今日だけ何が変わったんだね
「ところで葛西」理玖はアーケードの天井を見上げた。「ここの通り、うるさくはないか?」
「うるさい?」
「全部に点いてるんだろう。マンホールにも、時計にも、標識にも」
そういう意味か、と俺は思った。
「うるさいというほどではないが、賑やかではあるな」
「そうか」
「ちなみに、俺は毎日ここを通ってるからな。ここで検証するようなことは、何もないと思うぞ」
「検証するとは言ってない。ただ訊いてるだけだ」
それはそれで、この男にしては珍しい態度だった。
「お前の見てるものは俺には一生見えないのだろうな」
「多分そうだろうな」
「残念だ」理玖は心底、残念そうに言った。「そこらじゅうの図形が、自らその中心を示しているというのに」
俺は時計屋の前で足を止めた。
丸い掛け時計が、店先に十いくつも並んでいる。全部の真ん中に、一つずつ光が灯っている。
「俺、ここの店、けっこう好きなんだ」俺は言った。「同じ形のものが並ぶと、点も並ぶんだ。光がずらっと行列してるみたいで、なんかいいぞ」
理玖は時計の列を三秒見た。それから、俺の顔を三秒見て「ずるいぞ、葛西」と言った。
※
アーケードの向こう、鮮魚店と眼鏡屋のあいだの狭いスペースに、白くて丸っこい着ぐるみが立っていた。
魚のような、団子のような、かわいいような、そうでもないような。
そして、どことなく見覚えがあるような。
地元の何かのマスコットらしいそいつが、道行く人にポケットティッシュを配っている。
「葛西、あれには点くのか」
「点く。中に人がいるからな」
理玖は結局、検証を始めてしまう男である。
その先の、アーケードの三つ目の角で、俺は異変に気付いた。
空き店舗がある。もとは「みどりや」という、たぶん洋品店だった。シャッターは下りたまま、貼り紙が日に焼けて白くなっている。
その店先から、袖看板が突き出ていた。鉄の腕木で通路の上に張り出した、縦長のやつだ。よくある看板である。
ただ、そこに点っている光が、おかしかった。
俺は足を止めた。
「どうした」
「あの看板、滲んでる」
理玖の足も止まった。
「今朝のやつか」
「今朝のやつだ。ぼやけて、明滅してる」
俺はアーケードを見渡した。時計屋の丸看板。道路標識。マンホール。停めてある自転車の車輪。全部、くっきりした一点だ。
「この一枚だけだ」俺は言った。「たぶん、もうすぐ落ちる」
「他は全部くっきりか」
「くっきりしてる」
「……確かか」
「確かだ。あと、位置もおかしい」と俺は続けた。「点が、腕木の付け根より外に出てる。今朝の話でいうと、支える場所の外に重心があるってことだろ。だから――」
「いや、あの手の袖看板は、重心は最初から支点の外にある。あれを支えてるのは釣り合いじゃない。ボルトの強度だ」
「そうか」
「……だが、滲みは気になる」
理玖は看板を見上げたまま言った。
「お前の印象では、あの看板が落ちるまで、どれくらいの猶予がある」
「光がかなり滲んでる。そんなに長くはもたない」
「危険だ」と理玖は真剣な声で言った。「相当な重さがあるはずだ。高さも三メートル近くある。こちらにあるのは、ジェンガの塔が倒れる直前に滲んだ、という一例だけだが……だからと言って無視はできない」
理玖は腕木の付け根に近づき、見上げた。
ボルトの周りが、赤茶色に濡れて筋を引いている。錆が、台風で流れた跡だ。
「お前の眼で見たものは、俺以外の誰にも通用しないが。錆なら誰にでも見える。ひとつ、これで注意喚起といこう」
だが結論から言うと、証拠の錆は、たいして通用しなかった。
「すみません!」
俺は排水口を突いていた金物屋のおじさんに、まっすぐ声をかけた。事故の前の俺なら、知らない大人に声をかけて、目を見て、説明するということは出来なかっただろう。俺には十九年間、それができなかった。
