傍心の夜
十月終わりの夜。コンビニからの帰り道のことである。
寒くなってきたが、レジ袋にはアイスが入っている。ふと降ってきた「風呂上がりのアイス」という響きに誘惑を覚えたからだが、問題は、そこまでが寒いことだった。
空いた右手をポケットへ突っ込んで、高架下へ入った。
不意に、線路脇の駐輪場から、男の声がした。
「じゃ、待っててあげるよ」
蛍光灯が一本、切れかけて、じじじと鳴っている。その下に、女の子が一人と、男が三人。
「大丈夫ですから」と女の子が答えた。
「一人で待つよりいいでしょ」と男。
会話だけを聞けば、親切を申し出る男と、それを遠慮する女の子である。だが、女の子が右へ出ようとすると一人が片足をずらし、左へ出ようとすると、もう一人がそちらへ回る。やっていることは、通せんぼである。三人目は少し離れ、自転車のサドルに腰を預けている。
「来なくていいって、連絡しますから」
「いや、だから、待ってあげるって」
女の子の声に聞き覚えがある気がしたが、確信がもてなかった。よく知っている声が、ふだんと違う高さで話している感じだ。
長い髪と、鞄の紐を握る手。男の肩越しに、それだけが見える。体に重なる三角形は男たちに隠れ、形を結ばなかった。
確かめるには、近づくしかなかった。
「すみません。遅くなって」と俺は言った。
三つの福笑いが、いっせいにこちらを向いた。
もし女の子が俺を「知らない」と言ったら、どうしようと思った。そこは事前に打ち合わせておきたかったが、打ち合わせに行くための台詞がさっきのだから、仕方がない。
「行こう」と俺は言った。
女の子は俺を見た。唇が少し開き、それから、一歩こちらへ出ようとした。
「知り合い?」
いちばん近くにいた男が訊いた。
「はい」
俺と女の子は、ほとんど同時に答えた。
うまくいった、と思った。
だが男たちのほうは、そう思わなかったらしい。しばらく、何かを待つように俺を見ている。
「通してくれませんか」
サドルの男が、短く笑った。
それを合図にしたように、目の前の男が顎を上げた。その三角形が、こちらへせり出した。
「お前さ。何なの、いきなり出てきて」
声が低くなり、腹の奥が、きゅっと縮んだ。
以前、人の怖さの九割は顔でできている、と俺は見積もった。だが、こうしてみると、残り一割にも、それなりの予算がついているらしい。
男が近づいてきた。酒の匂いがする。胸を前へ突き出すのといっしょに、靴の踵がわずかに浮いた。俺は一歩下がろうとして、自転車のペダルに足を当てた。がちゃ、と音がした。
その音を聞いて、男の口が動いた。何かしゃべった。
同時に、頭の上を電車が通った。何を言われたのかは、聞こえなかった。
男の右手が、俺の襟を掴んだ。
引かれる。喉にシャツが食い込み、ポケットから出した手が、男の手首に触れた。
その向こうに、一点の光があった。
男の体からはみ出して、俺と自転車のあいだの、何もない空間に浮いている。
その一点だけが、男の右斜め前で、定まらないように揺れていた。
そこなら、空いている。
右足が、斜めに出た。掴まれた襟を取り返す代わりに、掴んでいる手ごと、その点へ送った。
男の両足が、地面を離れた。
え、と俺は思った。
男は肩から落ち、自転車の列に背中をぶつけた。
何台ものハンドルが隣のハンドルを叩き、金属音が、走り去る電車の音を追いかけた。ドミノ倒しになった自転車のタイヤが上を向き、蛍光灯の灯りの中でからからと回った。
俺の右手には、もう何の重さも残っていなかった。
人間というのは、あんなに軽いものだったろうか。
いや、違う。
俺は投げたのではない。
俺が見たのは、傍心だった。
傍心は、外側で支える円の中心だ。体の外にあるのに、確かにその体の一部である三つの点。理玖は、外にいることが仕事なんだ、と言っていた。
どうやら俺は、あいつの体が落ちたがっている場所へ、掴んだ手を連れていったらしかった。
男は初めから、酒と怒りで前へ傾いていた。点は、嘘をつかない。顔は凄めても、傍心は凄めない。
