薬と恋(前編)
十一月最後の月曜、俺は三十八度二分の熱を出した。
河川敷に二週間通った男の、当然の収支である。
講義を休み、稽古を休み、薬局で買った銀の総合感冒薬を、注意書き通りに飲んで寝た。
日本中で毎日起きている、ありふれた風邪の話だ。ここまでは。
翌朝、熱が下がり、うがいをしようと洗面所に立った。
鏡の中に、顔も知れぬ、いつもの男。
寝癖、太い眉、青白い顔色——の、部品。いつも通りの福笑い。
その部品が、突然、意味をなし始めた。目と眉、鼻と口が、ゆっくりと、視界の中で、一枚の絵に組み上がっていったのだ。福笑いのようにばらばらだったピースが、収まるべき場所に収まっていく。
三秒か、五秒か。気がつくと、鏡の中に顔があった。俺の顔だった。
一年と四か月ぶりに見る、葛西湊の顔。二十歳の俺は、十九歳の記憶の中の俺より、頬が削れて、目つきがすこし据わっていた。俺は洗面所で、たっぷり三分、自分と見つめ合った。触った。頬を引っ張った。鏡の中の顔も引っ張られた。
洗面所からどたばたと部屋に戻り、スマホの写真を遡った。事故の前の夏、江藤たちと撮った一枚。この約一年半、写真の顔も、バラバラな部品だった。それが今朝は、顔をしている。十九歳の葛西湊は、屈託なく笑い、頬にまだ丸みがあった。
なぜ急に顔が戻ったのか。俺は、昨夜飲んだ薬に思い至った。
※
原因は、一つしか思いつかなかった。銀のパッケージ。
俺は震える手で説明書きを読んだ。「相貌失認が治ります」とは、当然、どこにも書いていない。
頭のどこか冷静な部分が、理玖の口調を真似た。検証しよう。
まず、時計だ。丸い文字盤の、真ん中に——何も、なかった。
コップ。ない。五百円玉。ない。ノートに描いた三角形。点かない。窓の外、川向こうのガスタンク。ただの、丸いタンク。
顔が戻って、光が消えた。
俺は部屋の真ん中で、しばらく動けなかった。一年半、俺の世界はあの光で出来ていた。時計は一点、人間は七つ、世界はいちいち中心を申告してくる場所だった。それが今朝、全部、黙った。目で見る世界は、こんなに静かなものだったのか。
効果は、一錠でおよそ六時間。五時間五十分を過ぎたあたりで、顔の配置が意味を失う。入れ替わるように、時計やコップの真ん中に、ぽ、と点が灯る。分解と点灯はいつもワンセットだった。頭の中で、顔の組み立て係と、中心に旗を立てる係が、同じ机を取り合っているらしい。薬は、その席替えのスイッチなのだった。
二度目の六時間の途中で、俺はスマホで母さんの番号を出した。ビデオ通話のボタンを押しかけた。一年半見ていなかった母さんの顔が、いま押せば、見える。
だが、押さなかった。
理由を並べることはできる。急にビデオ通話なんかしたら、かえって心配をかけるんじゃないか。電話より、直に顔を見た方がいい。この現象がこれからも続くのか、様子をみたほうがいい。全部、それらしい理由だった。
だが、それらしい理由を三つ並べられるとき、人の本音は、隠れた四つ目に潜んでいる。
母さんにはちょっと言いにくいが、真っ先に見たい顔が、別にあったのだ。
※
水曜の夕方、俺は美晴にメッセージを送った。「たこ焼き、行かない?」。返信は三秒だった。
「急だね?」「いいよ。なにかあった?」
「病み上がりには、たこ焼きが効くと聞きまして」
「そんなの初めて聞いた。では試してみましょう」
シャワーを浴びて、一錠飲んで、蛸八に向かった。効き始めまで三十分。商店街に着く頃、時計屋の一点が消えた。
美晴は先に来ていた。振られた手の上に、跳ねる光は、なかった。代わりに——顔が、あった。ほとんど初めまして、の顔だった。
一年半、俺はこの人を、しなる若枝のようなオイラー線の光と、よく通る声と、跳ねる一点で識別してきた。左頬のえくぼは部品としては知っていたが、それがつけるアクセントを理解していなかった。組み上がった遠野美晴の顔は、想像の答え合わせとしては、半分当たりで、半分外れていた。
当たっていたのは、明るさ。外れていたのは——外れていたものを言葉にするのは、難しい。照れるのである。
「なに?顔になんかついてる?」
「……いや」
顔になんかついているのではない。顔が、ついているのだ。彼女が笑った。笑う〇・五秒前を、世界で一人だけ先に知っていた俺が、笑顔そのものは、初めて間近で見た。跳ねる光の答え。それは、こういう顔だったのか。これまで透かし読みしていた答案の正解が一度に開示され、俺は釣り銭を二回落とした。
「今日の葛西くん、へんだよ」と美晴は笑いながら言った。「目がきょろきょろしてる。落ち着きのない柴犬みたい」
「うん、柴犬なら知ってる」
「え、うん」
なにそれ、と美晴は言った。そんな顔で首を傾げるのを、初めて見た。
首を傾げると、えくぼの側の頬に髪がかかる、その表情を初めて知った。
一年半ぶんの「初めて」が、いっぺんに押し寄せてきた。六時間の予算の使い道として、これ以上のものを、俺は思いつかなかった。
十二個入りを一舟。六対六。彼女は一個目であちちと言い、俺は冷めるまで待った。
いつも通りの配分、けれど、いつも通りでない水曜。
彼女の顔は、たこ焼きで膨らんだままもぐもぐと動き、火傷すると眉が困ったように寄り、俺の中の美晴を、毎秒のように更新していく。
