もう一本!
旧文化会館は、商店街の外れに立っている。
汐見大学合気道部の稽古場だ。
木造三階建て、築六十年。壁のクリーム色は日に焼け、もはや羊羹の断面のような色である。
こないだ夏物のズボンをしまい込んでいたら、ポケットから紙が落ちた。
いつだったか、勧誘でもらったビラだ。
丁寧な手書きの字のコピー。
——汐見大学合気道部。部員募集。経験不問。見学歓迎。稽古場所・旧文化会館二階。
高架下のことがあったばかりである。よくできた偶然だと感心した。
もっとも俺は、学内では「めっちゃ愛想がよくて人助けをする葛西くん」である。勧誘のチラシが多く集まる体質だから、まったくの偶然ではないだろうが——それでも、この一枚だけポケットに残っていたのは、ちょっとした奇跡と言っていいのではなかろうか。
理玖に見せたら、あいつは真顔で確率を計算し始めるだろう。
そして、二つのうちのどちらかを言う。
「必然だ。奇跡なんてものはない」か「ここまでの偶然は、奇跡と呼んでいい」か。
そのどちらを言われても、俺の背中は押される気がした。
玄関の引き戸はひっかかって重く、開けるのに両手を要した。
土曜の朝十時、五分前であった。
一階はロビーと展示室。市民サークルの水彩画が並んでいる。
受付には制服の管理人さんが座っていた。六十くらい。胸の名札に、常盤とあった。
「合気道部の見学なのですが」
「ああ、合気道部ね。二階だよ。ここは初めてかい。そしたら階段は、あちらの南側を使うといい」常盤さんは廊下の向こうを指さした。
「南側ですか。北側だと聞いたのですが」
「場所は、そうだね。ただ北の階段は鳴くから。……直してもらえないんだけどね」
軋む、ではなく鳴く、と言った。八雲さんが言っていたのと、同じ表現だ。
歩き出しかけた俺を、常盤さんが呼び止めた。
「お名前は、なに君だったかな」
「葛西です。経済学部の一年で」
「葛西くんね。じゃあ、どうぞ二階へ」
※
二階の引き戸を開けると、やけに青い畳の色が目に飛びこんできた。
朝の光が窓から斜めに入り、青い畳が照り返して、海面みたいに光っている。編みこまれたい草と、汗と、乾いた木の匂いがした。
これが道場の匂いというものか。なんとなく、古い神社を連想した。
「おう!見学?」
海面の向こうから、声のでかい人が来た。体も、でかい。九十キロくらいありそうだ。声はその体格に、ちょうど見合っていた。
ところが、近づいてくると、まだ大きく見え始めた。光がでかいのだ。光の通り道、オイラー線が他の誰よりも太い。体格に見合った声と、それを超える光。
「一年の葛西です。八雲さんに、その、誘われて」
「師範代の!聞いてる聞いてる!俺は宮下、二年、ここの副将!よろしくな!」
握手が万力だった。宮下先輩、と人名鑑の新ページが頭の中で開く。太い。とにかく太い。体も、声も、光も、握力も。
「宮下先輩。声が大きいです。朝から鼓膜に悪いです」
畳の奥から、雑巾を持った長身の女子が立ち上がった。ジャージ。完璧な姿勢。光の通り道が、短い棒のようにすっと通っていて、両端に行き届いた伸びを感じさせる。ただ真っすぐというだけの人なら結構いるのだが、きちんと手入れされたまっすぐ、というか。
彼女は雑巾を桶に戻し、俺を上から下まで、一往復だけ見た。
「見学の人?」
「はい。経済学部一年の葛西といいます」
「紺野です。法学部一年。こんな時期に見学ねえ」
「紺野。彼、八雲さんのスカウトだぞ」と宮下先輩。
「師範代の?」紺野さんの声が、半音上がった。「あの人、勧誘なんてしないのに」重心の光も、ほんの少し上がった。師範代への畏敬だろうか。
「いや、珍しいこともあるもんだけども」
