正三角形
二度目の白い天井だった。
一度目のとき、俺は天井や左腕の点滴を見ながら、ここがどこかを考え、どうしてここにいるのかを思い出す作業をやった。看護師の五十嵐さんに聞かれるまま、自分の名前や、年齢が思い出せるか、ということも。
二度目の今回は、全部すぐに分かった。
俺は葛西湊。二十歳で、ここは病院だ。
人間、二度目ともなると、目覚めにも年季が出るらしい。
体を起こすと、胸の奥がひりついた。煙を吸ったからだ。
左腕に点滴の管。指先に洗濯ばさみみたいな機械。
窓の外は冬晴れで音もなく、暖房の低い唸りだけが部屋を満たしていた。
俺は病室を見回した。それから、確認を始めた。
床頭台のコップ——点かない。
壁の時計。丸い文字盤——真ん中に、何もない。
毛布の皺。自分の手の甲。窓枠。カーテンの襞。天井の照明の、丸い縁。
どこにも、何もなかった。
あの夜、商店街の店じまいのように一つずつ落ちていった光は、朝になっても、点いていなかった。
分かってはいた。落ちていくのを、この目で見ていたのだから。
だが分かっていても、確認せずにはいられなかった。
俺は時計を見て、コップを見て、もう一度時計を見た。
世界は、静かなままだった。
引き戸が開いて、母さんが入ってきた。
紙袋を提げて、駆けてきたことが分かる息をして、俺を見て、立ち止まって——
俺も、止まった。
顔が、あった。
目と、眉と、鼻と、口。
ばらばらの部品ではなく、一枚の顔として、そこに組み上がっていた。
一年半、電話の声と、やわらかい七つの光で識別してきた俺の母親は、記憶の中の母さんより少し痩せて、よく見れば白髪が増えていて、そして、泣き出す三秒前の顔をしていた。
「あんたって子は……あんたは本当にもう、二回も……!」
予告どおり泣き出した母さんに、俺はすぐには返事ができなかった。見ていたからだ。泣くと眉がハの字になるのかとか、怒ると俺と同じ場所に皺が寄るのかとか、そういうことを。
「……ちょっと。あんた、もしかして母さんの顔をみてる?分かるの?」
「うん。……久しぶり……もしかして、ちょっと老けた?」
一年半ぶりの母さんの顔は、まず泣いて、それから怒って、最後に、昔みたいに俺の頭を一回はたいた。俺はいちおう、けが人なのだが。
次の帰省まで取っておくはずだった答え合わせを、思いがけず開封することになった。
人生の福袋は、開けるタイミングをこっちに選ばせてくれないらしい。
※
診断は、煙の吸引と、打撲。軽い火傷はあるが、命に別状なし。念のため一週間の入院。
ここまでが体の話だ。
相貌失認の方は、真壁先生がペンをカチカチとやりながら説明してくれた。写真やら絵カードやらのテストを一通りやり、明るい声で言った。
「こうした障害では、稀にあるようです。強いショックで、戻る例が。よかったですね」
よかったですね、に、母さんは三回頷いた。俺も頷いた。頷きながら、俺だけが、差し引きの収支を知っていた。
顔が戻り、光が去った。
俺の寝ているあいだに、世界と俺のあいだで、静かな決済が済んでいた。
それが等価交換だったのかどうか、査定してくれる機関は、どこにもない。
警察も来た。
目出し帽の男について、俺は体格と、くぐもった声と、突っ込んできた右の拳のことを話した。顔は、編み目の向こうだった。よりによって顔の見える夜に会ったのに、肝心の顔だけ見られず仕舞いだった男。
刑事は手帳を閉じて、捜査中です、とだけ言った。
会館は、二階と三階が焼けた。一階は、生き残った。守る会と市とのあいだで、取り壊すか、直すかの綱引きが始まっているという。オンケンの機材は全滅。うちの道場の青い畳も、きっともう、あの色ではいられない。あの箱の生き死には、これから町が決める。
※
理玖が来たのは、三日目の午後だった。
引き戸が開いて、細身の男が入ってきて、俺は今度は準備ができていた。できていたつもりだった。それでも、病室のベッドでみる親友の顔というのは、なかなかのイベントではある。
