、東雲なら弦が張り替わるところだ。この人は、揺れも張りもしない。俺の合気道は相手の「崩れを借りる」借金経営だ。しかし山は、一円も貸してくれなかった。

 畳に二回、埋められた。一回目は大外刈りで、視界が天井、背中が畳、順番に来た。二回目は払い腰で、これは順番すら分からなかった。柔道の投げは合気道の投げより地面が近い。俺の受け身は部で一番の評価を得ているが、その評価表ごと畳に叩きつけてくる。ただ、二回とも、岩淵さんは投げたあと俺の襟を最後まで保持していた。落とさないための配慮と気づいて、少し感動した。スポーツマンシップを有する、やさしい山なのだった。


 三本目、俺は発想を変えた。

 崩れない相手を崩そうとするのを、やめた。山は崩れない。それは地形の事実として受け入れる。だが山にも、できないことが一つある。

 山は、俺に正面を向き続けたがる。柔道の本能だろうか。組んだ相手に体を正対させる。俺が右へ一歩ずれれば、山は正面を保つために、その場で少し回る。もう一歩。また回る。崩れない山が、回ってはいる。回るとき、山は一瞬だけ、山であることを休む。九十キロが軸の上で旋回する、その足が畳を離れて次の位置へ移る、ほんの半歩。

 俺は、歩いた。

 山の円の上を、レールの向きが少しずつ回っていくのを見ながら、右へ、右へ。急がず、組まれたまま、円周に沿って。山は律儀に正対を守って、その場で回り続けた。四分の一周。三分の一周。柔道部の側から「岩淵、回されてんぞ」と声が飛び、山が半笑いで「回されてねえよ」と答え——半笑いが、消えた。三分の一を過ぎたあたりで、山も気づいたのだ。何かが進行している、と。だが柔道の本能は正対をやめられない。組み手を切れば済む話なのに、九十キロの誇りが、この痩せた合気道部員から手を離すことを許さない。道場がいつの間にか静かになって、鍋の下見に行っていた連中まで戻ってきて、全員が、俺たちのゆっくりした回転を見ていた。時計の針を見守るような時間だった。

 半周。

 足元に投影された外接円、そこから引かれたシムソン線のレールが、山自身の回転の向きと、揃った。右足が、次の正対のために畳を離れる、その半歩。九十キロの全部が、一瞬だけ、片足の上の回転体になった。俺は組まれた両腕を、押しも引きもせず、ただレールに沿って——半歩ぶんだけ、余分に送った。

 山が、転がった。

 どうん、という音は、今日一番の音だった。道場が三秒静まり、柔道部側から「はあ!?」という、感嘆と抗議の中間の声が上がった。転がった山は仰向けのまま天井を見て、それから律儀に受け身の姿勢を解き、起き上がって、俺をまじまじと見た。

 投げた俺の側にも、発見があった。今の崩しは、正確には崩しじゃない。俺は山を一度も崩していない。山が自分の意志で回り続けた、その運動を、最後の半歩だけ延長しただけだ。動かせないものは、崩さなくていい。回ってもらえばいいのだ、と。

「……今の、何すか。俺、押されても引かれてもないんすけど。自分で転がった感じがするんすけど」

「はい、自分で転がったんだと思います」

「余計こわいんすけど」

 柔道部の面々が「今のは何だ」「何やったんだ」とざわつく中、宮下主将が進み出て、俺の肩に手を置き、胸を張って言い放った。

「これが、うちの幾何学係です!」

 説明になっていなかった。なっていなかったが、柔道部は「幾何学係……」「幾何学って倒せるんだ……」と、なぜか納得の方向へ流れていった。役職名というのは、内容が不明なほど権威が出るらしい。俺の役職は、この日、対外的に確定した。


  ※


 打ち上げは、道場で鍋になった。

 柔道部が鍋の準備を買って出て、これが上手かった。「柔道部は合宿で鍋番を(きわ)めるんで」とのことで、白菜の切り方から出汁の順番、締めの雑炊の卵の回し入れまで、投げ以外も建築的だった。うちの部は完敗である。カレー二十人前で威張っている場合ではない。鍋文化の層の厚みに頭が下がる。

 宮下家の酒屋からはジュースと烏龍茶が箱で届き、小田島さんと柔道部の顧問の先生の前にだけ、一升瓶がそっと置かれた。二人の年長者は道場の隅で静かに酌み交わし、聞こえてくる話題はなぜか、昭和の商店街の火の見櫓の話だった。