のんびりした声がして、湯呑みを持ったおじいさんが、畳の縁に正座した。小田島さん、六十二歳、会計係。元は市の水道局員とのこと。
合気道部は汐見大学の団体だが、外部との交流という名目で、こうして学外からも参加者がいるという。目の前で湯呑みを傾けている小田島さんは、その古株だった。もう一人、保科さんという郵便局勤めの人が、窓際で黙って柔軟をしていた。土曜にしか来ない人で、この日、俺と交わしたのは、会釈が一つきりだった。
ちなみに、大学にも道場はあるのだが、部員の多い柔道部と空手部が使っている。合気道部はこの文化会館に追いやられている形だが、メンバーはけっこう、その状態を気に入っているようだ。
「学内の道場は、順番待ちだの時間割だの、うるさいからな! ここなら畳は朝から晩まで俺たちのもんだ!」と宮下先輩は言い、小田島さんは「わしらも参加できるし、通り道に商店街があるのがいい」と言った。紺野さんは「ここの青い畳に慣れると、大学の道場の畳の色は、ちょっと物足りないわ」と言った。
そして、いつの間にそこに立っていたのか、八雲さんが言った。「極めつけは、ここの階段の鳴く音だ」と。「週四日の稽古の前後、あれを聞くことが、知らず、我々の心に節目を作っているのだ」。なんだかよく分からない意見だったが、みんな「うんうん」と頷いていた。
それから、八雲さんは俺の方をみて「来たか」と言った。
来る、と分かっていた声だった。
「あと、主将がいるはずなんだが」宮下先輩が道場を見回した。「大隈さーん?」
「さっきから、そこにいるけども」と小田島さん。
窓際に、リクルートスーツの人が立っていた。
大隈主将、三年、就活の学内セミナー帰り。「どうも」と言った声も薄かった。いつからそこにいたのか、俺には分からなかった。挨拶をされた気もするし、していない気もする。
俺は、この人の光を見て、眼の新事実を一つ拾った。光が、薄いのだ。
七つの光も、それを結ぶ三角形も、露光を三段落としたように淡い。だからなのか、視界に入っていても、俺はこの人を見落としやすい。三か月の観測で、初めて出会う型だった。人名鑑の大隈ページの一行目は、こうだ。「主将。声も光も薄い」。
その日、畳にいた残りの学生は、三人だった。
袴田さん、二年、理工学部。長身で猫背。あとで分かったことだが、受け身の音が部でいちばん悪い。本人もそれを知っていて、休憩のたび、隅で一人で転がっていた。
来栖さん、二年、文学部。髪をうしろで一つに束ねた、小柄な女子である。その朝、俺がぼんやり突っ立っているたびに声をかけてくれたのは、この人だった。
そして、もう一人。
「あ、経済っすか。俺も経済です。矢野です。一年」
同学年だった。ただし、向こうは四月からいる。
「葛西です。……あの、敬語、どうしましょう」
「どうしましょうね」
結論は出ないまま、俺たちは微妙な距離感の丁寧語で話すことになった。
※
「見学じゃなくて、体験にしよう」
いつの間にか、八雲さんが俺の隣にいた。いつの間にか、というのがこの人の標準の登場方法らしい。
稽古着姿の八雲さんは、私服より輪郭がはっきりして見えた。胸の奥の一点は、今日も一点のままだ。
体験は、受け身から始まった。
後ろに転がる。
ただそれだけのことなのだが、顎を引け、背中を丸めろ、畳を叩け。言われた三つを同時にやろうとすると、体の中で渋滞が起きる。宮下先輩が手本を見せると、あの図体がころんと後ろへ転がって、音もなく立ち上がった。太い光が、回転のあいだ、まったく乱れなかった。丸太が回っているみたいだった。
「分かった?」と宮下先輩。
「分かりました」
「じゃ、どうぞ!」
分かった、とは言ったが、俺の体は、見えた通りに動かなかった。もつれたような、こんがらがったような、いかにも不器用な感じだ。二十回目くらいで後頭部を庇い損ねかけたところを、紺野さんに襟を掴んで止められた。
