内緒ね
彼女の家の近くの角に着いた。
いつもなら、じゃあね、と手を振って別れる角である。
だが今夜、彼女は手を振らなかった。
「葛西くん」
「ん」
「ちょっと、屈んでくれる」
「屈む?」
俺は言われた通りにした。
何が起きたのか、俺には見えなかった。
唇に、柔らかいものが触れていた。
※
息の吸い方を、俺はしばらく忘れていた。
美晴の顔が俺から離れていくとき、伏せたまぶたの上に、まつ毛の束が見えた。
俺の顔をはさんでいた両手が離されて、ようやく何が起きたのか、俺は理解した。
「……ごめん」と美晴が言った。
「なんで謝るんだ」と俺はいったが、声がかすれてうまく出なかった。
「分かんない」
「……内緒ね」と彼女は言った。「今の、内緒」
「誰に」
「誰にも」
手を取ったのは、その直後だった。どうしてそうしたのか、自分でも分からない。
美晴の手は冷たかった。彼女は振りほどかなかった。
その代わり、体に重なる三角形が、小さく震えた。着ぐるみの中で見たものと、よく似た震え方だった。
同じ震えにも、あのときと今夜とでは、たぶん違う名前がつく。
そのまま、二人とも黙っていた。
心臓がきこえる。
黙っている時間が、少しずつ、耐えられない種類のものに変わっていく。
美晴の全身の力が抜けていくのが手を通して伝わってくる。重みが俺にゆだねられようとしているのを感じる。まぶたがもう一度、ゆっくり伏せられようとしていた。
※
そのとき、足元で、何かが鳴いた。
にゃー。
俺たちは同時に飛び退いた。塀の上に、猫が一匹ひらりと上がって、こちらを振り返った。心臓が飛び出るかと思った。急に現実に引き戻されて、危うく潜水病になるかと思った。
街灯の下で、白と黒の、雑な塗り分けが見えた。
おい、こら、と俺は思った。
あの夏、堤防の道で俺の前に飛び出してきたのも、白黒の猫だった。
同じ個体かどうかを判定する材料は、俺にはない。
人の顔も分からない男に、猫の見分けがつくはずもない。
だが俺には、そいつに一言申し上げたいことが、前々からあったのだ。
俺の自転車の前に飛び出してきた上、たこ焼きを盗み食いしようとし、今度はキスの邪魔をするとは、おのれ、重ね重ね折り入ってよくも!
結局、何も言えなかった。猫は塀の上を悠然と歩き、暗がりへ消えた。
「……びっくりした」と美晴が言った。声が、まだ整っていなかった。
「うん」
「じゃ、じゃあね、葛西くん」
彼女は走って、家のほうへ帰っていった。なにも走ることはないのに、と思った。
※
一人になって、五十メートルほど歩いたところで——手が、震え出した。
遅れて、膝も笑い始めた。高架下では笑わなかったくせに、今ごろだ。
どこまでが恐怖の後払いで、どこからが別のもののせいなのか、俺には仕分けができなかった。なにもかもが利子つきでやってきた気分だった。
俺は自販機の脇にしゃがんで、袋の中で完全に液体と化したアイスを、震える手で飲んだ。
部屋に帰って、そのまま布団に倒れ込んだ。
目を閉じると、美晴の声がよみがえった。そして、やわらかく唇に触れたものが。
俺は布団の中で声にならない声を出し、体をよじった。
美晴の顔がみたい、と思った。
俺の世界が顔を失くして以来、いちばん強く、心の底から。
彼女は、どんな顔をしていた? ごめん、と言ったとき。内緒ね、と言ったとき。
俺は知らないのだ。一生、知りえない。
見えたのは、離れていくときの、伏せたまぶたの上のまつ毛だけだ。
綺麗だった。だが部分は部分だ。一枚の絵になるわけじゃない。
眠れないので、俺は起き上がって電気をつけ、人名鑑を開いた。
新しいページに、一人。
「八雲。合気道部師範代。低くよく通る声。まるで正三角形。内側がほとんど一点。傍心が三方へ等距離。足音がしない」
書き終えて、ページをめくる手が止まった。
あと何枚かめくれば、遠野美晴のページがある。
今夜のことを書くなら、あそこだ。書くべきであることも、分かっていた。
俺はノートを閉じて、電気を消した。
だがこれは、恋と呼んでいいものなんだろうか。
俺は彼女の顔を知らず、知らないまま、よく通る声と、若枝のようにしなる三角形と、笑う〇・五秒前の跳ねで、この人をこの人だと思っている。それは人を好きになったというより、単に見分けがつくようになったというだけのことではないのか。
※
明け方近くになり、前夜のことが少し違って見えてきた。
あの人は無事に家へ帰れた。誇らしい気持ちは、まだ残っている。
だが、違うシナリオもありえた夜だった。
そういえば、と思う。
あの猫が堤防で飛び出してこなければ、俺は転ばなかった。転ばなければ顔を失くさず、顔を失くさなければ光は見えず、光が見えなければ、今夜あの高架下へ足を向けることもなかった。
礼を言うべきなのか、文句を言うべきなのか、俺には決めかねた。
考えてみれば、ここまでの道筋には、俺が選んでいないことが、ずいぶん混ざっている。
高架下では、男たちの崩れ方が見えていた。こちらへせり出した三角形も、揺れる傍心も。だから投げられた。
だがあれは、相手が酒と怒りで勝手に崩れていたからだ。
整った体なら、見えたところで指一本動かせなかっただろう。
八雲さんのような三角形が相手なら、なおさらだ。
——見えるだけでは、一枚の木も削れん。
権藤さんは、病室のベッドでそう言った。いい言葉だと思った。まるで標語か何かのようだ、と。
だが今、その意味がようやく手触りになって追いついてきた。
削るには、手が要る。
週末、俺は、階段の鳴く木造三階建てに向かった。




