ジェンガなら無敵なんじゃないのか
台風が汐見の町を通り抜けた。
翌朝は、夜のあいだの嵐が噓のような晴れだった。
その日、南理玖は、午前十時に俺のアパートへ来た。
手に、箱を提げていた。
「なんだそれ」
「ジェンガだ」
「なぜジェンガを」
「決まっている。積み木は、重心の実験装置として優秀だ」
「素直に遊ぼうって言えよ」
「手放しで遊びに来たってわけじゃない」
そう言って、この男は一時間ジェンガをやるのである。
六畳の真ん中に、塔が建った。
五十四本。三本ずつ十八段。
立ち上がった瞬間、塔の真ん中あたりに、光が一つ点った。
「点いたか」
「点いた。まん中へん、下から七段目くらいの高さ」
「全体で一つか。ブロック一本ずつじゃなく」
「一つだ。あ、でも」俺は目を細めた。「一本ずつも、うっすら点いてる」
「濃い薄いがあるのか」理玖はノートを開いた。「それは新しい」
三本抜いたところで、俺は気づいた。
塔の光が、動くのだ。ブロックを一本抜くたびに、ほんの少しずつ、位置を変えていく。抜いた側と反対へ、じりじりと。
「点が移動してる」
「するだろうな」理玖は当然だという声で答えた。「質量が削られれば、重心は残ったほうへ寄る。抜く場所によっては上へも下へも動く」
「なあ、もしかして俺、ジェンガなら無敵なんじゃないのか」
「いや、そんなにうまくはいかないだろう」と理玖はいった。
その意味は、七本目で分かった。
「これ、抜いていいやつかな」と俺は訊いた。
「知らん。見えてるのはお前だろう」
「俺に見えてるのは、塔の重心がどこかってことだけだ」
「だから言ったろう。そんなにうまくはいかない、と。倒れるかどうかは、重心だけじゃ決まらない」
「他に何が要るんだ」
「たとえば摩擦だ。ブロックは木で、木同士で擦れてる。上の段の重みで押さえつけられてるやつは、重心と関係なく抜けにくい。逆に、遊びのある段は、すかすか抜ける」
「なるほど」
「それに一本抜けば、その瞬間に上の段が沈むからな。沈めば重心が動く。お前は未来の重心までは見えないはずだ」
その通りだった。
理玖は箱の底で塔の一階部分を指した。
「倒れるかどうかは、重心が『支える面』の外へ出るかどうかで決まる」
「支える面」
「いちばん下で地面と接している面。それが塔全体の支持基底面だ。重心を真下に落として、その中に入っていれば立つ。外へ出たら倒れる」
俺は塔の底面を見た。それから、真ん中に灯った点を見た。
入院中に、指の上で厚紙を釣り合わせた課題を思い出した。あのときの支えは指一本、つまり点だった。だが実際のものは、たいてい面で立っている。
「だが今言ったのは、あくまで塔全体を一つのかたまりとみたときの話だ」
理玖は続けた。
「実際の塔は、いたる所が弱い。だから二段目以降のすべての段が、その上に載っている部分の支持基底になっている構造だ。お前の目が、その構造をどこまで深く見抜けるか、だな」
そんなふうに言われると、自信がなくなってくる。
塔が高く、細くなってきた頃、俺は新しい現象に気づいた。
光が、滲み始めたのだ。
段が抜けて塔が痩せてくるにつれ、輪郭がぼやけてくる。米粒みたいだったものが、綿毛のように広がる。
そして、明滅した。
消えるわけではない。呼吸するように、濃くなり、薄くなり、また濃くなる。
「理玖」
「なんだ」
「滲んでる」
「滲む?」
「塔の点がぼやけて、明滅してる。さっきまで、くっきり一点だったのに」
理玖のペンが、止まった。
「いつからだ」
「十二本目くらいからかな。気のせいかと思ってた」
「気のせいで済ませるな」
俺たちはその場で確かめた。
新しく積み直した塔は、くっきりとした点がついていた。それが十本ほど抜くと少しぼやけ始め、倒れる直前になると、はっきり滲んで明滅する。
「危ないほど、滲むらしいな」と理玖はつぶやいた。
「そうみたいだ」
「なぜ滲むと思う」
「知るか。俺の目に訊いてくれ」
「頼りにならん持ち主だ」
理玖はノートに何か長く書きながら訊いた。
「重心の位置は、分からなくなるのか」
「いや……だいたいの見当はつく。ただ、さっきまでみたいに一点には決められない」
「一点に決められない」
「にじんでる範囲のどこか、って感じだ」
「候補が広がったのか」