だが今の俺には、人の顔が読めない。おじさんが怒っているのか呆れているのか、さっぱり分からない。
分からないというのは、便利なことだった。
「あそこの看板、落ちると思うんですけど」
「あ?」
「みどりやさんの、袖看板です」
「みどりやは去年の春に閉めとるよ」
「じゃあ、あの看板は誰の」
「さあねえ。建物は会長んとこの持ちもんだが、看板はみどりやが置いてったやつだ」
誰の物でもない、ということらしかった。
「とにかく、傾いてるんです」俺は断定してみせた。
「傾いとるかねえ」
おじさんは五歩ほど下がって、看板を見上げて、首をひねった。
「……まあ、そう言われりゃ、そんな気がせんでもないが」
そこへ理玖が出てきた。
「腕木の付け根のボルトが、雨で錆を流しているのです。錆が流れるということは、断面が痩せているということです。あの看板の質量を仮に三十キロとして、腕木の長さから曲げモーメントを概算すると――」
「なんの話だ、兄ちゃん」とおじさんは眉根をよせた。
「――ボルト一本あたりにかかる引張力が」
「何を言うとるか分からんよ。兄ちゃん、どこの子だ」
「汐見大の理学部です」
「理学部かあ」
理学部かあ、で話は終わった。
俺は妙に感心していた。俺の「なんとなく危ないです」も、理玖の曲げモーメントも、この通りでは、伝わらなさにおいて完全に平等だった。
「みどりやさんの持ち主は」と理玖が食い下がった。
「大家は振興会の会長だな。三つ先の、酒屋の裏の家だ」
「今、いますか」
「昼にならんと店には出てこんが、家にはおるだろ」
「葛西、ここは分担しよう。俺は大家のところへ行く」と理玖は言った。「お前はここに残って、看板の下で人払いをしろ。滲みが濃くなったとき、それに気づけるのはお前だけだ」
「分かった」
「三十分で戻る。走るのは苦手だが、ここは仕方がない」
理玖は走っていった。見ていて少し不安になるフォームだった。
※
俺は通行人が看板に近づかないよう、声をかけ続けた。
「すみません、その看板、危ないかもしれません」
「あら、そう」「はいはい」
危ないと言われれば、人はだいたい避けてくれる。理由まで訊く人は、ほとんどいない。
アーケードの幅は、大人が七、八人並べるくらいだ。危険ゾーンはその半分もない。俺が左右を見ていれば、見張りは足りた。だが問題は、通行人ではなかった。
「あんた、さっきからうちの前で何をしとるんだ」
みどりやの隣の乾物屋から、主人が出てきた。
「看板が落ちるかもしれないので、下を空けてます」
「あの看板は、何年もあそこにあるよ」
「今日は危ないんです」
「なんで今日なんだ。今日だけ、何が変わったんだね」
俺には答えられなかった。
台風で錆が流れた、とは言える。だが、それは今日この時間に落ちる根拠にはならない。俺が思っている理由は、俺の目の中にしかない。
「……傾きが、進んでる気がして」
「気がしてで、うちの前に三十分も立っとるのかい」
「はい」
「うちは商売しとるんだよ。店の前に知らん学生がうろうろしとったら、客は入りにくいだろう」
それは、まったく正しかった。
俺は謝った。俺が乾物屋でも、同じことを言ったと思う。
「大家が来るまで待つのは構わんが、少し向こうでやってくれんか」
「分かりました。すみません」
「いや、まあ、あんたも心配で言うとるんだろうけども」
その、やり取りのあいだだった。
俺は乾物屋の主人のほうを向いて、頭を下げていた。西側である。
二、三分だったと思う。長くはない。
だが、俺がその二、三分、東を見ていなかったことだけは、確かだった。
主人が店に戻ってから、俺は持ち場に立ち直した。
通りは、さっきと同じに見えた。
同じに見えたのだ。