「……泣きそうな顔するなよ、理玖」
一年半前、病室でこいつが俺に言った台詞に返事をする日が来たわけだ。理玖は三秒黙って、丸椅子を引き寄せて、いつも通り浅く座った。
「泣きそうなのはお前の方だ、と言い返したいところだが」と理玖は言った。「今日のお前は、俺の顔を見て喋ってるな」
「見えてる。薬を飲んでるわけじゃない……たぶん、これからずっと」
理玖は、動かなかった。窓の外で、鳥が一羽鳴いて、飛んでいった。
「なにがあったんだ。最初から話せよ」
俺は全部話した。灯油の匂いから、光が落ちていくところまで。
理玖は一度も口を挟まず、病院の茶にも手をつけず、聞き終えてから、鞄からあのノートを出した。検証項目のリストだ。
「……いくつ残ってたと思う」
「最後にあったときは、四十一だっけ。十二引いて、六足して……三十五」
「三十五だな」理玖はリストの表紙を、指の腹でとん、と叩いた。「三十五個の問いの、実験対象が消えた」
数学者の弔辞だった。少し申し訳ないような気はしたが、謝るのも何かちがう。
「リスト、どうするんだ」
「取っておく。保留の棚ごと」理玖はノートを鞄に戻した。「棚ごと、当面は埃でもかぶせとけばいい」
理玖をなぐさめるってわけでもなかったが、俺は言った。
「そういえば、昨日の朝、薬を一錠試したんだ」
「おい。お前は……」と、理玖は俺の軽率を鋭い目でとがめたが、「で」と先を促した。
「何も。それで六時間過ごしたよ。顔は顔のまま、あの光はつかないままだ。それだけで世界がやけに静かに感じる」
「そうだろうとも」即答だった。「あの薬はスイッチを、元の位置に戻すバネだったんだ。バネが伸び切った場所では仕事をしないってところかな」
「残りは四錠あったけど、捨てたよ。……もともと、褒められた話じゃなかったしな」
「よし」と理玖は言った。少しだけ、目元がゆるんでいた。
帰り支度を始めた理玖に、俺はずっと喉に引っかかっていたものを訊いた。
「なあ、理玖。歪んだ三角形はさ……正三角形には、なれないのかな」
我ながら、輪郭のはっきりしない質問だった。
八雲さんの一点は、もう見えない。あの人の何を追いかければいいのかも、そもそも俺の三角形がどれだけ歪んでいるのかも、俺にはもう、測る道具がない。
理玖はコートの袖に腕を通しながら、答えた。
「なれない、かもな」いつもの即答で。
「だが限りなく近づける方法なら、ある。まずは一辺を底辺として、それと向かい合う頂点を底辺と平行に動かし、二等辺三角形に近づけるんだ。バランスを整えるみたいにな。そうしたら、今度はべつの辺を底辺として、同じことをやる。何度でもな。数学でいう、極限操作だ。届かない点に向かって、差を、いくらでも小さくしていく。二千年前から人類がやってる、いちばん由緒正しい商売のひとつだ。……届かないことと、近づけないことは、別の話だぞ、葛西」
一年前の、角の三等分の講義と同じ声だった。あのときの俺は定規とコンパスしか持っていなくて、いまは、その定規まで取り上げられている。それでも、近づくことだけは、誰にも取り上げられないらしい。
理玖は帰り際、ノートの端を一枚破って、四色ボールペンの黒で何かを書き、ベッドの上に置いた。
X(2)。
「なんだこれ」
「目録の番号だ」理玖はマフラーを巻きながら言った。「世界の数学者が、三角形の中心を蒐集してる、何万という目録がある。見つかった中心には全部、番号が振られる。X(1)が内心。で、そこに書いた、X(2)が重心だ」
「重心」
「お前が、一年半前、自分で見つけて、名前までつけたやつだ。人類が目録の二番目に置いた心を、お前は素手で拾ってる。……眼は道具だ。道具は失くなることがある。だが、見つけたのは道具じゃなく、お前だ」
俺はその紙切れを、しばらく見ていた。それから財布を出して、学生証と領収書のあいだに差した。
「大事にしろよ。俺の直筆は将来高くなる」
「え、こんな殴り書きのメモを買うやつがいるのか」
