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幕間 遠野美晴のノート

 このノートは、バンドの練習ノートの、後ろから逆向きに書いている。

 表から開くとベースのコード譜。

 後ろから開くと、これ。

 妹対策としては、これが最適解だと思う。


 だけど、もし黙って、これを読んでたりしたら、ただじゃおかないから。

 お姉ちゃんは警告しましたからね!念のため。


  ※


 私はどうやら、二人の男の子と同時に付き合っているらしい。

 ……いや、ちがう。付き合ってはいない。


 まず、大切なのは事実確認だ。うん。


 土曜、旧文化会館の南階段の下で、彼と合流する。毎週のように、蛸八の十二個入りを一舟。配分の六対六は去年の冬からの固定レート。語学クラスは隣の席。向こうも私のこと、気になってるとは思う。だけど、その程度なのかなって、ちょっとがっかりしてたけど……。

 先週、二人で水族館に行った。だけど、やっぱりそれだけ。

 まあ、そんな感じだから、彼氏とは呼べないかな。

 なんていうか、肝心の一文がどこにも書いてない契約書、みたいな関係。

 経済学部のくせに、この不備を放置するとは何事!


 だけど……単にそういうこと気にしてないってだけかも知れない。

 ……いや。ここは正確に書かないと。事実確認のノートなので。

 不備を放置してるのは、私も、だ。

 水族館の帰り、言いかけたんだ、この空欄の話。チンアナゴのあたりから言い方をずっと考えてて、駅が見えたところで「葛西くん」って名前を呼んだところで、店じまいした。なんだか勇気がでないってのもあるけど、葛西くんの方に何か言わせたいっていうか。


 そのかわり、駅までの道、半歩だけ近くを歩いておいた。気づいてないだろうけど。

 彼のことは、分からないことが多い。だから、分かっていることから、順番に書く。


  ※


 はじめて見たのは、入学式の日。本人は知らないだろうけど。

 講堂の長い列で、私の斜め前で、式のあいだじゅう、パンフレットの校章をずっと眺めてた。本当にそれだけだけど、その光景が、なんか不思議なくらい印象に残ってる。

 語学で一緒になって、グループも何回か一緒になって、感じのいい人だなって思うようになった。だけどその夏に、彼は事故に遭って、ショックだった。本当にけっこう心配した。

 千羽鶴を折ることになったのは、あれはたまたまって言うのかな。どうだろう。


 語学の補習で折り鶴に関する英文をやったとき、折り鶴の折り方を知らないって子がけっこういた。

 佐伯先生が「これは由々しきことです」って言って、すぐどこからか折り紙を持ってきて「今日は指の語学です」とか何とか。先生の音読する英文をリピートしながら、折り鶴を折る時間になった。「折り紙はね、英語でもオリガミって言うんですよ」なんて。けっこう、ぐだぐだな時間。

 だけど先生が思いつきで、「折った数に応じて小テストに加点します」って。そしたらみんなすごい勢いで折りだして、その時間のうちに五百羽くらいになった。言い出しっぺの先生が「どうしましょう、これ」って。困ってて、ちょっと笑った。

 それで、「事故で入院中の葛西くんに、千羽鶴を届けるのはどうですか」って。まあ、私も思いつきだったんだけど……。そうしたら、先生が「では、私もいくらか折りますので、あとで教務室に取りに来てください」って。先生も二十羽くらい折ってくれたみたい。

 先生は、葛西くんの入院先を調べて、「可能ならでいいのですが、クラスの誰かで届けてあげてくれませんか」って。それで、「じゃあ私が」って。

「それなら、ついでに辞書でも差し入れしましょうかね。入院中、退屈したらつらいでしょうから」とか言いながら本棚に手を伸ばそうとしたから、「それは喜ばないと思います!」って全力阻止。

 いいことしたな。先生は、ちょっと寂しそうにしてたけど。


 せっかくだから、もう少し折って、足してるうちに、六百二十三羽になった。

 だから、あれには、私のが百羽近く入ってたんだよね。千羽には足らなかったけど。

 中途半端でごめんね、って渡した。病室の彼は私を見て、あからさまに「どちらさまですか」の顔をして、名乗ったらものすごく困った声で謝って、それから帰り際に、言ったのだ。「六百二十三羽、飾っときます」。まるで千羽より、そっちのほうが上等みたいな言い方だった。

 それ聞いて、ああ、千羽じゃなくてよかったなって。だけど、それから、もう少したくさん折ってあげたかったなって。


  ※


 葛西くんは、たぶん、普通の人には見えないものが見えてると思う。

 着ぐるみの日。私が入ってることなんて、絶対分からないはずなのに、まっすぐ来て、名前を呼ばれた。それに、誰もいない空中への、謎の納得。図書館の512の棚。

 それから、高架下の夜。すごかった。あんな大きな人たちを相手に、信じられなかった。考えてみれば、あれで相当やられたかも、私……。いまも思い出すと、心臓から変な音がする。拍の頭をひとつ外すみたいな。