「何やってんだ、おい!」
二人目が、横から俺の腕を掴んだ。強く引かれ、右の袖が肩まで引きつれた。
今度は見えた。こいつも怒りに任せて引きすぎている。膝は伸び、重心は踵のほうへ逃げていた。ご丁寧に傍心が一つ、本人の左後ろ、地面すれすれに沈んでいる。
一人目は、偶然だった。
二人目は、俺がやった。
相手がもう一度引こうとしたところで、こちらから半歩ついていき、触れていた腕を、低い一点へ導いた。
靴が砂利を削る音が。
男は尻から地面へ落ち、肘を打った。そのまま転がり、肘を押さえた。
俺の袖を掴んでいた手が外れた。
電車が去った。
急に、自分の息だけが、ひどく大きく聞こえた。
そこでようやく、女の子のほうをまともに見た。
風を受けた若枝のようにしなる三角形。
遠野美晴だった。
俺は駐輪場の奥を見た。
自転車のかごと、高架の柱のかげ。
あんな狭いところで、三人の男に囲まれていたのか。
俺には、男たちの顔は分からない。
だが美晴には、全部見えていたのだ。
凄む顔も、にやつく顔も。俺が見ずに済んだものを、全部。
美晴の脇で、自転車が一台、傾いていた。前かごに鞄の紐が引っかかっている。彼女が紐を外そうとすると、自転車までついてくる。
手を伸ばしかけたが、倒れてくるはずのハンドルが、途中で止まった。
「そのままで。引かなくていい」
不意に、低い、よく通る声がした。
背の高い男性が、自転車を片手で支えていた。
いつの間に現れたのか分からなかった。
その人は前かごから鞄の紐を外し、自転車を元の位置へ戻した。
「こちらへ出られるかな」
美晴が俺の隣へ来た。
サドルにいた三人目は、俺と、背の高い男性と、地面にいる二人とを順番に見た。
そして、自転車の列を回り込み、高架の向こうへ走って逃げた。
地面に座った男が、その背中に声を投げた。
「おい、待てよ」
が、待ってはもらえなかった。
※
背の高い男性は、俺たちを車道側の明るいところまで出すと、怪我がないかを確かめた。それから駐輪場へ戻り、倒れた二人にも同じことを訊いた。
「救急車は要るかい」
「ああ、くそっ。いらねえよ」
「そうか。歩けるなら、まずそこを空けよう。自転車を起こすから」
二人が何か言い返しても、その人は取り合わず、倒れた自転車を一台ずつ起こし始めた。男たちは、立ち上がると、先に逃げた一人と同じ方角へ歩いていった。
俺たちは、二人が曲がり角を過ぎるまで見届けた。
隣で、長い息が漏れた。
「葛西くん」
「……遠野さん」
「うん」
光は、まだ小さく震えていた。
「知り合いって言ってくれて、助かったよ」俺は言った。
美晴は俺を見た。
「知り合いでしょ」
「いや……そうなんだけど。そうだな」
何を言っているのだ、俺は。
「今の、何だったの。柔道? 合気道か何か?」
「うーん。幾何学かな」
「……幾何学」
俺にも、それ以上うまく説明できなかった。
自転車を起こすのを手伝おうと戻ると、最後の一台が立ったところだった。
「ありがとうございました」
「災難だったね。道路の向こうにいたんだが、大きな音がしたので」
近くで見て、俺は息を止めた。
この人の胸には、光が一つしか見えなかった。
「どうかしたかな」
「いえ」
俺は慌てて、その人の顔へ視線を戻した。
「君は、何か武道を?」
「やっていません」
「そうか。二人目のときは見ていたよ。あれは、誰に習ったんだろう」
俺は、自分の右手を見た。
「誰にも、習ってないです」
「本当に、独学なのかな」
「……独学です」嘘ではなかった。教科書は、図書館の地下二階にあった。ただ、その教科書に載っていたのは三角形の性質だ。
男の腕に触れた感触より、地面すれすれにあった光の位置のほうが、はっきり残っている。手の行き先が、先にあった。そこへ人間の腕を持っていくと何が起きるかは、どの本にも載っていない。俺自身、ついさっき知ったばかりである。
「私は八雲というんだ。汐見大学の合気道部で、師範代をしている」
