薬と恋(後編)
十二月に入る頃には、俺は二人になっていた。
光を見る俺と、顔を見る俺。稽古は光の方が生き、他の日は顔の方が生きる。
財布に、薬の銀色シートが定位置を占めた。
線引きは守っていた。稽古の日は飲まない。週三錠まで。もっとも報告書は、その体裁が整っているときほど中身を疑うべきものだとも言えるが。
顔の日の俺は、鏡の前が長い。寝癖を直し、眉を整え——まあ人並みのことをする。光の日の俺は三十秒で洗面所を出る。顔も分からないようなやつの身だしなみに、時間はかけられない。顔の日の俺は人混みにくると、人々の顔の圧に負けて俯きがちになり、光の日の俺は顔を上げて歩く。
顔の日のある昼、キャンパスで紺野さんとすれ違った。俺は反射的に会釈をした。顔で識別して、顔に向かって。
三歩過ぎてから、背中に声が来た。「……葛西、あんた今、私の顔見て挨拶したね」
「え」
「あんた、いつもは人の胸とか足元ばかり見てるのに……ふうん」
ふうん、だけ残して、彼女は行ってしまった。
俺は慌てた。名誉に関わる言い草である。誰かに聞かれてなかったか、思わず辺りを見回した。
いや、彼女の言ったことは、一応、事実ではあるのだが、あれでは、違う聞こえ方をしかねない。遠山の目付を、本格的に習得する必要がありそうだ。
※
理玖に打ち明けたのは、十二月最初の土曜だった。この現象を検証できる人間は、世界に一人だけだ。
俺は稽古のあと一錠飲んで、効き始めの三十分を歩いて潰して、サニーズの窓際の奥に着いた。
相貌失認になって以来、はじめて見る南理玖の顔は、思っていたより、まぶたが薄かった。そして目の下には、相変わらずうっすらとクマがあった。
「葛西。お前もしかして、俺の顔、見えてるのか。いま」
俺が席に着いて三秒で、理玖は言い当てた。
「……なんで分かった」
「お前が俺の顔を見たからだ。事故からこっち、お前の視線は俺の胸元と手元にしか来なかったんだが」
「やめてくれよ、お前まで」俺は紺野さんの言い草を思い出して、ちょっとげんなりした。「それにしてもお前、俺の記憶にある顔よりも、まぶた薄いな。あと、想像より顔が定規というか」。
理玖は「顔が定規とはどういう評価だ」と眉をハの字にした。それから、ふと真顔になって訊いた。「俺はいま、どんな顔してる」
俺は三秒観察して、正直に答えた。
「……寝てない顔だよ」
「そうか。まあ……知ってる」
知ってるなら寝ろ、というやり取りを済ませて、俺は全部話した。風邪薬のこと。六時間のこと。顔と光が席を替わること。白帯に投げられたこと。
理玖は四色ボールペンを出した。紙ナプキンに、顔の輪郭が描かれた。目、鼻、口。それから理玖は、部品と部品のあいだに、線を引き始めた。目と目の間隔。目から鼻への傾き。鼻から口への距離。顔が、三角形の集合に分解された。
「顔ってのはな、葛西。角度の束なんだ。人間が顔を見分けるとき、脳は部品の絵じゃなく、部品の位置関係を測ってる。目と目の距離、鼻筋の角度、輪郭の比率。つまり測量だ。……で、お前の脳は事故の日から、その測量器を顔に使うのをやめて、世界の幾何学に回してる。薬はたぶん、配線を一時的に元へ戻してる。顔が戻ると光が消えるのは、そういうわけだろう」
「風邪薬に、そんな効能があるのか」
「あるわけない」即答だった。「言っておくが、市販の感冒薬が相貌失認に効くなんて話は、薬理学のどこにも載ってないはずだ。あっていいはずがない。効いてるのは薬の主作用じゃなく副作用だ。それが、お前の脳の特異的な配線に、特異的に引っかかってる。つまり今のお前は、二重の例外の上に立ってるんだ」
理玖はメロンソーダを一口すすり、炭酸の泡をストローでつついてから続けた。
「で、その配線のスイッチを、市販薬で週三回、切り替えさせてるわけだ、お前は。計器ってのはな、切り替えのたびに摩耗する可能性を、常に検討すべき対象だ。無事で済む保証を、お前はどこかで確認したのか」
「……してない」
「まあ、そうだろう。お前みたいな例外的なケース、いきなり保証なんかできるはずがない。まずはデータを揃えろ。頻度を書け。日付、錠数、効き始めと切れ際の時刻、切れ際の見え方の変化。全部記録しろ。データがなければ、劣化が始まっても気づけない。そして」理玖はペンを納めた。「減らせ」
