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フォイエルバッハの円

 ボヤの件は、書類の上では終わった。

 原因はタバコの不始末と推定、被害は外壁の焦げのみ。

 「旧文化会館を守る会」は臨時の集まりを開き、夜回りの当番を増やすことを決めた。小田島さんの署名簿の隣に、当番表が貼られた。常盤さんの見回りは、心なしか一周あたりの時間が長くなった。


 美晴との間で開催予定だった「鍋の話を聞く会」は、開始三十秒で「ボヤの話を聞く会」に議題変更された。美晴は会館の三階の住人として、当事者の声をしていた。

「うち、機材あるんだよね。アンプとか。それが燃えちゃったら弁償とかのレベルじゃないの」

「まあボヤで済んでよかった。外壁の焦げだけ」

「うん。……ねえ、葛西くんは見たんでしょ、現場」

「消えたあとだけど」

「怖かった?」

「怖かったよ」嘘をついても仕方がない。俺は正直に言った。角を曲がって赤色灯が見えた瞬間、三階のことを考えた、と。


 美晴はたこ焼きを一個、珍しく冷めるまで待ってから食べ、「ふうん」とだけ言った。それから、オンケンでも夜間の使用ルールが厳しくなったこと、最後に出る人が火の元当番表に判子を押す制度ができたことを話した。押すの私が一番多いんだよね、と少し笑った。オンボロ木造のあの箱を、上の階の人たちも、下の階の俺たちと同じくらい、家だと思っているのだった。

 それでも会館の日常は、焦げの匂いが抜けるのと同じ速度で、いつも通りに戻っていった。


  ※


 十一月の半ばから、稽古の最中、妙なものがちらつくようになった。相手と近く組んだとき、これまでも見えていた、相手の足元のリング——外接円——の内側に、さらに小さなリングが、薄く見えるのだ。半径は、外の円のちょうど半分くらい。遠間では見えないが、近間で組むと、ふっと浮かぶ。

 こういうとき、俺の相談先は、もはや一つに決まっていた。


 土曜の夜のサニーズ、窓際のいちばん奥。

 席に着いた瞬間、俺は理玖の顔の部品に、見慣れない情報を発見した。目の下が、暗い。クマだ。部品しか見えない俺の眼にも分かる、堂々たるクマだった。定規のようなオイラー線の光が、心なしか滲んでいる。

「理玖。お前、きちんと寝てるか」

「本題からどうぞ」

「とりあえず、お前が本題だよ。何日寝てない」

「連続でってことなら、三日かな」理玖はメロンソーダを混ぜながら、悪びれずに言った。「お前のせいだからな、いくらかは」

 聞けば、こういうことだった。合宿のシムソン線の一件以来、理玖は俺の眼の「検証項目リスト」を作り始めたのだという。俺の眼が本当に幾何を映しているなら、確かめられるはずのことが次々に湧いてくる。

 たとえば、下手な手描きの丸にも点が灯るというが、どこまで下手にしていいのか。また、円を潰して楕円にしたらどうなるのか。楕円には焦点が二つあるから、やがて中心は二つに割れるのか——項目は現在、四十一個あるらしい。夜、布団に入ると次の項目を思いつき、起きてノートに書く。書くと、また次のが来る。

「数学者ってのは、未解決問題の隣では眠れない生き物なんだ。そして、お前なんか未解決問題が服を着て歩いてるみたいなもんだ。隣なんかに住みやがって」

「隣っていっても隣の町じゃないか……寝ろよ」

「眠るために来たんだよ。今夜を済ませれば、四十一個のうち十二個が片付くかも知れない。さもなくば増えるか」

 試しにリストを見せてもらった。几帳面な字で、項目が番号つきで並んでいた。

 7:円の真円度の下限(手描きの円はどこまで歪むと消灯するか)

 13:双子は光で区別可能か(要・双子)

 21:葛西は水面の月(円)に点を見るか(要・満月と池)

 34:犬に七つの光はあるか(葛西は犬の顔が分かるという。では犬の三角形は見えるか)