「同じ大学です。経済学部一年の葛西です」
「葛西くん。合気道をやってみる気はないか」
俺はこの人の胸の光をもう一度見た。
一つ。そう見えた。
だがそうではなかった。四つある。ただ四つが、ほとんど一点に重なっていた。外の三つも、三方へまったく等しい距離で控えている。体を動かしても、その並びはほとんど乱れない。
正三角形だ。
生身の人間が、正三角形と同じ光を発している。
さっきの男たちには、体の外へ落ちかけている点があった。だがこの人の三つは、どれも同じように静かだった。どこへ導けばこの人が崩れるのか、まるで想像がつかない。
オイラー線は、ずれの記録だ、と理玖は言った。この人には、その記録がない。いや、なかったはずがないのだ。折れも傾きもあったに決まっている。
それを、修練で、この一点まで持ってきたというのか。
「考えておきます。前向きに」
考えるまでもなく、心は動いていたのだが、即答するには、いろいろありすぎた夜だった。
「稽古場は、旧文化会館の二階だ。商店街の外れの、木造三階建ての。土曜なら朝十時からいるよ」
「そこで音楽研究会やってるんです、私」と、美晴が言った。
「ああ、三階の。北側の階段を上がってすぐだ。上り下りするたびに鳴く階段だから、迷わない」
「鳴きますね、あれ」
美晴の声に、少し、いつもの調子が戻った。
八雲さんは俺たちの帰る方向を確かめた。家まで送ると俺が言うと、一つ頷き、布の鞄を持って歩いていった。足音はほとんどしなかった。肩越しに見える三つの光も、等しい距離を保ったままだった。
※
高架を離れると、美晴はよく喋った。
音研の練習が長引いたこと。帰ろうとしたらケイさんが鍵をなくしたと言い出したこと。全員で床を探した挙句、扉に差しっぱなしだったこと。それから、三階の窓がちゃんと閉まらないこと。
声は、いつもより半音高かった。
やがて美晴は訊いた。
「ねえ。さっき、私が誰だか分からなかったの?」
「うん。でも知っている声のような気はしたんだ」
「気がしただけ?」
「うん」
「あー、葛西くんは、いつもそれだな」
美晴は夜空に向かって言った。
「いつもそれかな」
「うん。いつも、気がしたとか、何となくとか。違う人だったら、どうしてたの」
そこまで考えていなかった。
「どっちへ帰るのか訊いてたと思う」
美晴はしばらく黙って歩いた。
さっきまであれほど喋っていた人が急に静かになると、それはそれで心配になる。
やがて美晴は言った。
「あのときね、これから誰か来るって言えば、どいてくれるかと思ったの」
「うん」
「でも、そしたらいっしょに待つって言われて。通ろうとしても邪魔してくるし、どうしようってなって」
「うん」
「そしたら向こうから、すみません、遅くなって、でしょ……あの登場は、ちょっとずるいよ」
遅れて、実感が湧いてきた。
俺は、この人を助けたのだ。三人の男から。
さっきの出来事はどこか夢の中のようで、まるで自分の身に起きているのではないみたいだった。
それが今ごろ、じわりと、体の真ん中に降りてくる。助けた、という事実の、確かな重みと温かさが。この人が今、無事に隣を歩いているというだけで、俺は自分が誇らしかった。
隣を歩く三角形から、さっきまでの震えは消えていた。肩のそばの光は跳ねず、若枝のような揺れだけが戻っていた。
俺が歩調を少し緩めると、美晴も同じだけ緩めた。いつの間にか、二人のあいだは、いつもより半歩ぶん近くなっていた。いつもより近いことに、どちらも触れなかった。その距離感のまま、俺たちは角をもう一つ曲がった。
「助けてくれて、ありがと」
美晴は息を小さく吸った。
肩のそばの光が、今夜はじめて、ほんの少し跳ねた。
それから、笑った。
「だけど、幾何学って何」と彼女は言った。
「まあ、雰囲気で」と俺は答えた。
「……その手、いつまで使うの」
「使えるうちは使おうと」
「まあ、今日のところはいいけどね」美晴は頬をふくらませた。




