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入部

 旧文化会館は、商店街の外れに立っている。

 木造三階建て、築六十年。壁のクリーム色は日に焼けて、もはや羊羹(ようかん)の断面みたいな色になっていた。

 玄関の引き戸はひっかかって重い。開けるのに両手を要した、土曜の朝十時、五分前。

 一階はロビーと展示室。市民サークルの水彩画が並んでいて、奥の受付に、制服の管理人さんが座っていた。六十がらみ、四つの光がやけにブレなく立っている。

「合気道部の見学に来たのですが」というと、「ああ、合気道部ね。二階だよ。ここは初めてですか。そうしたら階段はあちらの、南側を使うといい」と、廊下の向こうを指さした。

「南側ですか。北側だと聞いたのですが」

「場所は、そうだね。ただ北の階段は鳴くから。……直してもらえないんだけどね」

 (きし)む、ではなく鳴く、と言った。八雲さんが言っていたのと同じ表現だった。試しに帰りに北の階段を下ってみたら、ぎ、と本当に鳴いた。なるほど、生き物寄りの音だった。


  ※


 二階の引き戸を開けると、やけに青い畳の色が目に飛びこんできた。

 朝の光が窓から斜めに入り、青い畳が照り返して、海面みたいに光っている。編みこまれた()()と、汗と、乾いた木の匂いがした。

 これが道場の匂いというものか。なんとなく、古い神社を連想した。


「おう!見学?」

 海面の向こうから、声のでかい人が来た。体も、でかかった。九十キロはありそうな縦横で、声はその体格に、ちょうど見合っていた。

 ところが、近づいてくると、まだ大きく見え始めた。光がでかいのだ。縦の四つの通り道、オイラー線が、他の誰よりも太い。体格に見合った声と、体格を超える光。

「一年の葛西です。八雲さんに、その、誘われて」

「師範代の!聞いてる聞いてる!俺は宮下、二年、ここの副将!よろしくな!」

 握手が万力だった。宮下先輩、と人名鑑の新ページが頭の中で開く。太い。とにかく太い。体も、声も、光も、握力も。


「宮下先輩。声が大きいです。朝から鼓膜に悪いです」

 畳の奥から、雑巾を持った長身の女子が立ち上がった。ジャージ。完璧な姿勢。光の通り道が、短い棒のようにすっと通っていて、両端に行き届いた伸びを感じさせる。ただ真っすぐなだけの人なら結構いるのだが、きちんと手入れされたまっすぐ、というか。

 彼女は雑巾を桶に戻し、俺を上から下まで、一往復だけ見た。

「見学の人?」

「はい。経済学部一年の葛西といいます」

「紺野です。法学部一年。こんな時期に見学ねえ」

「紺野。彼、八雲さんのスカウトだぞ」と宮下先輩。

「師範代の?」紺野さんの眉が上がった。「あの人、勧誘なんてしないのに」

「珍しいこともあるもんだけども」

 のんびりした声がして、湯呑みを持ったおじいさんが、畳の縁に正座した。小田島さん、六十二歳、会計係。元は市の水道局員とのこと。光の点の並びは、きちんと通って歪みがなく、年齢を感じさせない。長い年月をかけて磨かれた感じがある。


 合気道部は汐見大学の団体だが、外部との交流という名目で、学外からも、こうして参加者がいるという。目の前で湯呑みを傾けている小田島さんは、その古株だった。

 ちなみに、大学にも道場はあるのだが、部員の多い柔道部と空手部が使っている。合気道部は、この文化会館に追いやられている形だが、メンバーはけっこう、その状態を気に入っているようだ。

「学内の道場は、順番待ちだ、時間割だとうるさいからな!ここなら畳は朝から晩まで俺たちのもんだ!」と宮下先輩は言い、小田島さんは「わしらも参加できるし、通り道に商店街があるのがいい」と言った。紺野さんは「ここの青い畳になれると、大学の道場の畳の色は、ちょっと物足りないわ」と言った。

