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見えることと、できること

 十一月の道場は、ちと寒い。

 暖房はない。夜の冷えが、板にも畳にもそのまま残っている。

 更衣室で道着に着替えると、体温が服の外へ逃げるのが分かる。

 素足で青い畳に上がると、足の裏がひやっとする。


 白帯の結び目はまだ固く、俺の冬は、ひたすら投げられることから始まった。


 人名鑑の巻末は、いつのまにか「投げられ日記」になっていた。

 十一月八日。宮下先輩、十四回。畳の青が目に焼き付いた。青い夢を見そう。

 十一月十五日。紺野さん、九回。「受け身だけは上手くなったね」と褒められた。いや、褒められたのか?

 十一月二十二日。小田島さん、六回。元・水道局員、六十二歳、斯(か)くも強し。

 十一月二十九日。矢野、二回。向こうは八か月、こっちは一か月。


 受け身だけは、本当に上手くなった。転がり、叩いて、立つ。一か月前は体内で渋滞していた三つの動作が、いまは一つの流れになっている。

 だが、投げるほうはまるで駄目だった。

 見えている。それが逆によくなかった。

 組んだ相手の三角形が、どの瞬間にどちらへ傾《かし》ぎ、どこから崩れるか。その先へ、どんな線を通せばいいか。全部、見えるのだ。高架下の夜と同じ解像度で、答えは毎回、目の前に光っている。

 だが俺の手は、毎回、その答えを写せない。

 半歩が遅れる。手首の返しが遅れる。導くつもりの手が、掴んで止める手になる。

 答えを見ながら解いていい試験で、零点を取り続けているようなものだ。それを、週三回。


「葛西は焦らなくていい」と八雲さんは言った。「三か月は、投げられるだけだと思え」

「……はい」

「投げられ方には、君が思うより多くのことが表れる。そして君の受け身は、いい受け身になってきている」

 はじめは慰めに聞こえた。だがこの人は慰めを言わない人だと、俺は次第に理解していった。だからあれは評価だった。評価だったと信じて、俺はまた投げられた。


 宮下先輩にもよく教わった。

「葛西、腰が高え!」で、畳。

「手首が死んでる!」で、畳。

「考えてる暇はねえ!」で、考える暇もなく、畳。

 一度、試しに「写してみた」ことがある。先輩の三角形が傾いだ瞬間、あの高架下の夜を再現しようとしたのだ。半歩ついて、その傾ぎの先へ手首を返す。

 結果を言うと、俺は自分の足に自分でつまずき、先輩を巻き込んで二人まとめて転がった。

「今の、何しようとした?」と、起き上がった先輩が訊いた。

「……導こうと」

「導く前に自分が迷子になってたぞ」

 正しい批評だった。

 答えの場所が見えることと、そこまで歩ける足を持っていることは、別の問題らしい。

 今にして思えば、高架下のあの夜のは、技ですらなかったのだ。相手がすでに崩れていたから、考えなくても拾えたにすぎない。だが稽古では、相手が初めから崩れていたりなどしない。