「あんた、頭なんて絶対打たないでよ。うちの部から救急車なんて出たら、悪評が立って潰されちゃうんだから」
「……はい」
「紺野、せっかく体験に来てくれたんだ。もっとやさしくしろ!」と宮下先輩が笑った。
「あと、さっきから床のどこ見て転がってるの。転がる前に、一点をじっと見る癖、やめな。もっと広く見たほうがいい」と紺野さんはお構いなしに言った。
図星を突かれた。実は、畳の目を数えて着地の点を探していたのだ。
アドバイスの通り、全体を広く見るようにしたところ、やりやすくなったような気がした。一年生だと言っていたが、ここより前から経験者だったのだろうか。休憩のとき、訊いてみることにした。
「合気道は四月から」と紺野さん。「だけど剣道やってたからね。中学から六年」
「それが、どうして合気道に転向したんですか?」同期ではある。だが、ここでは先輩だから敬語を使った。六年への敬意も込めて。
彼女は自分の右肘を、ぽんと叩いた。「肘をケガしちゃって。竹刀は振れても、試合はもう無理だって。……で、振らなくていい武道を探してたら、ここにいたの」
あっさりした言い方だった。だが、観察の鋭さには合点がいった。そして、彼女の光の通り道がすっときれいに通っているのは、その六年があったからだということも理解した。
その六年を振り切るのは、簡単なことではなかったのではないか。
しかし俺は、紺野さんのあっさりした言い方にならって、ただ「そうだったんですか」とだけ言った。その夜、人名鑑の紺野さんのページに「剣道六年。線がきれいに通る」と書いた。
同じ休憩のとき、道場の隅で、矢野が一人で受け身をやっているのが見えた。
音が、あまり良くない。正直にいうと、俺のと、どっこいどっこいだった。
四月からやってこれなら、俺もどうにかなるだろう。俺はそう思い、少し安心した。
この見立ては、半分だけ当たることになる。半年後、俺の受け身は矢野よりうまくなっている。だが俺にはこのとき、数え損ねていたことが一つあった。矢野は、入部した四月から今日まで、一度も稽古を休んでいなかったのだ。まあ何にしても、それはあとの話だ。
※
十一時、稽古の見せ場があった。八雲さんが、技の手本を見せた。
受けは宮下先輩。丸太のような光が、気合いの声とともに正面から打ち込んでいく。八雲さんは、半歩、斜めに入った。宮下先輩の体が、大きな弧を描いて空中を流れ、青い畳の上でどうんと受け身の音を立てた。道場の空気が揺れた。
語彙が、飛び去った。
すごい。何だ今のは、すごい。腕に鳥肌が立っていた。
「もう一本!」と宮下先輩が跳ね起きた。二本目も、同じだった。そして三本目と四本目も。俺は八雲さんの光から目が離せなかった。
そして五本目に、俺は妙なものを見た。
まるで正三角形のように、ひとつに重なった八雲さんの点。それは動かないのだと、俺は思っていた。だが、技の起こりの一瞬、あの一点が、増えたのだ。
いくつに増えたのかは、分からなかった。二つだったのか、三つだったのか。数えようとしたときには、もう一つに戻っていた。動きは一呼吸より短かった。
続く六本目も、七本目も、俺はそれだけを見ていた。同じ場所で同じことが起き、同じように分からなかった。
「もう一本!」宮下先輩が跳ね起きた。投げられながら、声が嬉しそうだった。この人は投げられることが嬉しいのだろうか。人名鑑の宮下ページの、特記事項が確定した。
オイラー線は、ずれの記録だ、と理玖は言った。
ずれの記録がないはずの人の中に、一瞬だけ、記録が生まれて、消えている。
俺は瞬きも忘れて正座し、八雲さんの光を見つめていた。




