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入部

 十一時半、稽古の締めは雑巾がけだった。

 これは地獄だった。青い畳を上げた板の間を、端から端まで往復。

 紺野さんの号令が速い。

「はい、折り返し! 遅い! 膝じゃなくて足で押す!」

 三往復もすると肩はパンパン、背中と腰まで売り切れになり、五往復目には人生を再考したものである。

 隣のレーンでは小田島さん。六十二歳とは思えない安定感だ。三角形は左右へぶれず、オイラー線も、板の間の端から端までまっすぐ運ばれていく。

 俺の雑巾は左へ右へと蛇行した。

 理玖によると、線はずれの記録である。俺は床にその記録を残してしまった。


 雑巾がけが終わり、宮下先輩が肩を回していると、通りかかった八雲さんが肩に親指を当てた。

「あー、そこ」と宮下先輩。

 しかし八雲さんはすたすたと歩き去ってしまった。

 宮下先輩は「えー」と不満そうだったが、再びぐるぐると肩を回して「おっ?」と言った。ツボでも押してあげたのだろうか。


  ※


 麦茶の時間、俺は畳の上の人数を数えた。九人いた。俺を入れて、十人。

 数える指をみて「見ての通り、小さな集まりさ」と小田島さんが言った。「名簿は十二人なんだけども」

 内訳は、師範代がひとり。学生が八人。外部の会員が三人。しめて十二人。

 今日は三人が来ていない。三年の高瀬(たかせ)さんは主務で、就活が始まって秋から来ていない。同じく三年の羽鳥(はとり)さんは院試。外部の田上(たがみ)さんは整体師で、土曜は多忙で平日の夜しか来られない。


「九人でも、稽古はできるんですか」

「できるよ。二人一組でやるからね。今日みたいに奇数だと三人一組の組ができるから、先輩たちが指導に入ったりのんびりやったり……」小田島さんは言った。「ただ、演武は人が要るから大変ではある」

「柔道部は五十人いるもんなあ」と宮下先輩が言った。「空手部は三十人。あっちは学内の道場じゃないと無理だ」

 なるほど、追いやられている、というのはそういうわけかと俺は思った。


「守る会の署名、今月中にもう一声欲しいんだがねぇ」

 小田島さんが、湯呑み片手に、綴じた紙の束を畳に置いた。表紙に「旧文化会館を守る会」とある。世話人の欄に、小田島さんの名前。


 聞けば、この会館には取り壊しの話が出ているという。

 築六十年、耐震だ老朽化だで、市の建て替え計画の候補に載って、はや二年。

 壊す金も建てる金もないから宙ぶらりんのまま、しかし計画のリストには載りつづけている。

 守る会は、商店街の人たちと利用サークルの有志の会で、補修して使い続ける道を探しているのだという。

「宙ぶらりんも、そう長くはないんだよ」

 小田島さんは湯呑みを畳に置いた。

「来年の九月議会で、市が方針を出すことになってる。残すか、壊すか。まあ方針が出ても、直すのには金が要るから。予算がつくとしたら十二月議会だけども」

 俺は麦茶を飲みながら、なんとなく聞いていた。

 今日ここへ上がってきたばかりの人間に、市議会の話は遠い。

「ここはね、戦後の復興のときに、町の人が金を出し合って建てたんだよ」

 小田島さんは湯呑みを両手で包んだ。

「材木を運んだのも、床を張ったのも、半分は素人の町衆でね。だから図面通りじゃないとこが、あちこちある。北の階段が鳴くのも、それでね」

 図面通りじゃない建物。人間で言えば、ずれの多い三角形だ。そのずれを織り込んで六十年立ってきて、六十年ぶんの町のサークルと、発表会と、演武と、バンド練習を、二階と三階に住まわせてきた。

 署名簿をめくると、商店街の店の名前がずらりと並んでいた。

 蛸八。ツバメ古書堂。純喫茶らんぷ。

 知らない名前の八百屋と、知らない名前の金物屋。

「ここが無くなったら、うちの部は稽古するところがない」と宮下先輩が、珍しく静かな声で言った。「ここの二階が、うちの部の全部なんだよ」


「三階の音楽の子たちもだね。行き場がない」

 三階。音楽研究会(オンケン)。

 あの夜、八雲さんが道場の場所を言ったとき、美晴が「そこで音楽研究会やってるんです、私」と答えたのを、俺は覚えている。だから知ってはいた。

 ちょうどその時だった。天井の向こうから、ずん、ずん、と、床板を撫でる低い音が落ちてきた。ベースの響きである。俺は天井を見上げた。あの真上のどこかに、美晴が座っているのだろうか。

 俺は胸のなかが踊るのを感じた。そしてあの夜、唇に触れたやわらかさを急に思い出し、慌てて麦茶をもう一口飲んだ。

「兄ちゃんも、よかったら」小田島さんが署名簿をこっちへ滑らせた。「あ、いや、入部してからでいいんだけども」

「入ります」

 口が先に言った。頭は会議中だったが、口が単独で決議した。


 自分でも意外だった。俺は即決の人間じゃない。たこ焼きは冷めるまで待つし、ここぞと言うときに肝心の一言が言えない。だがこのときは、待つという工程が、頭の中のどこにも生成されなかった。