 自前の足で答えまで歩けない俺は、地図を持ったまま遭難する登山者だった。

 しかも地図は毎回、正確なのである。それが一番こたえた。


  ※


 あの夜から、俺は美晴に会っていなかった。

 メッセージのやり取りはした。合気道部に入ったことも報告した。

 だが同じ部屋の空気を吸うのは、十一月最初の語学が、あれ以来はじめてだった。

 教室に入ると、風を受けてしなる若枝のような、見慣れた三角形が席にあった。

 隣は、いつも通り空いている。


「……お、おはよ」喉が詰まったようになり、うまく挨拶できなかった。

「おはよ」美晴の声も、半音上がっていた。

「隣、いいかな」一か月以上、断りなど入れたことのない席である。

「……どうぞ」椅子の上をぽんぽん。


 三角形は、いつもより細かく揺れていた。

 たぶん、あの夜のことを意識しているのは、俺だけじゃない。

 高架下の救出。いつもより半歩、近くを歩いた夜道。

 そして触れ合った唇の柔らかさ。

 俺の手にとった美晴の冷たい手から、ゆっくり力が抜けていくのが伝わってきていた。あの猫のじゃまが入らなければ、きっとあのあと、もう一度——。

 落ち着け。ここは教室だ。

 落ち着かないまま、俺は横を向いた。

「こないだは——」

 最後まで、言えなかった。

 美晴が、すっと指を立てたからだ。

「……内緒だよ」

 それだけだった。彼女はすぐに前を向いて、教科書を開いた。


 俺は、その指を見ていた。

 指は見えた。唇も見えた。

 だが、その二つがどんな顔の上に載っているのかは、分からなかった。

 あの一言の意味は、たぶん全部、顔のほうにあり、俺はもどかしかった。


 十一月の語学は、手紙文をやっていた。

 佐伯先生は話を脱線させるのが得意である。

「ところで日本の恋愛は、千年ほど、顔も見ないところから始まっていましたね」

 教室が、急に何だという空気になり、みんな思わず顔を上げた。

「垣間見(かいまみ)というのを知っていますか。平安物語では、男は女の顔を見ていません。どこか隙間から覗くくらいのもので、それが垣間見です。それも、たいていは失敗するのですがね」

 黒板に、垣間見、と書かれた。

「相手の顔を知らないまま、歌だけでやりとりをしたのです。声と、筆跡と、歌。人の噂、そして香(こう)。それで足りた。……足りた、というより、それが恋だったのですね」


 誰かが「顔を知らないで好きになれます?」と言った。

「なれたのでしょうね、千年は。顔から始めるようになったのは、ずいぶん新しい話ですよ。はい、続きを」

 それだけだった。先生は手紙文に戻り、教室も戻った。

 俺は人名鑑の余白に、講義とは関係のないことを書き留めた。


「顔を見ないところから始まる。千年」

 書いてから、少し眺めて、消さずに置いた。

 隣で美晴が「なんかロマンチックだね。顔も知らないのに歌だけで」と言った。

 俺は「うん」とだけ言った。

 胸が痛くて、それだけ言うのがやっとだったのだ。


  ※


 稽古帰りの楽しみが、一つできていた。

 土曜の昼、会館を出るところで、三階から降りてくる美晴とよく鉢合わせる。オンケンの午前練とうちの稽古が、ちょうど同じ時間に終わるのだ。

 最初の一、二回は偶然だった。

 三回目からは、どちらからともなく南階段の下で歩調が揃うようになり、それからは連れ立って蛸八へ行くのが決まりのようになった。


 大将は俺たちが並ぶと、注文を聞く前に十二個の型に油を引くようになった。

 手元だけ喋る人の、手元だけの「いらっしゃい」だ。


 十二個入りを一舟。これを二人で分ける。配分は美晴が決めた。

「はい、葛西くん七個ね」

「俺が多く食べてもいいの?」

「筋肉痛の人は多く食べる制度なので」

「いつ発足したの、その制度」

「今」

 七対五である。

「それにしても、なんで筋肉痛だって分かるんだ」

「階段の下り方」

「階段」

「今日、南階段のいちばん下、片足ずつ降りてたでしょ。先週もそうだった。先々週は普通だったよ」

「よく見てるな」と俺は言った。「前から思ってたけど、遠野さん、観察力あるよな」

「うん。見てるけど……」美晴は少し間をおいて続けた。「誰でも見てるってわけじゃ、ないんだけどね」

 美晴は、それきり何も言わなかった。冷めてしまう前に、はふはふと湯気を吹きながら、たこ焼きをやっつけていた。

 俺は彼女の三角形を見た。若枝のようなそれが、ほんのわずかにこちらへ傾《かし》いでいた。

 道場なら、俺はこの傾ぎを読んで、導けばよいのだろう。

 だが、紙舟を膝に載せた男が、今このときに使える技は、一つもなかった。

 

 大将は俺たちのやり取りを聞いていたのかいなかったのか、鉄板の音だけを返していた。

 じゅう、と次の生地が鳴り、千枚通しが、かつんと鉄板を叩く。

 そうして黙っているあいだに、俺のたこ焼きは、ちょうどいい温度を通り越してしまったかも知れない。

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