中の人
十月の木曜、四限が休講になった。
掲示板の前でそれを見つけたときの喜びを、どう説明したものか。
大学生にとって休講というのは、あたかも天与の午後である。
俺は迷わず商店街へ向かった。人生の選択は、天気と小腹の減り具合で決まる。
汐見銀座は、いつもと違う顔をしていた。
アーケードの端から端まで紅葉柄の吹き流しがぶら下がり、「秋の大市」と染め抜かれた幟が立っている。三色パン屋の前では福引の抽選器が景気よく鳴っていた。
三つ目の角の、袖看板の落ちた跡だけは痛々しく、そっちの方だけはあまり見ないようにして歩いた。
さて、蛸八まであと少しというところである。俺は足を止めた。
鮮魚店と眼鏡屋のあいだの狭いスペースに、例の白くて丸っこい着ぐるみが一体、突っ立っていた。魚のような、団子のような、かわいいような、そうでもないような。
先月、理玖と歩いたときにも同じ場所に立っていたやつで、俺の部屋のタンスには、こいつの顔が刷ってあるTシャツが一枚ある。
名前は、たしか、しおみん。
だが今日は、そんな話ではなかった。
俺が足を止めたのは、着ぐるみの内側に、見覚えのある三角形が立っていたからだ。
風を受けた若枝のような、あのしなり方を、俺は一人分しか知らない。
通り過ぎるという手もあったが、悪戯っ気のほうが勝った。
俺は着ぐるみの方へ歩を進めた。
思えばあのころ、人名鑑の遠野美晴のページには三行しか書いていなかった。
今は二十行ある。二十行あれば、着ぐるみ一枚くらい、透けてみえる。
着ぐるみがポケットティッシュを差し出してきた。
俺はそれを受け取りながら、言った。
「遠野さん、ここでバイトだったんだ」
※
多少は驚くだろう、とは思っていた。
何しろ着ぐるみだ。声も出さないし顔も見えないのに、いきなり名前を呼ばれるのだから。
だが、現実はその想定を追い越していった。
まず、着ぐるみの中の三角形が、びくんと跳ねた。いつもの、肩のそばの「ぴょこり」とは比べものにならない。七つの光が、がちゃがちゃと震えた。
着ぐるみは頑丈そうだが、中の光に防御力はなかった。驚かせるつもりではいたが、これは少し、驚かせすぎたらしい。
抱えていた束から風船が一つ、二つ、結び目からするりと逃げて、秋晴れの空へ上っていった。着ぐるみはそれを目で追う余裕もなかった。上昇する風船をアタフタと追いかけて、その場でくるくると、変な円を描くように回転していた。
近くにいた子どもが「しおみん、踊ってる!」と笑った。
着ぐるみは、しばらく回転を続けたあと、ようやく我に返ったように、震える手で残りのティッシュを通行人に押し付け始めた。
おお、プロだと俺は思った。配り方が、ちょっと雑になったような気がしないでもないが、動揺しても、仕事はやり遂げる。俺はそれ以上声をかけず、少し離れたベンチで時間を潰すことにした。
十分ほどして、シフトが交代したらしい。裏手から私服に着替えた遠野美晴が出てきた。その顔が、全体としてどんな表情を作っているのかは、いつも通り、俺には分からない。だがパーツを見ると、耳がすこし赤いような。
「……葛西くん」声が、少しかすれていた。「今の、ずるくない?」
「ずるいって、何が」
「普通、分かんないでしょ、これ。ケイもナっちゃんも、中身が入れ替わったの、一回も当てたことないんだから」
聞けば、この着ぐるみは音楽研究会の三人——美晴、ケイさん、ナっちゃん——で交代しているものらしい。一時間ごとにシフトを回し、交代は裏の段ボールの陰でバトンタッチ。関係者でさえ、誰が入っているかは腕に巻いた輪ゴムの本数で見分けているという。
三人で機材の更新資金を貯めているそうで、美晴の狙いは、新しいベースだという。
「当人同士でも輪ゴムの本数よ? なんで分かったの」
「うーん、まあ、雰囲気?」
「雰囲気で分かるわけないでしょ! 着ぐるみだよ?」
いつもの「雰囲気で」が、今日はまるで通らなかった。まあ、当然だと思う。
シフトはちょうどそこで終わりで、次はナっちゃんの番だという。「お腹すいた。奢って、とは言わないけど、一緒に食べるくらいはいいでしょ」と美晴が言うので、俺に否やがあるわけもなかった。
※