数学者は誠実な生き物だった。俺は頷いた。頷いてから、ずっと喉に引っかかっていたものを、口に出した。
「俺はさいきん、自分が二人いるような気がしてきたよ。顔のときと、光のとき、どっちが本物の俺だろうって、時々考える」
理玖は三秒の長考をして、答える代わりに図形を二つ描いた。円と楕円。
「円の中心は一個だ。で、こっちの楕円には、焦点が二つある。二つの焦点からの距離の和が一定な点の集まり、それが楕円だ。地球の公転の軌道は楕円で、太陽はその焦点の片方に——」
「待てよ。いったい何の話をしてるんだ?」
「図形の話だよ」理玖はメロンソーダを一口飲んだ。「中心が一個じゃなきゃいけないなんて、誰が決めた」
「そういうことか」と俺はいった。「理玖、俺は時々、お前がすごくいいやつに思える」
理玖は肩をすくめて「まあ、どっちだろうと、お前はお前だからな」といった。
※
十二月第一日曜、会館で守る会主催の「冬のつどい」があった。一階で市民サークルの発表、二階でうちの部の演武公開。俺は演武には出ない予定で、受付の手伝いだけだったから、朝、一錠飲んだ。商店街の人たちの顔を、見ておきたかった。蛸八の大将に、会館の常盤さん。イメージと実際の答え合わせは順調だった。
ところが、演武の三十分前に、日野が控え室で貧血を起こした。朝から緊張で何も食べていなかったらしい。だがプログラムには「基本技演武:小田島・日野組」とある。観客席には、守る会のお年寄りと商店街の面々が、もう座っている。
「葛西、頼めるか」と宮下主将が言った。「型は全部入ってるだろ、お前なら」
断る言い訳を、俺は三秒探した。薬の効果はあと三時間残っている。光のない畳の上で、観客たちの表情付きの公開演武。白帯に投げられたままの俺のまま。考えただけで、膝の裏が冷たくなった。
「……やります」
承諾したのは、俺なりの意地である。演武は十分間。今でも「人生でいちばん長かった十分間」の候補にランクインしている。光はない。レールも門もない。頼れるのは、一年余り、週三回、投げられながら体に入れた型の記憶だけだ。
畳の縁にて正座。緊張のせいか、青い畳の目が、妙に遠く見えた。光の日、俺の目にうつる床には、いつも誰かの外接円やシムソン線が描いてあった。何も描いていない床というのは、こんなに、ただの床なのか。ただの床の上で、みんなはずっと稽古をしてきたのか。
演武が始まった。正面打ち、入り身、転換。
俺の足は、思っていたより多くを覚えていた。だが、三本目の受けで半歩詰まった。まずい。だが小田島さんの手がほんのわずかに角度を変え、俺のずれは、あの配管六十年の手の中に、無言で吸収された。外からは、たぶん何も見えなかったと思う。
四本目の前、俺は探すのをやめた。床にはリングもレールもないのだ。ないものを探して床を見るから遅れる。組んだ接点からの圧だけに集中する。方向と、拍と、次の技の気配は、手のひら一枚ぶんの窓から、ずっと申告されていたのだ。図面がなければ、土に触ればいい。小田島さんが三十年かけてやったことの端っこを、追いかけるように。
それからの演武、上手かったとは言わない。二回遅れたし、一回力んだ。だが、もう詰まりはしなかった。そして受け身。締めの呼吸投げで、投げの弧を殺すことなく、俺は宙で伸びた。畳を叩く音が、広間にきれいに一つ鳴った。
拍手が来た。汗が顎から落ちた。十二月の道場で。
控え室で、小田島さんが湯呑みを持って、のんびり言った。
「途中から手が変わったねえ、だけども」
「分かりましたか」
「そりゃ分かるよう。探す手が、聴く手になったね」
「小田島さんが導いてくれてなかったら、あんなふうに開き直れませんでした」
「よくやったよ、葛西くん」
俺は一礼して、持ち場に戻った。
廊下で、八雲さんとすれ違った。すれ違いざま、一言だけ来た。
「後半、目で探すのをやめてからはよかった。手で聴いていたな」
それだけ言って、行ってしまった。顔の見える今日の俺にも、八雲さんの表情から読めたものは特にない。俺は受付の椅子で二人の言葉を反芻した。
小田島さんと八雲さんは、同じ評をくれた。聴く手になった、手で聴いていた、と。
一人だけからなら、褒め言葉だと思っただろう。だがこの二人に言われたなら、それはもう本当にあったことなのだ。受付の椅子で、俺は自分の手のひらを見つめた。そして静かに閉じて、握りしめた。
※