「……34は、すごく気になるな。俺も」

「そうだろ。ぜひ犬を飼え」

「飼わないよ。21の『要・満月と池』ってのはなんだ。風流か」

「実験計画だ」

 片付くか、増える。研究というのはそういうものらしい。


 俺も観察報告を済ませることにした。理玖は四色ボールペンを出し、紙ナプキンを広げた。

 近間に浮かぶ、半径の小さなリングのこと。それを説明し終えると、理玖のペンが止まった。クマの上にある、目の部品が据わった。

「半径、半分って言ったな。確かか」

「目測だけど、だいたい」

「……よし。今夜の講義は予定変更だ。いずれは、()()()の話をするつもりだったが、お前が先に見つけてるなら、話が早い」


  ※


「九点円、という円がある」

 理玖は黒インクで三角形を描き、続けて、目にも留まらぬ速さで点を打ち始めた。

「三角形には、由緒正しい点が九つある。三辺の中点で三つ。三つの頂点から下ろした垂線の足で三つ。それと、三頂点と垂心を結ぶ線の真ん中で三つ。種類の違う点が、三つずつ、三家族で九つ。これらは、同じ一つの円の上に乗る」

 赤インクで、円がふわりと描かれた。九つの点が一つの円周に、綺麗に串刺しになる。

「乗るのか。九個も」

「乗る。どんな三角形でも、例外なく。しかもこの円は、性質(たち)が良すぎる。中心はオイラー線の上で、外心と垂心のちょうど真ん中だ。そして半径は外接円の、きっかり半分」

 半分。俺の目測が、二百年前の定理と、答え合わせを済ませた。

「ここからが本題だ。フォイエルバッハの定理。俺が人類の発見の中で——ええっと」

「三番目に美しいのはモーリーの定理だろ」

「じゃあこれは四番目だ。いいか。三角形の内側には、三辺にぴったり接する内接円がある。外側には、傍接円が三つ。内接円と傍接円は、いわば住む世界が違う。よそはよそ、うちはうち。互いに出会うことはない。ところがだ」

 理玖は青インクで、九点円と内接円が触れ合う点に、印をつけた。

「九点円は、内接円に接する。のみならず、三つの傍接円の全部にも、接するんだ。合計四つの円に、そっと触れてる。内の世界と外の世界、その両方に触れるのはこいつだけだ。フォイエルバッハがこれを証明したのは二百年前。証明を初めて読んだ日、俺は夕飯を食い忘れた」

「食い忘れるほどか」

「食い忘れるほどだ。考えてみろ。内と外で永遠に没交渉のはずの四つの円。それに、たった一つの円が律儀に一点ずつ挨拶回りをしているんだぞ。しかもその円の中心はオイラー線の上で、半径は外接円の半分。三角形の中で、こいつだけが全部の円と顔見知りなんだ。……俺はこの定理のことを考えるたび、なんというか」

 理玖はしばらく言葉を探したが、ついに諦めたように言った。

「とても感じがいい、と思う」

 数学科の語彙の最終兵器が「とても感じがいい」だった。だが分かる気がした。九点円は、誰とでも接するのに、誰の縄張りも侵さないのだから。

「関所みたいだな」と、俺は言った。「この円の上を通れば、内側の円に入ることも、外側の円に出ることもできる」

「関所か。その喩えは悪くない。接点は四つだから、門が四つある関所だ」

 門が四つある関所。俺は自分の指先を見た。近間で浮かぶ、あの小さなリング。あれが本当に九点円なら、円上には、相手の「内」と「外」が触れ合う点が、四つ、あるはずだった。


  ※


 その夜の締めに、理玖は新しい紙ナプキンを一枚使って、俺の眼の「配置図」を作った。四十一項目の検証の、手始めだという。

 人が立っている図を描き、体に重なる情報を左に、床に降りる情報を右に、几帳面に仕分けていく。七つの光——これは体。外接円のリングと、シムソン線のレールと、今回の小さいリング——これは床。

「整理すると、こうだ。人物を読む情報は体に出る。技に使う情報は床に出る。肖像は正面、作図は水平」

「……なんでこんな都合よく分かれているんだろう。おかげで便利だけど」

「分からない。保留の棚の、一番いい場所に置いとこう」

 配置図のついでに、理玖は項目の一つを消化した。「2:自分の光は見えるか」。俺は首を振った。見下ろした自分の胸にも、突き出した自分の腕にも、()いたことは一度もない。鏡が駄目なのは、最初から知っている——鏡は、俺だけでなく、誰の光も映さない。