 岩淵さんは俺の隣に陣取って、「さっきの、もう一回だけ説明してもらっていいすか」と三回言った。一回目、俺は「歩いただけです」と答えた。二回目は「岩淵さんが回ってくれたので」と答えた。三回目は「……幾何学です」と答えた。三回とも岩淵さんは雑炊を装う手を止めて唸り、最終的に「幾何学――履修しときゃよかった」と本気の声で言った。大学の履修で学べる投げではないのだが、訂正はしなかった。

 鍋の湯気の合間に、美晴からメッセージが来た。三階のオンケンも今日は練習日で、「下、今日にぎやかだね?地響きしてる」とのことだった。「柔道部が来てる。鍋がうまい」と写真を送ったら、「えー、私も鍋がいい」「ベース背負って乱入していい?」「あ、そういえば報告。例のベース貯金、ついに九合目です」と即答が三連で来た。乱入は思いとどまってもらったが、代わりに「明日、蛸八で鍋の話を聞く会」が一方的に設定された。議題のある土曜が、また一つ増えた。

 九時過ぎ、散会。柔道部を見送り、片付けをして、会館を出たのが十時前。夜の商店街を半分ほど歩いたところで、俺は忘れものに気づいた。

 人名鑑。

 道場の物入れの上だ。鍋の席で岩淵さんのページを書き足して、そのまま置いてきた。俺は回れ右をして、来た道を戻った。あのノートは俺の重要機密である。外泊はさせない主義なのだ。


 会館の角を曲がって、足が止まった。

 そこには、消防の赤色灯が回っていた。

 胸の中が、一瞬で冷えた。二階が。道場が。三階が——今日、美晴はあそこで練習していた。もう帰ったはずだ。帰ったはずだと分かっているのに、足が勝手に走り出して、角を曲がり切ったところで、匂いと光景が答えをくれた。炎は、ない。建物は、立っている。窓はどこも暗く、静かだった。息を一つ吐いてから、俺は自分の心拍数に、遅れて気づいた。


  ※


 消防車が一台、会館の裏手に停まっていた。近づくと焦げの匂いがした。裏のゴミ置き場の脇、外壁の下のあたりが黒く煤け、消防士が残り火の確認をしている。炎はもうない。ボヤで、済んでいた。

「二階の、合気道部の子だね」

 声をかけてきたのは、会館の受付の管理人さんだった。入部からこっち、週に三度は会釈を交わしてきた人だが、制服の胸の名札に「常盤」とあるのを読んだのは、考えてみれば初めてだ。手に消火器を提げていて、聞けば、第一発見者にして初期消火の人だった。見回りの途中で火に気づき、燃え広がる前に叩いたのだという。

 消防士が「タバコの不始末ですかね」と言い、焦げの近くに落ちていた吸い殻を袋に入れた。常盤さんは、それにすぐには答えなかった。焦げた壁と、ゴミ置き場と、街灯の位置を、順番に見て、それから独り言のように言った。

「……吸い殻の落ちるような場所じゃありませんけどねぇ」

「と、言いますと」と消防士。

「ここでタバコ吸う人は、いないんですよ。風通りが悪いし、暗いですし。汚れやすいから、座るところも、もたれるところもない。タバコなんか、吸いやすい場所で吸うもんでしょう。この裏で三十年、吸い殻を拾ったことは一度もありませんよ」

 消防士は「まあ、通りすがりでしょう」と書類の側へ戻っていった。

 常盤さんはそれ以上、食い下がらなかった。ただ、消防士さんが歩き去ってから、独り言のように言った。「わたしらの見回りはな、変わったもんを探す仕事じゃないよ。いつも通りを覚える仕事だ。いつも通りさえ覚えてれば、違うもんは向こうから浮いて見える。……今夜のあれは、浮いてたね」。そして「驚いたろう、いきなり」と、常盤さんは俺に言った。「もう大丈夫だ。忘れ物かい」

「はい。二階に、ノートを」

「行っといで」常盤さんは会館の暗い窓を見上げた。


 ノートを回収して外に出ると、消防車はもう帰り支度で、常盤さんは何事もなかったように、一階の見回りに戻っていた。夜の商店街を、俺は帰った。時計屋の看板の真ん中に、いつも通りの一点。蛸八のシャッターの前に、いつも通りのソースの残り香。アーケードの柱の影も、いつも通りの角度で伸びていた。


 鼻の奥にだけ、焦げた匂いが残っているような気がした。

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