言ったら、今のが終わっちゃう
たこ焼きを食べ終わったあと、俺は財布から封筒を出した。
「それ何」と美晴。
「商店街の共通券。三千円ぶん。ツバメ古書堂のおばあさんから」
「なんで? そこと知り合いなの?」
「その、看板の日にもらったんだ……なんとなくかな」
「なんとなくで三千円くれる本屋さん、こわいんだけど」と美晴は言った。「でも、面白そう。行ってみよ?」
二人で古書堂へ行くことになった。
またおいで、とだけ言われて渡された券である。
三週間、机の上と財布の中で、寝かせっぱなしだった。使い道が決まらなかったというより――
使ってしまうと、あの日が終わるような気がしていたのかもしれない。
※
ツバメ古書店は、汐見銀座でいちばん狭い店である。
二人並んで入ると、もう肩が擦れる。女の子と入るには悪くない店である。
棚は天井まであって、通路は本の壁だ。
「うわ、すごい」美晴が声を落とした。「なんで小声になっちゃうんだろ、こういう店」
「図書館じゃないんだから、普通に喋っていいと思うぞ」
「無理でしょ、この密度。本が上から迫ってくるみたい」
だが店の奥に進むと、俺も言葉を失くした。
棚が、光っていたのだ。
開かれて平積みになった本や、函から出されて並べられた図版の本——そのページの中の図形が、律儀に光を点している。丸には一つ、四角には一つ。数学の棚に来ると、そこだけ密度が違った。三角形の図版が、一ページに三つも四つも刷ってあって、そのすべてが七つずつ灯っている。
汐見大の図書館でも、同じものは見た。だがあそこで光るのは、俺が開いた一冊だけだ。めくれば点いて、閉じれば消える。夜景の写真集を、一ページずつ眺めているようなものだった。
ここでは、俺が一冊も開かなくとも光は勝手に点いている。しかも通路は肩幅しかなくて、下がる場所がない。
写真集を眺めているなんてもんじゃない。
夜景の中空に浮かんでいるみたいだ。
「葛西くん」
「ん」
「そこ、なんの棚?」
「……数学」
「ふうん」
美晴は俺の視線の先を、しばらく見ていた。
彼女の目には、きっとただの古い背表紙が並んでいるだけなのだろう。
「数学、得意なの」
「いや」
「じゃあ、なんで数学のとこでそんな顔してるの」
「そんな顔って」
「……水族館の子どもみたいな顔」
俺は美晴を見た。
美晴の周りに浮かんだ七つも、このきらきらした夜景の一部のように見えた。
※
結局、二冊買った。
俺が選んだのは、幾何学の古い本だ。函から抜くと、背に『初等幾何学』とある。奥付は、俺の親どころか祖父より年上だった。八百円。
「これ、読めるの?」
「たぶん読んでもほとんど分からない」
「じゃあ、なんで買うの」
「図が綺麗だから」
「図が……きれい、なのかなあ」
美晴は俺の手元を覗き込んだ。
ページの上では三角形が七つずつ光っていた。俺にだけ。
美晴が選んだのは、小説の文庫だった。三百円。
「私はこれ。表紙が好きだから」
「どんな話?」
「知らない」
「知らないの」
「表紙が好きなら、だいたい合ってるの」
俺の「図が綺麗だから」と似たようなものであった。
「あと、これも」
美晴はもう一冊、棚から抜いて、俺の胸に押し付けた。
古い文庫だった。背に『シラノ・ド・ベルジュラック』とある。名前だけは、どこかで聞いたことがある気がした。
「なんだこれ」
「葛西くんの。三千円あるでしょ」
「なんでだよ」
「美晴さんの推薦図書です」
「どういう話なんだ、これ」
「シラノはね、頭がよくて、詩がうまくて、剣もめちゃくちゃ強いの。一人で、百人とか相手にできちゃう」
「おー」