「ものの価値の分からんやつだ」
理玖は浅く座っていた丸椅子から立ち上がり、背中で軽く手をふり、帰っていった。俺の財布は、紙切れ一枚ぶん、重くなった。
※
部の連中も来た。
宮下主将は病室の入口で「葛西ぃ!」と叫んで看護師さんに叱られた。それで、しょげてしまい、言いたいことは山ほどありそうだったのに、小声で「よく生きてた」と言って、りんごを一山くれて帰った。
紺野さんは、その翌日に一人で来た。差し入れは、蜜柑と、文庫本が一冊。開口一番「あんた、今日も人の顔見て挨拶するんだ」。
俺が答えを探したが、彼女は、それ以上は何も訊かなかった。しばらくいて美晴の無事を話してくれ、蜜柑を一個だけ剥いて食べ、帰り際に一度だけ振り返った。
「早く戻ってきなよ。稽古場所は、宮下さんがどっかから引っ張ってきてくれる……そうしたら雑巾がけの要員もいるから」
それが紺野さんの見舞いの言葉の全部だった。
※
美晴が来たのは、退院の前日だった。
ノックが二回。引き戸が開いて「面会の者ですが。差し入れの検閲をお願いします」と、よく通る声が入室してきた。
紙舟を目の高さに掲げて入ってきた遠野美晴の顔を、俺は見た。にっこり微笑んでいた。俺が微笑み返すと、美晴は、ふっと笑った。笑う直前、いちばん上の光が小さく跳ねるのを、俺はもう見ることができない。けれど、見えなくても、その点はそこで跳ねているのだろうか。
「蛸八の大将がね、病院までだと冷めちゃうからって、二回焼きにしてくれたの。冷めてもうまいやつ、っていう特注」
床頭台に、紙舟が開かれた。十二個。彼女は迷いなく六個ずつに分けた。六対六。世界がどれだけ静かになっても、配分だけは変わらなかった。
「ベース、ごめん」と、俺は言った。
「なんで葛西くんが謝るの」彼女は一個目を手に取って、めずらしく、冷めているのを確かめるみたいに一拍置いてから食べた。「あれは私が置いてったの。私の判断で。で、それは正しかった……でしょ?」
「正しかった」
「でしょ。じゃ、この件は落着で」
裁判長みたいに言い切って、彼女は二個目に進んだ。それから機材の保険の話や、生還祝いに、妹さんが変なケーキを焼いた話をした。病室に、久しぶりに、日常の音量が戻っていた。
たこ焼きが半分になったころ、美晴はふいに、変な顔をした。
その変な顔というのは——本当に、変な顔だった。目を思い切り真ん中に寄せて、鼻の下を伸ばして、頬をたこ焼きみたいに膨らませた、前触れも脈絡もない、渾身の変な顔。
俺は湯呑みの茶を吹きだした。
「な……なんだよ、急に」
笑いながら顔を上げたとき、美晴は、変な顔のまま、止まっていた。それから、ゆっくり、普通の顔に戻っていった。その途中で、一度だけ、泣きそうな順番を通った。
俺は、自分が何かの試験に答えてしまったことに気づいた。
「……そっか」と、彼女は言った。「そっかあ」
何がそっかなのか、俺には半分しか分からなかった。分かったのは、彼女がいまこの瞬間に何かの答え合わせを終えたことと、その答えが彼女を喜ばせなかったらしいこと、それだけだ。
美晴はうつむいて、三個目を手に取って、食べずに、持っていた。それをようやく、もぐもぐと片付けて、取って付けたように、窓の外の晴れた屋根の話をした。
今日、なんだか明るいね。なんだかいい天気だね、と。
帰り際、コートを羽織りながら、美晴は言った。
「私たちさ、大事なもの、一個ずつ、あの箱に置いてきたんだね」
軽い声だった。軽い声で言う、と決めた、重みだけの。
「だからさ、退院したら、焼きたて食べよ。あちあちの、湯気のやつ」
「……うん。熱いうちに食べてみるよ」
「えっ」
美晴の目が丸くなった。
「約束だからね。火傷しても知らないよ」
「授業料なんだろ」
「よく覚えてました」そして笑顔で帰っていった。
※
退院の朝、病室の洗面所の鏡の前に立った。