蛸八の前に、二人で並んだ。
「大将、十二個で」
「六個ください」
ねじり鉢巻きが一度うなずき、千枚通しが二回、閃いた。
商店街のベンチに並んで座って、それぞれの紙舟を膝に置いた。
「あちっ」と美晴。
「冷まして食いなよ」と俺は言った。
「熱いうちが美味しいんだから」
「三十秒待てば火傷しないだろ」
「そうしたらもう、別の食べ物なの」
美晴は二個目にも同じ速度で挑み、同じ結果になった。
学習という概念について、この人と一度、話しあう必要があるかもしれない。
そのとき、俺は笑っていた。
書いておくが、これは大した事件である。
この二か月、俺の笑いは常に半拍遅れていた。相手の笑い声を聞いて、それを確認してから笑う。返事としては正しいが、反応としては遅い。だから俺は、学食で、彼女の光が跳ねるのを合図に口の端を上げるという小細工を覚えた。計算で笑う、という芸当を。
だが今のは、計算ではなかった。舌を出した美晴を見て、勝手に口の端が上がっていた。光がどうとか、〇・五秒がどうとか、考える暇もなく。
佐伯先生が言っていた。文法はね、考えなくなったときに、初めて身についたと言うんですよ。
なるほど、と俺は思った。遠野美晴と笑いながらする会話は、だんだん俺の言語になりつつあるらしい。
「葛西くんは、よく待てるよね」
「冷めても味は同じだから」
「同じじゃないよ。熱いは味のうちだもん」
「火傷は味のうちなの?」
「火傷は……授業料かな」
それから、三個目に息を吹きかけながら、美晴はこう言った。
「そういえばさ。葛西くん、こないだ、この商店街にいたでしょ」
「こないだって」
「台風の次の日。友達と二人で」
俺は口を開けたまま、少し固まった。台風の次の日。それは、あの看板が落ちた日である。
「なんで知ってるんだ」
「あそこですれ違ったから」
美晴は、たこ焼きを持っていないほうの手で、鮮魚店と眼鏡屋のあいだを指さした。
「まさか、あの日も、あの着ぐるみの中にいたのか」俺はやっと気づいた。
「ふっふっふ。実はそうなのでした」美晴は満足そうだった。
「着ぐるみってね、外はよく見えるの。目のとこ、メッシュだから。こっちが見えないだけで」
「知らなかった」
「今日、勝ったと思ったでしょ」
「思った」
「よしよし、これで一勝一敗です」と美晴は言った。
「ところで葛西くん、君は学食で言いましたね。しおみん、あんまり可愛くないって」
「……言った」
「魚みたいなダンゴムシみたいな、って」
「ダンゴムシではなくダンゴだが、まあ言った」
美晴は、たこ焼きの串で、鮮魚店と眼鏡屋のあいだを、もう一度だけ指した。
「中の人は、けっこう気に入ってるんだけどな」
俺は返す言葉を探して、見つけられなかった。
「……たこ焼き、ひとつあげるから許してくれないか」
「では、それで手を打ってあげましょう」
美晴は俺の紙舟から、ひょいっと一つ奪っていった。
「あ、こっちは食べやすい」
「だから言っただろ」
※
それから、美晴は四個目を持ったまま、少し声を落とした。
「あの日さ。私、二時であがったんだよね」
「二時」
「ケイと交代して、部室行って、そのまま帰った」
二時。看板が落ちたのは、その一時間ほどあとだ。
「じゃあ、落ちたのは見てないのか」
「見てない」美晴はそこで、少し黙った。「次の日、ケイに言われたの。あんたが帰ったあと、すごかったんだよって。それで新聞見たら、葛西くんの名前が載ってて」
彼女はたこ焼きをもぐもぐとゆっくり食べ、串の先を、紙舟の縁でそろえた。
「葛西くんって、自分からは言わないんだね、そういうこと」
「言うほどのことでもないだろ」
「あるでしょ、絶対」
「学食で話しただろ」
「話したのは私からだったでしょ。葛西くんは、Tシャツの話にした」
その通りだった。
「あのとき、かすり傷って言ったよね。見せて」
「もう治ったよ」
「見せて」
俺は袖をまくらされた。腕にかさぶたの剥がれた跡が、薄いピンクで残っていた。
美晴はしばらくそれを見つめた。
指が、傷跡には触れずに、二センチほど手前で止まった。
触るか触らないかを迷い、迷ったまま引っ込めた。
それから、何事もなかったように五個目に取りかかった。