水曜の夜、美晴から写真つきのメッセージが来た。白いボディのベースが、スタンドに立っている。
「ついに買いました」「一年貯めました」「一括払いです!」「聴きに来る?」
木曜の夕方、講義帰りに三階へ上がった。薬は、飲んでいない。オンケンの部室は機材と埃の匂いがして、美晴は新しい相棒を膝に立てて待っていた。美晴の跳ねる一点が、今日は最初から、跳ねっぱなしだった。
「新しい子です。ローンなし。私の一年です」
アンプを小さく絞って、彼女は短いフレーズを弾いた。俺は光の側から、それを見ていた。弾き始めた瞬間、彼女の外の三つ——普段はゆるく漂っている三点が、拍の頭でそろって小さく明滅した。一拍ごとに。正確に。メトロノームだ。この人のリズムは、体の外側でも、光で時を刻んでいた。
「どう?」
「……かっこいいよ」
音の善し悪しは、正直分からない。分かったのは、弾いている遠野美晴の三角形が、内の点も外の点も、七つ全部で機嫌がいい、ということだけだ。そして、白いベースを斜に構え、俯き加減に弦をはじく美晴は、いつもの明るい女の子とは違う人に見えた。低い構えから低く確かな音を鳴らす、前のめりの真剣な屋台骨。
「今度、ちゃんとしたの聴かせるから。冬のライブで」
「行く」
即答した。即答できる約束が、一つ増えた。彼女は新しいベースをタオルでひと撫でしてからソフトケースに仕舞い、背負った。重そうだった。だがその重みまでもが、美晴の喜びに興を添えているようだった。
商店街の入口まで、一緒に歩いた。歩きながら、人名鑑の新しい一行を考えた。「演奏中、外の三点=メトロノーム。新しいベース、白。中身は彼女の一年」。背中のケースのぶん、彼女の縦四つはいつもより少し反っていて、それでも、いちばん上だけは、ずっと上機嫌に揺れていた。
※
水族館に行ったのは、その週の金曜だった。
言い出したのは美晴だ。「イワシのトルネード、今の時期が一番すごいらしいよ」
汐見水族館は海沿いの古い施設で、目玉は円柱型の大水槽のイワシの群泳だ。俺は午後の講義のあとに一錠飲んで、待ち合わせに行った。
大水槽の前に着くまでに、寄り道を三つした。美晴の水族館の歩き方は、一つの水槽の前で立ち止まる時間が長い。チンアナゴの水槽では「地面から生えたハテナマークじゃん」と言って五分動かず、ペンギンのプールでは一羽だけ泳がずに立っている個体を指さし「あの子、会議についていけないんだペン」と勝手なことを言った。クラゲの部屋は暗く、丸い傘のクラゲが照明に透けていた。
大水槽の前は、青い光で満ちていた。何万匹のイワシが、銀色の帯になって、円柱の中をゆっくり回っている。帯はほどけるように散って、また束になり、ときに渦を巻いた。美晴はガラスに額をよせて、竜巻のようなそれを、長いこと黙って見ていた。彼女がこんなに長く黙るのは珍しかった。俺は魚と彼女の横顔を、半々で見ていた。
「ねえ」と、やがて彼女が言った。「イワシって、誰がリーダーなんだろうね」
「リーダー?」
「うん。だってあれ、何万匹が一斉に曲がるんだよ?号令もないのに。先頭の子が決めてるのかな。それとも多数決?不思議じゃない?」
「……たしかに不思議だな」
本心から不思議だった。号令のない一斉。誰も決めていないのに、群れ全体が一つの生き物みたいに向きを変える。美晴は「イワシ総選挙」だの「イワシ議会」だの勝手な仮説を並べて笑い、話題はやがて閉館の音楽に流されていった。
出口へ向かう通路で、五時間五十分が来た。
彼女の顔が、部品にほどけていく。代わりに光が灯り始める。世界の引き継ぎの数秒——その途中で、俺は大水槽を振り返った。
渦を巻くイワシの群れの、真ん中の空洞に、何かが一瞬、灯った気がした。
一瞬だった。目を凝らしたときには、もう何もない。切れ際の目の、ただの残像だろうか。俺はそう処理して、処理したものを、癖で人名鑑の隅に書いた。「イワシの渦。中心に光……?気のせいか」
外に出ると、海風が冷たかった。美晴はマフラーに顎を埋めた。縦四つのいちばん上が、街灯の下で、機嫌よく揺れていた。
「今日、楽しかった」と彼女が言った。「葛西くん……」
「ん?」
「……ううん。なんでもない」
彼女はそれきり口をつぐんだ。
駅までの道を歩くとき、いつもより半歩分、距離が近い気がした。その半歩の意味を測る計器を、俺は持っていなかった。