 写真と動画も試した。結果、どちらにも、誰の光も、映らなかった。

 光は、生の相手をじかに見たときしか浮かばないらしい。つまり、俺には自分の光をみることはできないが、それが単に「自分の全身を目におさめられないから」なのか、それとも「対象が自分自身だから」なのか——切り分ける方法が存在しないことになった。理玖は珍しく、すぐには何も書かなかった。

「……ともかく、自分の中心だけは見えないのか」

「そういう仕様みたいだ」

「不便だな」

「慣れた」

 理玖は項目の「2」の横に小さく「未解決。重要」と書き足した。そして配置図のナプキンを、モーリーのやつと同じように四つ折りにして、ポケットにしまった。この男のポケットには、俺の眼の地図が少しずつ溜まっていく。

 会計は例によって一円単位の割り勘だった。店を出る前に、俺はもう一度だけ言った。

「今夜は眠れよ」

「十二個片付いた。六個増えたが。差し引き六個ぶんは眠れそうだ」

 数学者の睡眠は、引き算でできているらしい。


  ※


 翌週の稽古で、俺はフォイエルバッハの円を試すこととした。

 相手は宮下主将。近間に入る。小さなリングが浮かぶ。目を凝らす。リングの上に、他より少し明るい点が、四つ。内接円側に一つ、傍接円側に三つ。これが関所の門だ。

 一本目は、失敗した。手近な門へ強引に腕を通そうとして、主将にあっさり踏ん張られた。門は、押し込むための場所ではないらしい。二本目も失敗。門の位置ばかり見て、足が留守になってしまった。円の上に立っていなければ、門も門の仕事をしない。関所は、正しい街道から来た者だけを通すのだ。

 三本目の前に、俺は一度、呼吸を整えた。考えてみれば、高架下の夜からずっと、俺の技は根っこのところで「射る」技だった。点を見つけ、狙い、放つ。傍心へ射る。門へ射る。対象が点である限り、俺は弓兵だった。だが門は的じゃない。門は、通るためにあるのだ。

 三本目。円に乗る。足を先に済ませて、それから、主将の腕を、いちばん近い門へ——押さずに、ただ、通り道として貸すイメージで導いた。通した先は、もう考えなかった。すると、どうだろう。門を潜った力は、リングに沿って勝手に流れていくようだった。丸太のような主将の、膝が畳に触れ、体が音もなく横たわった。

 投げた、という手応えがなかった。

 実際、俺は何も放っていない。関所を通しただけだ。高いところの水が低いところへ流れるのを、門を開けて、見ていただけだ。

「今の技」と、いつの間にか隣にいた八雲さんが言った。「今までの君のは、矢だった。点を狙って、射る。……だが今日のは、水だな」

「水、ですか」

「狙いがない。矢は射るものの腕次第で外れることがあるが、水が低い方に流れるのは法則だ。法則は外れることはない。やわらかい技になったな」八雲さんはそこで、珍しく少しだけ間を置いた。「ただし、覚えておくといい。水は、器の形しか知らない。器が読めない相手には、水も流れる先を失う」

 そのときの俺は、前半分だけを聞いていた。後半は、半分も耳に入っていない。

 矢から水へ。そして、やわらかい技になった、という八雲さんの評——悪い気がしない、どころではなかった。

 帰り道の俺の足取りを、正確に報告する義務があるなら、こう書くしかない。浮かれていた、と。

 浮かれの証拠は、その週の人名鑑に残っている。そのころから「投げられ日記」は「投げ日記」に変化し、記述が急に理屈っぽくなっている。「門は押すな、貸せ」「水に狙いは要らない」「関所は街道から」。

 どれも間違ってはいない。間違ってはいないが、書き手の鼻息が、行間から妙に荒い。

 一年間、投げられ日記で「今日も十四回」と数えていた男が、急にいっぱしの流儀書きを始めていた。

 九点円。四つの門。水の技。答案を白紙で出し続けていた男が、いまや答案の余白に別解まで書いているようなものだ。

 その後からしばらく、俺は人生で、いちばん調子に乗っていた。

 そんな俺が、八雲さんの言葉の後ろ半分を思い出すのは、もう少し先の話になる——水は、器の形しか知らない、と。

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