 そして、いつの間にそこに立っていたのか、八雲さんが言った。「極めつけは、ここの階段の鳴く音だ」と。「週四日の稽古の前後、あれを聞くことが、知らず、我々の心に節目を作っているのだ」。なんだかよく分からない意見だったが、宮下先輩も、紺野さんも、小田島さんも「うんうん」と頷いていた。

 それから、八雲さんは俺の方をみて「来たか」と言った。来る、と分かっていた声だった。


「あと、主将がいるはずなんだが」宮下先輩が道場を見回した。「大隈さーん? ……あれ?」

「さっきから、そこにいるけども」と小田島さん。

 窓際に、リクルートスーツの人が立っていた。全員が、俺も含めて、二度見した。最初からいたらしい。挨拶もしたらしい。誰も覚えていなかった。大隈主将、三年、就活の学内セミナー帰り。「どうも」と言った声も薄かった。

 俺は、この人の胸元を見て、眼の新事実を一つ拾った。光が、薄いのだ。他の八人と同じ、七つの配置。なのに、露光を三段落としたみたいに薄い。存在感が薄い人は、光まで薄い。二か月の観測で初めて出会う型だった。人名鑑の大隈ページの一行目は、こう決まった。「主将。声も光も薄い」。


  ※


「見学じゃなくて、体験にしよう」

 いつの間にか、八雲さんが俺の隣にいた。いつの間にか、というのがこの人の標準の登場方法らしい。稽古着姿の八雲さんは、私服のときより輪郭がはっきりして見えた。胸の奥の一点は、今日も一点のままだった。

 体験は、受け身から始まった。

 後ろに転がる。ただそれだけのことなのだが、顎を引け、背中を丸めろ、畳を叩け。言われた三つを同時にやろうとすると、体の中で渋滞が起きる。宮下先輩が手本を見せると、小柄な体がころんと後ろへ転がって、音もなく立ち上がった。あの太い光が、回転のあいだ、まったく乱れなかった。丸太が回っているみたいだった。体格の話ではない。光の話だ。

「分かった?」と宮下先輩。

「分かりました」

「じゃ、どうぞ!」

 分かった、とは言った。実際、見えてはいたのだ。宮下先輩の縦四つが回転のあいだどう流れたか。だが俺の体は、見えた通りに動かなかった。もつれたような、こんがらがったような、いかにも不器用な感じがした。二十回目くらいの失敗のとき、後頭部を庇い損ねかけて、紺野さんに襟を掴んで止められた。

「あんた、頭なんて絶対打たないでよ。うちの部から救急車なんて出たら、悪評が立って潰されちゃうんだから」

「……はい」

「紺野、せっかく体験に来てくれたんだ。もっとやさしくしろ!」と宮下先輩が笑った。

「あと、さっきから床のどこ見て転がってるの。転がる前に、一点をじっと見る癖、やめな。もっと広く見たほうがいい」と紺野さんはお構いなしに言った。

 図星を突かれた。実は、畳の目を数えて着地の点を探していたのだ。アドバイスの通り、全体を広く見るようにしたところ、何となくやりやすくなったような気がした。一年生だと言っていたが、ここより前から経験者だったのだろうか。休憩のとき、訊いてみることにした。

「合気道は四月から。だけど剣道やってたからね。中学から六年」

「それが、どうして合気道に転向したんですか?」同期だが、ここでは先輩だから敬語を使った。六年への敬意も込めて。

 彼女は自分の右肘を、ぽんと叩いた。「肘をケガしちゃって。竹刀はもう振るなって。……で、振らなくていい武道を探してたら、ここにいたの」

 あっさりした言い方だった。だが、観察の鋭さには合点がいった。そして、彼女の光の通り道が、すっときれいに通っているのは、その六年があったからだということも理解した。そこまで続けたことを振り切るのは、きっと簡単なことではなかったのではないか。しかし俺は、紺野さんのあっさりした言い方にならって、ただ「そうだったんですか」とだけ言った。後日、人名鑑の紺野さんのページに「剣道六年。線がきれいに通る」と書いた。