「葛西くんはさあ」と、三個目を冷ましながら美晴が言った。「ほんとに待つよね、毎回。えらいというか、なんというか」
「冷めても味は同じ理論です」
「それさあ、前から思ってたんだけど」彼女はたこ焼きに息を吹きかけて、こともなげに言った。「葛西くんは賢いんじゃなくて、臆病なんだよ」
「……臆病」
「そう。火傷しない代わりに、熱いのも食べてない。賢い人も、たまには火傷するもん」
彼女は四個目を熱いまま口に放り込み、案の定あちちと言った。賢さの実演としては疑問の残る手本だったが、反論はどこかへ沈んでいった。賢い人はたまには火傷する、か。へんな理屈だけど、面白いな。俺は五個目が冷めるのを待ってから口にほうった。
帰り際、五時間五十分が来た。薬の効果が切れる時間だ。商店街の出口で、彼女の顔が、ゆっくりと部品に戻っていく。えくぼが、口角が、目が、配置の文脈を失っていく。入れ替わりに、オイラー線の上で光が一つ、ぴょこ、と跳ねた。
「じゃあね、葛西くん」
「うん。……またね」
顔と光の引き継ぎの瞬間に、あの人は笑っていた。どっちの世界の遠野美晴も、笑っていた。それだけが、顔のある世界と、顔のない世界をいっしょに救ってくれる、ただ一つのものである気がした。
※
翌日は失敗だった。
浮かれた男の二日目は危ない。鼻が残っていて、木曜の昼、考えなしに一錠飲んだ。それを夕方の稽古の時間まで、忘れていた。道場の引き戸を開けて、俺は棒立ちになった。
全員に、顔があった。
宮下主将に、顔があった。思っていたより童顔だった。紺野さんに、顔があった。思っていたより目が大きかった。小田島さんに、顔があった。思っていた通りの、いい顔のおじいさんだった。入部以来、声と光とで識別してきた人々の顔が、初対面で並んでいた。そして、誰の体にも光がなかった。オイラー線も、外接円も。
その日の乱取りで、俺は日野に投げられた。
日野は十月入部の一年生だ。白帯で、受け身もまだ覚束ない。その日野の入り身が、見えなかった。正確には、見えてはいた。顔も、腕も、動きも、全部目に映っていた。だが傾ぎの予告も、床のレールも、門もない世界で、俺の体は、来た力にただ、遅れをとった。畳に落ちる瞬間、受け身だけが俺を守った。
「か、葛西先輩!?すみません、大丈夫ですか!?」
「……日野、いい入り身だった」
「え、あの、先輩、まだ風邪なんじゃ」
風邪ということにしてもらった。実際、半分は風邪だった。残りの半分を、俺は誰にも言えなかった。道場の隅で、八雲さんがこちらを見ていた。八雲さんの顔は、写真で見る武道家のように整っていて、そして俺には、その日の八雲さんの視線の意味が、光なしでは、読めなかった。
屈辱、という言葉の正しい使い所を、俺はこの日、覚えた。白帯に投げられたことじゃない。入部からの俺の、何割が借り物だったのか。その現実を突きつけられたことにだ。答案の見えない試験場で、俺の自前の点数は、白帯の入り身一本ぶんにさえ、届かなかった。
※
まともな人間なら、ここで薬をやめるかもしれないが、このときの俺は、まともではなかった。
金曜、講義のない午前に一錠飲んで、俺は「普通の日」というものを発明したのだ。
顔のある世界を、六時間だけ生きる日。
学食で、人の顔の海を見た。一年半ぶりの顔の群れである。
正直に言うと、情報の洪水だった。全員が、なんと顔で何かを喋っているのである。眉で、口角で、視線で。
だが一年半、七つの光と声だけで済ませてきた耳と目には、ちと圧が強すぎた。俺は三十分で顔の洪水に酔い、学食を出ることとなった。普通というのは、体力の要る営みだ。
それでも、俺は普通の日を続けた。月曜に一錠。水曜に一錠。稽古の日は、絶対に飲まない。この線引きだけは守った。講義で五味教授や佐伯先生の顔を初めて見て、俺は人名鑑に新しい欄を作った。「顔の答え合わせ」。一年半分の想像と、実物の照合である。五味先生は思っていたより眠そうな顔だった。佐伯先生は思った通りの静かな顔だった。そうやって、当たったり、外れたり、少し笑ったりした。
水曜には、汐見シネマの二本立てに入ってみた。
俺は映画というものを半分あきらめていたのだ。スクリーンの俳優も、当然、部品の集合だった。誰が誰やら分からない群像劇は苦行だし、恋愛映画は福笑い同士の口づけで、いまいち盛り上がらない。それが、この日は——顔が、演技をしていた。目じりが台詞より先に嘘をつき、口元の歪みが本音を漏らす。一本目の古い活劇で、俺は主役の顔の芝居に思わず鳥肌を立て、二本目に入る前の休憩で、保険つきの娯楽という美晴との会話を思い出した。要は外れだったのだが、表情つきで観られるだけで贅沢だった。
母さんの顔は、いつまでも「次の帰省」の側に、積まれたままだった。少し後ろめたいような気がしたが、理由を三つもつけたのが足枷になりすぎたのだ。
※
アパートに帰って、俺は銀のパッケージを机に置いた。
一シート、十二錠。使ったのが、七錠。残り、五錠。
財布の中身を確かめている自分に気づいた。次の一箱の値段、そして、お薬カレンダーの計画を、心が勝手に組み立てていく。
十二錠。蛸八のたこ焼きと、同じ数だった。