「でもね、鼻がおっきいの。すごく。で、本人がそれを、ものすごく気にしてて、好きな人がいるんだけど、絶対に言わないって決めてるんだ」
「なんで」
「顔で笑われるのが分かってるから」
美晴は棚に背を預けた。狭い通路だ。それだけで距離が近くなった。
「そこにもう一人、男の子が出てくるの。すごく格好いいんだけど、口下手で、手紙も書けない。で、同じ人を好きなの」
「……なんだか嫌な話になってきたな」
「シラノはね、その子のために、その男の子のふりをして、代わりに手紙を書いてあげた。何年も。自分の言葉で、自分の好きな人に」
俺は、手の中の文庫を見た。
「それで、どうなるんだ」
「最後はバレちゃう。……もう、どうしようもなくなってから」
「なんで言わないんだ、そいつ」
「え?」
「手紙が書けるなら、自分の名前で書けばいいだろ。何年もあったんなら、一回くらい」
「……うん。まあ、そうなんだけどね」と美晴は言いながら、レジの方を向いてしまった。「言ったら、今のが終わっちゃうからじゃないかな」
※
レジは、店先の丸椅子の横にあった。
「おや」おばあさんが顔を上げた。「券、使ってくれたね」
「はい。せっかくだから、ここでと思って」
「連れがおるのは珍しいね。この前は、南さんの連れだったが」
「友達です」と美晴が言った。「同じ大学です」
「そう。ええ本は見つかったかい」
「はい。表紙が素敵な本は、多分いい本だと思うので」
おばあさんは、「この子はいいことを言う子だね」となぜか俺の方をみた。
「さっきの商品券、ここで貰ったって葛西くんが言ってたんですけど、どうしてなんですか」と美晴は、ずばり質問した。
おばあさんは、俺たちの本を袋に入れながら、のんびり言った。
「こないだ、あそこの看板が落ちたのを知っとるかい。あの日、この子はあそこでずっと立っとったんだよ」
美晴の、財布を出しかけた手が、止まった。
「立ってた?」
おばあさんは丸椅子に座り直した。「看板が落ちる前にね、この子はあそこに三十分立っとったんだよ。落ちるから通るな、通るなと言うてね」
「……三十分」
「わしは店先から見とった。誰も本気にせんかったよ。乾物屋のとこの主人には、うちの前に立つなと叱られとったし」
「叱られたんだ」
「うーん。まあ、叱られた」と俺は仕方なく言った。「まあ、あれは向こうの言い分も正しいから」
美晴は、俺のほうを向いた。
顔は分からない。若枝のようにしなる三角形が、風を失ったように、ぴたりと止まっていた。肩のそばの光も跳ねなかった。
「新聞は、その辺のことは書きゃあせん」おばあさんは袋を差し出した。「この子がおらなんだら、子どもは大けがでは済まなんだよ。その心づけさ」
俺は、何と言っていいのか分からず、正直、困っていた。
学食での会話があったからだ。
この人は俺に「咄嗟にそんなの、できないよ、普通」と言った。
まったくそのとおりだと思う。咄嗟にできる人間なんて、そういない。
俺にできたのは、それが咄嗟ではなかったからだ。
だが俺はそのことを美晴に伏せて、褒められるがままでいることにしたのだ。
その前提が、今おばあさんにより、くつがえされてしまった。
しかも困るのは、止まった三角形をどう読めばいいのか分からないことだった。
驚いているのか、呆れているのか。
光は見えている。だが、意味まではどこにも点っていなかった。
おばあさんは、黙っている俺と、黙っている美晴とを、丸椅子から順番に見た。
「ありゃ……これは、言っちゃいけなかったやつかね」
「いえ」
答えたのは、美晴だった。
「聞けてよかったです。ありがとうございます」
いつもの、よく通る声だった。教室のいちばん後ろまで届く、あの声。