 十一時、稽古の見せ場があった。八雲さんが、技の手本を見せたのだ。

 受けは宮下先輩。丸太のような光が、気合いの声とともに正面から打ち込んでいく。八雲さんは、半歩、斜めに入った。宮下先輩の太い縦四つが、大きな弧を描いて空中を流れ、青い畳の上でどうんと受け身の音を立てた。道場の空気が一拍遅れて揺れた。

 語彙(ごい)が、飛び去った。

 すごい。何だ今のは、すごい。腕に鳥肌が立っていた。

「もう一本!」と宮下先輩が跳ね起きた。二本目も、同じだった。そして三本目と四本目も。俺は瞬きも忘れて見ていた。そして五本目、八雲さんの胸の奥の、点のふるまいに気づいた。

 まるで正三角形のように、ひとつに重なった八雲さんの点。それは動かないのだと、俺は思っていた。だが違った。技の起こりの一瞬、あの一点が、ふ、と四つの点にほどけたのだ。それが、ばらけたと思った次の瞬間には、もう集まり直していた。元の一点へ。ちょうど一息の呼吸で、開いたものが閉じるように。

 宮下先輩の体が宙に浮いたのは、ちょうど、その閉じる瞬間だった。

 八雲さんの力は、ばらけた点が集まり直す、その刹那に生まれているように見えた。固まったままの一点が強いのではないのだ。しなやかにほどけ、迷いなく、戻ってくる。その戻りの速さと正確さが、あの人の静けさの正体らしかった。まるで河だと俺は思った。よどみない大河も、二十四時間ずっと流れている。けれど全体として一つに見えるのは、流れが完璧だからだ。

「もう一本!」宮下先輩が跳ね起きた。投げられながら、声が嬉しそうだった。この人は投げられることが嬉しいのだろうか。人名鑑の宮下ページに特記事項として書き込むことが確定した。


 十一時半、稽古の締めは雑巾がけだった。

 地獄だった。青い畳を上げた板の間を、端から端まで、往復。紺野さんの号令が速い。「はい折り返し!遅い!膝じゃなくて足で押す!」。三往復目で腕が背中と腰ごと売り切れになり、五往復目で人生を再考し始めた。隣のレーンでは小田島さんが、六十二歳とは思えない安定した雑巾がけをしていた。線がまっすぐな人は、雑巾もまっすぐ走るらしい。俺の雑巾は左へ右へと蛇行した。線は、ずれの記録である。俺は床にその記録を残してしまった。


  ※


 稽古後の麦茶の時間に、その話は出た。

「守る会の署名、今月中にもう一声欲しいんだがね」

 小田島さんが、湯呑み片手に、綴じた紙の束を畳に置いた。表紙に「旧文化会館を守る会」とある。世話人の欄に、小田島さんの名前。

 聞けば、この会館には取り壊しの話が出ているのだという。築六十年、耐震だ老朽化だで、市の建て替え計画の候補に載って、もう二年。壊す金も建てる金もないから宙ぶらりんのまま、しかし計画のリストからは降りない。守る会は商店街の人たちと利用サークルで作った会で、補修して使い続ける道を探している。

「ここはね、戦後の復興のときに、町の人が金を出し合って建てたんだよ」小田島さんは湯呑みを両手で包んだ。「材木を運んだのも、床を張ったのも、半分は素人の町衆でね。だから図面通りじゃないとこが、あちこちある。北の階段が鳴くのも、そのせいでね」

 図面通りじゃない建物。人間で言えば、ずれの多い三角形だ。そのずれ込みで六十年立ってきて、六十年ぶんの町のサークルと、発表会と、演武と、バンド練習を、二階と三階に住まわせてきた。署名簿をめくると、商店街の店の名前がずらりと並んでいた。蛸八。ツバメ古書店。純喫茶らんぷ。知らない名前の八百屋と、知らない名前の金物屋。