 八雲さんが、俺を見た。

「なぜ入る?」

 試してくるような声だった。俺は麦茶を置いて、持っている中でいちばん正直な答えを出した。

「俺、あまりうまく言えないんです。だけど、見てるだけじゃ、どうにもならないことがある。そんなふうに思うことが、最近、多くて。それを、自分で……」

「確かめたいわけだ」

「……はい」

「よし」声の角が、丸くなった。「いい動機だ。これからよろしく、葛西くん。君を歓迎する」


  ※


 入部届は、影からそっと、気配もなく差し出された。

 受け取ってから振り向くと、大隈主将が立っていた。

「入部届、こちらに」

 二枚あった。一枚は白紙。もう一枚には、鉛筆で見本が書いてあった。氏名の欄に「大隈渉」、学部の欄に「人文学部」。主将自らの情報による記入例だった。

 字が、驚くほど丁寧だった。

「これ、いつも用意されてるんですか」俺は訊いた。

「うん。年齢に似つかわしくない、丁寧な字でしょ」

 大隈さんは言った。「字が、おじさんなんだ」。自画自賛とかけたダジャレであった。気づいて、「おお」と声が出た。


 俺は白紙のほうに書いた。

 氏名、葛西湊。

 学部、経済学部。

 経験の有無、無し。

 大隈主将は受け取った紙を、クリアファイルに挟んだ名簿のいちばん下に足した。上から順に、四年の欄が空白で、三年が三人、二年が三人、一年が三人。

 その一年の三人目が、俺だった。学生の、九人目ということになる。

「演武、頭数が足りるようになりました」と大隈主将が薄く言った。そのときはあまり気にとめなかったが、就活帰りの人が、部の来年度の心配をしていたのだ。


 当面使える白帯と道着は、道場の物入れから出てきた。誰かが置いていったものらしいが、あまり使い込まれた感じはしない。結び方が分からず正面で団子を作っていたら、小田島さんが「貸してみな」と言って、俺の腰でするすると結び直してくれた。

「はい、一丁上がり」ぽんぽん。「うん、白帯は、いいもんだよ」

「いいもの、ですか」

「うん、これからを感じさせるし、同時に懐かしいような気さえするんだけども」と小田島さんは言った。

「白帯か。ある意味、俺と同じ帯だな」と八雲さんは言った。

 それは誰にも真似できない高度なジョークであった。八雲さんはもちろん黒帯だが、長年使い込まれて色が抜け、芯のあたりが、ほとんど白に戻りかけていたのだ。

「一周まわって白」と宮下先輩は言った。同じ白でも、意味するところは両極だった。

 帯はむしろ、八雲さん自身より年長に見えた。あんな色になるまで、何年かかるのだろう。


 八雲さんは、一人称がこの間までの「私」から「俺」になっていた。きっと俺が入部したのに伴って、「よそ行き」になるのをやめたのだろう。

 帰り際、道場の姿見の前を通った。鏡の中で、知らない男が白帯を締めて立っていた。俺は足を止めて、しばらくその男を眺めた。眉の太い、痩せた、姿勢の頼りない男。表情は分からないが、白帯だけは、妙に似合っているようだ。


  ※


 帰りは、みんなで階段を下りた。

 宮下先輩が先頭で、紺野さん、小田島さん、俺。南の階段だ。

 途中で、頭の上のほうから、ぎ、と鳴る音がした。

 北だ。

「師範代はいつも北だよ」と小田島さんが言った。「なんでですかって訊いたら、『鳴くからだ』って。……分かるようで、分からんのだけども」

「私は無理」と紺野さんが言った。「あの階段だけは、絶対に使わない」

「なんでですか」

「なんでも」

 ぎ、ぎ、と、音は上から下へ、ゆっくり降りていった。

 八雲さんは、階段でしか音を立てない人のようだ。畳の上を横切るときも、道場に現れるときも、あの人からは足音が出ない。

 きっと階段を鳴かせるために、わざわざ北を通るのだ。

 稽古の前後に心の節目を作るのだと、本人が言っていたとおりに。


  ※


 外に出ると、昼の商店街はコロッケの匂いがした。

 俺はスマホを出して、美晴にメッセージを送った。

「合気道部に入った。今日から白帯」

 返信は、揺れる犬のスタンプに続いて、三通来た。

「おお!」「早いよ!?あの夜からまだ三日だよ?」「じゃあ私が真上で葛西くんが真下だね。よろしく!」

 真上の彼女がベースを鳴らし、真下の俺が畳に転がされる。あの木造の箱の中の配置として、なんだか、悪くない気がした。

 理玖にも送った。

「合気道を始めた。八雲さん、技の起こりで点が増えて、戻った。数えられなかった」

 返信は一通。「被験体が自走を始めた」。喜んでいるのか……? こいつの日本語は、たまに翻訳が要る。


  ※


 ところで合気道は、相手を崩して技をかける武道だ。

 見学に来たときの俺は、正直、少し舐めていたと思う。なにせこっちには、答えが見えている。高架下の例もある。中心線とやらを十年かけて探す必要が、俺にはない。すぐに強くなれるだろう、と。

 だが結論から言えば、俺はこれからの三か月、投げられ続けることになる。

 いやはや、なんとも贅沢な負け方、というやつの話だ。

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