鏡の中には、知っている男が立っていた。寝癖と、太い眉と、頬のこけた男が。一年半の同居人は、俺が眠っているあいだに、荷物をまとめて出て行ったらしい。鏡への会釈は、もう要らない。俺は鏡の中の葛西湊に、最後のつもりで、小さく会釈をした。
荷物をまとめていると、常盤さんが来た。制服ではなく私服で、蛸八の包みを提げて。六個入りだった。
「男の子だし、十二個入りの方がよかったかも知れんね」
常盤さんは丸椅子には座らず、窓際に立った。
「あの晩のことは、消防にも警察にも、話せることは全部話したよ。……話せんことは、話しとらん」
「……すみません」
「謝ることはない。むしろ謝るのは私だ。私は、あの場の正しい判断としては、君を行かせるべきではなかったんだ。だが君が、ああいう目をする青年だったとはね……六十年ではじめて見たような光だった。おかげで、結果の間違いを犯さずにすんだ。……だが、結果がよければすべてがよいとは言えんからね」
「そんな、俺は感謝しています」と俺は慌てていった。「俺、こう思います。中心が、ひとつとは限らないって。それが、何らかの正しさであったとしても」
常盤さんは湯呑みを置いて、俺に向かって頭を下げた。
「若者に、これほどのことを教わることもある、か……私は、あの夜を通じて、私なりの中心を考え続けるとするよ」
俺も同じ姿勢をとった。しばらくして、どちらからともなく、再び向き合った。
「三分と言ったが、君が出てきたのは二分五十五秒だった。いい戻りだったよ」
常盤さんは会館のことも教えてくれた。一階は構造が生きていること。守る会が補修の陳情を出したこと。小田島さんの署名簿が、事務室の金庫の中で無事だったこと。「箱の生き死には、これから町が決める。……君は、体を直しなさい」。そう言って、帰っていった。
※
退院して、道場のない年の瀬が来た。
部の稽古は年明けから公民館の和室を借りて再開する、と宮下主将が方々を駆け回って決めてきた。それまでのあいだ、俺は河川敷にいた。
一か月半前、俺はここで同じことをやった。目をつぶって、入り身、転換。あのときは十四日でやめた。怖くて、不便で、みじめだったからだ。あのときのそれは、三十年の工程を飛ばすための、浅はかな近道だった。
今度は、近道ではない。そこに道があるのかも知らない。ただ、手探りで歩いているだけだ。
冬の川風は、遠慮を知らなかった。
目を閉じると、世界は音と、足裏の砂利と、風の向きになった。三歩目で早速つまずいて、両手を突いた。手のひらに食い込む砂利の感触まで、一か月半前と同じだった。でも感触が同じでも、俺には意味が違う。俺は立ち上がった。
「続けるか」
いつの間にか、が標準装備の人が、いつの間にか土手の上に立っていた。
「八雲さん」
フィールドワーク用だという地味な上着で、荷物は相変わらず異様に軽そうだった。俺は目を開けて、土手を見上げた。八雲さんの顔は、武道家の見本のような端正さで、そこに、俺の知っているあの一点は、もう見えなかった。
「八雲さん、俺、今まで、人とは違うものが見えていました。世界や、人に。八雲さんにも」
俺は打ち明けた。地面と、八雲さんとを交代で見ながら。
「なんとなくだが、気づいていた。それが、お前の、幾何学だ」
意外ではなかった。俺は、八雲さんが気づいていることに、どこかで気づいていた。
「でも、それも無くなりました。あの箱で、一生分使ったみたいです。今は、ただの茶帯です」
「茶帯は根の色だと、小田島さんが言っていたろう」
「……聞きました」
「根は、見えんところで張るものだ」八雲さんは土手を降りてきた。「それで、どうする」
「続けます」
「よし」
三度目の「よし」だった。入部の日。寒稽古の一本。そして、今日。俺はその「よし」を、初めて、表情つきで聞いた。笑うと声の角が丸くなる人の、声より半瞬早い、目元のゆるみ。光と引き換えに見えるようになった世界にも、いいものは、ちゃんとあった。
もうひとつだけ、言っておくことがあった。喪失の、裏側の話だ。