「ここが無くなったら、うちの部も終わりだ」と宮下先輩が、珍しく静かな声で言った。「ここの二階が、うちの部の全部なんだよ」

「三階の音楽の子たちも、行き場がない」

 三階。オンケン。俺は天井を見上げた。そういえばさっきから、稽古の合間、天井越しに低い音が落ちてきていた。ずん、ずん、と床板を撫でる、ベースの音。あの真上のどこかに、遠野美晴がいたのかもしれなかった。

「兄ちゃんも、よかったら」小田島さんが署名簿をこっちへ滑らせた。「あ、いや、入部してからでいいんだけども」

「入ります」

 口が先に言った。頭は会議中だったが、口が単独で決議した。

 自分でも意外だった。俺は即決の人間じゃない。たこ焼きは冷めるまで待つし、ここぞと言うときに肝心の一言が言えない。だがこのときは、待つという工程が、頭の中のどこにも生成されなかった。

 八雲さんが、俺を見た。

「なぜ入る?」

 試してくるような声だった。俺は麦茶を置いて、持っている中でいちばん正直な答えを出した。

「俺が今日みたもの……いや、今日だけじゃないんですけど、見てるだけじゃ分からないことが多くて。それを、何ていうか」

「確かめたいわけだ」

「……はい」

「よし」声の角が、丸くなった。「いい動機だ。これからよろしく、葛西くん。君を歓迎するよ」


  ※


 入部届は、影からそっと、気配もなく差し出された。受け取ってから振り向くと、大隈主将が立っていた。

「入部届、こちらに」

 氏名、葛西湊。

 学部、経済学部。

 経験の有無、無し。

 当面使える白帯と道着は、道場の物入れから出てきた。誰かが置いていったものらしいが、あまり使い込まれた感じはしない。結び方が分からず正面で団子を作っていたら、小田島さんが「貸してみな」と言って、俺の腰でするすると結び直してくれた。

「はい、一丁上がり。……うん、白帯は、いいもんだよ」

「いいもの、ですか」

「うん、これからを感じさせるし、同時に懐かしいような気さえするんだけども」と小田島さんは言った。

「白帯か。ある意味、俺と同じ帯だな」と八雲さんは言った。

 八雲さんが白帯だというのは一種のジョークである。八雲さんはもちろん黒帯だが、長年使い込まれて色が抜け、芯のあたりが、ほとんど白に戻りかけていた。「一周まわって白」と宮下先輩は言った。同じ白でも、意味するところは両極だった。ところで八雲さんは、一人称がこの間までの「私」から「俺」になっていた。きっと俺が入部したのに伴って、「よそ行き」になるのをやめたのだろう。

 帰り際、道場の姿見の前を通った。鏡の中で、知らない男が白帯を締めて立っていた。俺は足を止めて、しばらくその男を眺めた。眉の太い、痩せた、姿勢の頼りない男。表情は分からないが、白帯だけは、妙に似合っているようだ。


  ※


 外に出ると、昼の商店街はコロッケの匂いがした。俺はスマホを出して、美晴にメッセージを送った。

「合気道部に入った。今日から白帯」

 返信は、揺れる犬のスタンプに続いて、三通来た。

「おお!」「早いよ!?あの夜からまだ三日だよ?」「今度から同じ建物で部活だね。私が真上で葛西くんが真下。よろしく!」

 真上の彼女がベースを鳴らし、真下の俺が畳に転がされる。あの木造の箱の中の配置として、なんだか、悪くない気がした。理玖には「合気道を始めた」とだけ送った。返信は一通「被験体が自走を始めた」。喜んでいるらしかった。こいつの日本語は、たまに翻訳が要る。

 見学に来たときの俺は、正直、少し舐めていたと思う。なにせこっちには、答えが見えている。中心線とやらを十年かけて探す必要が、俺にはない。すぐに強くなれるだろう、と。だが結論から言えば、俺はここから三か月、投げられ続けることになる。

 ある意味、一番贅沢な負け方、というやつの話だ。

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