だがやはり、光は動かないままだった。
※
店を出て、しばらく、美晴は黙って歩いていた。
光も、相変わらず沈黙。こうなると、顔が分からない俺には、彼女がどうして黙っているのか当てるのは難しかった。
駅前を通ると、汐見シネマの前で足が緩んだ。
古風な小屋で、いまどき二本立てをやっている。
看板は手描きだ。古い活劇と、魚の群れが銀色の渦を巻いているドキュメンタリー。
「映画とか、観る?」と美晴は言った。
「観ることもあるよ」と俺は言った。少しほっとした。彼女の声には、不機嫌や怒りは含まれていなかった。
「二本立てっていいよね」 肩のそばの光が、跳ねかけた。
「ああ、一本目がだめでも二本目がある。保険つきの娯楽だよな」
跳ねかけた光は、しかし、上がりきらずにもとの位置へ戻ってしまった。
いま思うと、あれは誘われていたのである。俺はそれに気づかず、保険つきの娯楽ですね、と論評して、気の利いたふうなことを言ったつもりでいたのだ。ああ、あの日にかえって自分をぶん殴れたら――。
彼女は看板を三秒眺めて、「じゃ、わたし部室行くね」と歩き出した。
「ねえ、葛西くん」少し行ったところで、美晴が振り返った。
「ん?」
「どうして黙ってたの」
風が、吹き流しを鳴らして通った。
彼女の声は、責める調子でも、探る調子でもなかった。回り道のない、真っすぐな問い。
答えなら、自分でも分かっていた。
なぜ落ちると分かったのかを訊かれたら、俺には答えられなかったからだ。
でも、それは理由の半分でしかない。残り半分は、もっと単純だった。
あの日、学食で、この人はまっすぐな声で俺を褒めてくれた。俺は、その声を訂正したくなかったのだ。
嬉しかったからである。
けれど、それを真っすぐにいうことができなかった。
「ねえ、葛西くん」と美晴はまた言った。
「ん」と俺も、また言った。
「葛西くんには、何かが見えてるんじゃない?」
「……何かって、何が?」俺は一つ目の質問に答えず、二つ目の質問には、質問で返してしまった。
「分かんないけど。着ぐるみのこともそうだし。……あと、なんで三十分も立ってられたの」
「危ないと思って」
「そう思っただけの人は、そこで三十分立って警告したりしないよ」
返す言葉がなかった。
「私、訊けばよかったね」
「え」
「学食のとき。なんで分かったの、って」
美晴は、ふ、と口元を緩めた。肩のそばの光が、跳ねた。
俺はそれを見て、彼女が本当に微笑んだのだと知った。
「ま、いいか。ごめんね。困らせたかったんじゃないんだ。それじゃあね」
彼女は笑って手を振り、商店街のほうへ歩いていった。
しなる光の枝が人混みに紛れて見えなくなるまで、俺は突っ立っていた。
※
その夜、人名鑑の遠野美晴のページに、今日のことを書いた。
着ぐるみのこと。輪ゴムのこと。小説を表紙で選ぶこと。
最後に、迷ってから一行足した。
「跳ねかけて、やめることがある」
書きながら、気づいた。
このページだけ、光の記述より、光じゃない記述のほうが多い。
人名鑑としては記録の乱れだな、と俺は思った。
袋から『シラノ・ド・ベルジュラック』を出して、机の隅に置いた。
開いてみて、それが小説ではなく戯曲だと気づいた。ページの左端に、ずっと人物の名前が並んでいる。恋愛小説だと言っていたが、遠野美晴はたぶん、そういう区別をしない人なのだろう。
俺は今日、遠野美晴がした、いくつかの質問を思い出した。
もし彼女が「ま、いいか」と言って引かなかったら、俺は話していたかもしれない。
言ったら、今のが終わっちゃう――か。
俺は表紙を伏せて置いた。
いったい戯曲なんて、読む気になったりするものなんだろうか。