理玖はあごに手を当てて考えながら言った。
「重心がくっきりしているのは、こいつが一つの塊のときだけだ。だが崩れかけてるとき、こいつは塊であることをやめかけてる。お前の目が、塔ぜんぶの重心を見るか、途中の段から上の重心を見るか、決めかねているのかも知れん」
「なるほど」
「それとも、波動の重ね合わせのようなものなのか……」理玖はノートに目を落としたまま、そう言った。「あるいは、重心の存在確率を示す雲か……」
何の話だかついていけない。どうも俺に向かって言っているのではなさそうだった。
「いや。そんな仮説を立てたところで、確かめようもない……」
「なんの話だ」
「なんでもない。忘れてくれ」
理玖は書きかけた行に、線を引いて消した。
結果を言うと、俺は九連勝した。
「お前が多少は有利だろうと思っていたが」十本目を抜き終えた俺を見て、理玖が言った。「まさか、ここまでとは」
「重心の位置と、現在の危険度が分かるからな」
俺は、得意になって言った。
「ちょんちょんとつついて、光があまり変化しないやつを抜いたらいいのさ」
「世界大会にでも出たらどうだ」
「ジェンガに世界大会があるのか」
「知らん」理玖は即答した。
だがその数分後、俺は塔を倒してしまった。塔が、ぐらり、と傾いで、五十四本が畳の上に散らばった。
「今の、見えてたんだろう」と理玖は訊ねた。
「見えてたけど、指が震えたんだ」
「まあ、お前らしいといえばお前らしいが」
※
午後になって、俺たちは外へ出た。
理玖には用があるという。俺も付き合うことにした。
「ツバメ古書堂に取り寄せを頼んである」
「なんの本だ」
「整数論の講義録だ。昭和三十年代の翻訳で、絶版のやつだ。今の教科書に載っていない証明が、一つ入ってる」
「その一つのために買うのか」
「十分な理由だ」理玖は、当然という声で答えた。
ツバメ古書堂は、汐見銀座でいちばん狭い店である。理玖はその常連らしかった。
店先の丸椅子に、小柄な店主のおばあさんが座っていた。
「あんた、連れがおるのは珍しいね」
「友人です」と理玖が言った。
俺は会釈をした。
「そう、いらっしゃい。よかったら見ておゆき」おばあさんはそれだけ言って、奥へ向かった。
棚は天井まであって、通路は本の壁で、二人並ぶともう肩が擦れた。
やがておばあさんは、奥から紙包みを出してきた。取り寄せの本である。
理玖はその場で紐を解いた。
出てきたのは、函入りの一冊だった。『整数論講義』。旧字体。
「これだ」
「えらく古い本だな」
理玖は目次を三十秒読み、本文をぱらぱらと開いた。途中で手が止まった。
「おや、これは」
覗くと、余白に鉛筆の細かい字で、書き込みがびっしり入っていた。式が途中まで書き直され、線が引かれ、消しゴムで消した跡がある。かなり古い字だ。
「前の持ち主のものだな」理玖はそう言ってページを何枚かめくった。書き込みは、ある章の途中から急に増え、その先で、ぱたりと途絶えていた。
「……ここで詰まったようだ」理玖はその余白を、指の腹で撫でた。「同じところで、俺も三日かかった。五十年前にも、誰かが同じところで止まったわけだ」
理玖は本を函に戻して、包み直した。
「では、また来ます」
「本は自分で選びな。取り寄せてばかりじゃ、つまらんよ」
「探している本があるんですよ」
「探しとる本しか買わん人は、探しとらん本は一生出会えんよ」
理玖は、少し黙った。そして「心得ておきましょう」と言った。
理玖にしては素直な反応だ。今日、探していない書き込みに一つ会ったからだろうかと俺は思った。
※
店を出たあとの理玖は、機嫌がよかった。
包みを小脇に抱え、心なしか、いつもより歩幅が広い。
「そんなに嬉しいのか、その本」
「嬉しい」
「数論って、何をやるんだ」
「整数だ」
「整数。1, 2, 3, …ってやつか」
「そうだ。誰でも知ってる数なのに、分かっていないことが山ほどある」
理玖は包みを持ち直した。
「素数がどう並んでいるか、いまだに誰も知らない。二千年以上、人類が数え続けている数の並びなのに、次に何が来るかは分からない。……いちばん身近なものが、いちばん解けていない。俺はそういうのが好きなんだ」
なるほど。
この男はそういうものが好きで、それで俺の部屋にジェンガを持ってやってくるわけである。