 あのとき、葛西くん、「知ってる声のような気がして」って言ってた。あれって、困ってるのが私だと思ったから来てくれたってことだよね、多分。勘違いだったら、と思って、聞けなかったけど。

 とにかく、葛西くんには何か見えてる。何か、人には見えないものが。着ぐるみの日は本当にびっくりした。雰囲気とか輪郭とかは、絶対にありえない。どうやったんだろう。オカルト説は保留中。


 だけど、見えてないものもある気がする。

 何か、みんなには当然見えているものが、彼には見えてない――たぶんだけど、事故のころから、人の「顔」が見えてないんじゃないかな、と思う。そういう症状があるって聞いたことある。

 だから病室で、私の名乗りを待ったのかなって。(それまでに、三回くらいしゃべったことあったのにな、って、ちょっとへこんだのだ。もし合ってるなら、あのへこみは撤回します)

 だから胸元を見て話すのかなって。(見られてる場所がちょっと気まずい。でもあの人、相手が男の子でも、全員にそうするんだよね)。

 合ってるかどうかは分からない。本人は、一度も言っていない。あるのは状況証拠だけ。……これを思いついた夜、最初に浮かんだのは、じゃあ私がこの人の前でかわいい顔をしても、無駄なのかな、ということで、そう思ったら、自分でも意外なほど、さみしくなった。

 だけど、答え合わせは、しない。もう訊かない、カマもかけない、鞄も覗かない。秘密は、こじ開けるものじゃなくて、開くのを待つものかなって。私はレジで待ってます。営業時間は、長めに設定してある。


  ※


 十一月の終わりくらいから、彼には「普通の人」の日がある。その他の日は

――名づけるなら「三角定規の日」かな。幾何学が何とかって、よく言ってるし。三角定規の日の彼は、歩く前に、床をちらっと見る。

 「普通の日」の彼は、よく私の顔を見る。びっくりするくらい見る。ちょっとおしゃべりで、ちょっと無防備で、釣り銭を二回落として、帰り際にだけ、すこし寂しそうにする。理由は訊かないことにしている。ただ、なんとなく分かる。あの日の彼は、何かと引き換えに、私の顔を見ている。

 だから、帰り際は決めてる。なるべく、いちばんいい顔で手を振る。効いてるのかは、知らないけど。


 ためしに「三角定規の日」に、思いっきり変な顔をして隣を歩いた。気づかれなかった。「普通の日」に同じことをしたら、三秒で「何やってんの」と笑われた。だから私は知っている。私の変な顔を知っているのは、普通の日の彼だけ。三角定規の日、彼は、顔じゃない何かを読んで、私を私だと気づいている。

 どっちが好きかって考えたこともあるけど、どっちでもいいや。私の顔をまっすぐ見る彼も、私を読んでいる彼も、全然ちがうけど、同じひとりだから。中心がひとつじゃないものなんて、世の中にいくらでもある。イワシの群れだって、あんなにきれいに泳いでいた。


  ※


 蛸八で「葛西くんは賢いんじゃなくて臆病なんだよ」と言った件。言い方――とは自分でも思ったけど、撤回も反省もしないもん。本当のことは、たこ焼きの温度で渡すのが、いちばんお互い火傷しない。熱々のまま渡したら、あの人、受け取り拒否するもの。

 ……なお、これを書いているのは、水族館で店じまいした臆病者です。それはそれ。これはこれ。


  ※


 商学部の人にユニットを誘われた。

 ギターは上手い、笑うと歯が光る(気がする)。

 保留中。この話は、以上。


  ※


 新しいベース!!!やっと買いました!!白い子!

 一年貯めて、一括で。楽器屋で三時間迷って、最後は、構えたとき一番「私の音がしそう」だった子にした。葛西くんが聴きに来た。感想は「かっこいい」だった。音だけの感想って感じじゃなかった。ふふふん。冬のライブ、誘ったら「行く」って。即答だった。頭の音が揃うと、ベース弾きはうれしいのです。毎日背負って帰る。重い。一年かかったぶん重く感じるけど、重いのが、ちょっと誇らしい。


  ※


 十二月の予定。第二土曜、オンケン夜練。今年の締めの曲がまだ決まってない。私はバラードじゃないほう推し。夜練の日はたぶんまた私が最後なので、火の元当番の判子、忘れないこと。今月もう三回押してる。


  ※


 まだ気持ちの整理がついてない。白い子のことは、まだ書けない……。

 本当に怖かった。

 ひとつだけ、先に書いておく。忘れたくないから。

 壁ごと落ちていくあいだ、あの人は、体を回して、下になった。

 だから、ひとつだけ、確かなこと。

 私は、葛西くんを信じてる。

 あの夜みたいに「信じろ」と言われたら、私はたぶん、どんな無茶でも「信じる」と答える。

 きっと、何度でも。

 そういうふうに、私はもう、なってしまったみたい。

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