「八雲さん。俺、事故からずっと、人の顔が分からなかったんです。目も鼻も口も、部品にばらけて見えて、組み上がらない。……それが、あの夜から、見えるようになりました。医者は、治った、と言っています。入れ替わり、みたいに」
八雲さんは、驚いた様子を見せなかった。この人は、驚かないのか、驚きを外に出さない人なのか、いまだに分からない。
「相貌失認か……道理でな」と、それだけ言った。「稽古で、人の顔を見ない目だと思っていた」
「すみません。黙っていて」
「謝ることじゃない。言う順番は、お前のものだ」
それから八雲さんは、俺と組んで、手首を取らせた。
「視えていたころの手応えを、手は覚えているか」
「……覚えてます。たぶん」
「なら、照合しろ。目で測った一年半を、これから全部、手で読み直す」八雲さんの手首が、俺の手のひらの中で、わずかに動いた。傾ぎも、円も、レールも見えない。見えないのに、圧の変わり目だけが、手のひら一枚ぶんの狭い窓から、確かに申告されてくる。冬のつどいの晩、演武の途中で開いた、あの窓だ。「あの晩の君の手は、借り物じゃなかった。長い工程になるぞ」
「はい」
「三十年、と言いたいところだが」八雲さんは手を解いて、少しだけ笑った。「君には、答案を一年半ぶん、見せてもらった貯金がある。書き写しでも、千枚も写せば、手が覚える」
それだけ言って、八雲さんは土手を上がっていった。教えは、いつも通り少なく、いつも通り、そこに全てが含まれていた。
※
入れ替わりに、見慣れた光ではなく——見慣れないマフラー姿の美晴が、買い物袋を提げて土手の上に立っていた。
「また目つぶってる」
「うん」
「今度は、危なくない?」
「河川敷は石があるからな。たまに転ぶ」
「威張ることじゃないよ、それ」
美晴は土手の枯草に、レジャーシートも敷かずに腰を下ろした。買い物袋から魔法瓶を出して、湯気の立つ何かを紙コップに注いで、飲み始める。帰る気配が、まるでなかった。
「ねえ。私、なんか手伝えることある?」
「うん。見てて」
「見てるだけ?」
「三角形にはさ」俺は目を閉じたまま言った。説明になるかは分からなかったが、俺はこれしか言い方を持っていない。「内側に一個、外側に三個、心があるんだ。外側のやつは、三角形の外にいて、それでも、三つの辺の全部に触ってる。……傍心って言うんだけど」
「ふうん。うん」
「そう。君は俺の傍心だからな。そばで見てて」
美晴はしばらく黙っていた。紙コップの湯気が、風に流れて消えるくらいの間だった。
「よく分かんないけど」と、やがて彼女は言った。「それは三角形の一部ってこと?それとも、いちばん近い外?」
「え、どっちだろ」どっちだ、理玖。
「じゃ、そこにいる」
彼女は紙コップを両手で包んで、ほんとうに、そこにいた。
日が傾いて、川面がただの色で光った。
点のない、ただの冬の川。
一か月半前、俺はこの光らない川に救われた。世界じゅうが光っていたころ、ここだけが静かだったからだ。いまは、世界じゅうが、あの日の川だった。
目を閉じる。畳の目の代わりに、砂利。宮下主将の丸太の重さ。紺野さんの竹刀の速さ。小田島さんの、配管六十年の手のひら。東雲の張り。八雲さんの静けさ。一年半、目で測ってきたものたちを、手のひらの記憶から、一枚ずつめくり直す。三十年かかる作業だと教わっている。俺の貯金が小銭なのも、知っている。それでも、届かないことと、近づけないことは、別の話だと、理玖に教わった。
「……俺は、幾何学をやる」
声に出して、言った。誰に向けてでもなく、川と、枯草と、いちばん近い外に聞こえる声で。
幾何学は、もう、光の名前じゃない。俺がこれからやることの、名前だ。
「なにそれ」
土手の上から声がした。笑っていない、まっすぐな声だった。
「……うん。がんばれ」
俺は目を閉じたまま、半歩、踏み出した。
冬の砂利が、足裏で鳴った。長い冬になる。
冬が明けたら焼きたてを食う約束が、ひとつだけ、先に灯っていた。
第一部、了。
第二部、構想、有。元気、充電中。




